41 彷徨う音

 トニアは家に帰るなりすぐさま受話器を手に取る。前に実家に電話をかけた時とは違い、彼女の瞳は開いたまま、しっかりと窓の外を捉えていた。


『はーい。どなた?』


 陽気な声が答えると、トニアはぱっと花が咲いたように笑う。


「ダーチャ! ごめん、いま大丈夫?」

『トニア? あらまびっくり。わざわざ私のところにかけてくるなんて!』


 電話の向こうの声は、驚きながらも弾むように明るい。実家ではなく、今日は直接ダーチャが暮らす家へと電話をかけた。彼女は都市部で一人暮らしをしているため、こちらの方が確実だ。


「うん! あのね、ダーチャに聞きたいことがあってね」

『えー? かけてくるなりそれ? もう、もうちょっと近況報告とか、楽しい話とかはないの?』

「あっ、ごめん。調子はいいよ! すっかりね。ダーチャのおかげかな」

『なんだかとってつけたような言葉ね……。まぁいいわ、聞きたいことって?』


 少し不満そうに口を尖らせるダーチャ。トニアにはそれが分かり、「本当なんだけどな」と嘘ではないことを小声で付け足す。


「あのね、ダーチャ、警察の人にも知り合いっているよね? ちょっと、知りたい事件があるの」

『事件? 何、トニア。あんた探偵にでもなったの?』

「あははは。違うよ。私にはそんなの無理! そうじゃなくてね、前に話した音楽家の人。あの人と話をして、私、ようやく友だちになれた気がするの。だけど、その人、ちょっと悩みを抱えていて……それでね、私、その人の力になりたいんだ」

『力になる? それがどうして事件につながるの?』

「ええっと。あの……その事件の、関係者? かもしれなくて……」

『ちょっと……あんた犯罪者と一緒にいるんじゃないでしょうね? 犯罪組織とか、危ない人と付き合わないでよ?』


 ミハウの詳細を語るのを避けたことで思わぬ誤解を招きそうになり、トニアは慌てて否定する。


「大丈夫だよ。全然、そういうのじゃないから……!」

『そうなの? もしかして音楽は趣味で、本業は探偵見習いさんとか? まぁ、細かいことはいいわね』


 トニアはダーチャがどちらかというと豪快な性格であることを把握していた。大枠で捉えてくれるからこそ、今回ももしかしたら力になってくれるのではと期待したのだ。


『で、何の事件?』


 ダーチャの声色が変わる。まるで自分が証人尋問を受けるみたいでトニアは余計に緊張した。


「結構前のことなんだけど……あのね……」


 トニアはダーチャに負けないくらいはっきりとした口調でメモを読み上げる。紙面で目にした事件の日付から考えると、まだギリギリ捜査対象期間からは外れていないはずだ。

 ただの興味本位でも、ましてや犯罪の片棒を担ぐわけでもない。そんな自分の意思を表明するために、トニアは静かに瞳を光らせているであろうダーチャに向かって信念を込めた祈りを伝えた。




 ダーチャから連絡があったのは、トニアが彼女と会話してから五日が経った頃だった。

 夕飯を終えてのんびりしているところに、普段はあまり音を立てない電話が鳴ったものだから何事かと飛び上がってしまった。最初はミハウが久しぶりに電話をかけてくれたのかと思ったが、受話器から聞こえてきたのは潜めた興奮が見え隠れするダーチャの声だった。


『この前の事件のことだけど……』


 ダーチャの口からその言葉が出てくると、トニアは高まる緊張に耐え切れず、クッションを抱えてベッドに座り込んだ。


『トニア。あなたの読みは当たっていたわ』

「…………それって」


 トニアは受話器を持つ手が震えているのに気づき、ぐっと指先に力を入れる。


『ええ。残念だけれど、彼は確かにソグラツィオの音楽家だった。アルヴァー・カンテレラ。調べてみたけれど、もともとは王室の関係者みたいね』

「…………うん」


 ダーチャの告げた名前にトニアは小さく頷く。彼の名は新聞で目にした。ミハウの父であり、国内でも有数の音楽家として名を馳せていた。少し彼のことを調べてみたら、彼はミハウに似て音楽に情熱のすべてを捧げていて、世界中の楽曲に興味を示していたと聞く。

 そんな垣根のない彼の好奇心を慕う者も多く、大好きな仕事とかけがえのない仲間に囲まれ、とても充実した日々を過ごしていたことだろう。だからこそ彼は危険を冒してまで仲間のために禁じられた音楽を手にして、彼らの好奇心までをも封じることを拒んだ。


「そう。やっぱり、そうなんだ……」

『トニア……本当に、残念だわ』

「ありがとうダーチャ。調べてくれて」


 引きずられるようにして声が沈むダーチャにトニアは柔らかな声でお礼を伝える。


「これではっきりした。その方が、いいと、思う」


 でもこのことをミハウに伝えるかはまだ決めていない。自分にはそんな勇気も度胸もない。トニアの爪はぎゅっとクッションに食い込む。


『警察の知り合いに聞いたの。未解決の怪奇事件として残されていたわ。なんでも、身元は分かったんだけど、彼の母国の協力が得られなかったみたいでね。捜査は進められなかったみたい。彼は、小さな町の外れで倒れていたのを発見されたそうよ。その小さな町で、ひっそりと暮らしていたとか』

「……うん」

『でも、外傷も何もなく、病気とか、毒を盛られた形跡もなかったみたいで、命を落とした原因は不明。彼が何者かも、唯一家に遺されていた物でどうにか分かったようなものだし。とにかく謎が多い事件だったって』


 ダーチャは知り得た情報を慎重に話す。


「家に、何か遺されていたの?」

『ええ。そう。遺品よ。証拠として保管されているみたいね』

「…………え?」


 まさかの発言にトニアはクッションを抱きしめる腕から力が抜けていく。


「遺品が、あるの?」

『あるわよ。小さな段ボールに収まっちゃうけどね』


 コッコッコ、と、重たい時計の針が進む音だけがトニアの部屋を包む。言葉を失ったトニアは受話器を耳に当てたまま。彼女の膝の上からはクッションが倒れる。


『トニアー?』


 急に無音になった耳元に、ダーチャは電話の調子がおかしいのかと何度かトニアの名前を呼んだ。


「そ、それっ……! それって、貸してもらえたりしないかな!?」

『……ん? 貸して?』


 ぎゅうっと耳に受話器を押し当てていたダーチャは、突如爆発した彼女の声に思わず受話器を遠ざけた。


「そう! そうそう! 遺品を貸してもらえない!?」


 トニアは声の音量を抑えきれないままに興奮した様子で続ける。


『え? ちょっと待ってよ。そんなことしてどうするの? 事件の詳細が知りたいだけじゃ?』

「そうだったんだけど……! 遺品があるなら話は変わってくる!」

『そう、なの?』

「うん!」


 ダーチャは少しだけ考えてから、「そういえば」と宙に浮かぶ声を出す。


『遺品の中に、楽譜があったって言ってた。知り合いは、それをどうしたらいいのかって、確か悩んでいたわ。なんでも、処分する気にもなれないし、でも、勝手な憶測かもしれないしって言って』

「楽譜……?」

『そう。私も見てないんだけど、どうやら彼はマニトーアに来てからその曲をずっと作っていたみたいで。私は楽譜があんまり読めないから多分、見ても分からないだろうけど、知り合いはちょっとかじってるから、良い曲だって、感激してたなぁ』


 ダーチャはしみじみとした様子でうんうんと頷く。

 トニアはダーチャの話を聞き、ミハウの歌声が耳に戻ってきた。

 彼が最期に遺した音楽。

 一体どんな音色が奏でられているのだろう。どんな感情を遺したのだろう。

 追いつかない憶測が胸をせかした。


「ダーチャ、無理ばかり言ってごめんなさい。だけど、やっぱり、どうしても……どうかその楽譜だけでも、貸してもらうことってできないかな? どうしても……どうしても見てみたいの」

『トニア……』

「お願い……! お願いします……!」


 もしかしたら、その音が彼を救うかもしれない。

 トニアは勝手に滲む涙を瞳に残したまま、誰もいない部屋の中で何度も頭を下げた。


『…………分かった。難しいかもしれないけど、お願いだけはしてみるわ』

「……! 本当!? ありがとう! ありがとうございます! ダーチャ!」


 静寂に光をもたらしたダーチャの声。もし目の前に彼女がいたら勢いのまま抱き着いていたことだろう。ベッドに飛び込むようにしてもう一度頭を下げたトニア。落としたクッションを拾い上げ、ぎゅーっと抱きしめる。


「無茶なのは分かってる! どんな結果でも、私は構わないから……!」

『まったくもう……。そっちで一体何をしているのか知らないけど、本当にトニアは、一直線だものね』

「え……?」

『トニアは絶対に諦めてはくれないもの。あなたがそんなにお願いすることなら、多分、すごく大事なことなのでしょうね。でもね、私もあなたに負けないくらい押しが強いの。私に任せなさい!』

「ダーチャ……!」


 誇りに満ちた彼女の宣言に、トニアは砂漠に降り注ぐ雨を見上げるように瞳を輝かせる。

 それから数日後、ダーチャは宣言通りトニア宛に小包を送ってきた。

 トニアはどきどきしながら箱を開け、中に収められた封筒を手に取る。

 彼が遺した旋律を目にした彼女は、箱を開ける前まで恐れていた靄が一気に晴れていく。


 長い間保管されてきた少しよれのある紙。ざらざらとした表面の上には、万年筆でいくつもの記号が少し癖のある形で描かれている。彼の筆圧すら感じられるその名残に、見たこともない彼と同じ空気を吸った気がした。


 決断することができなかった選択。今の彼女にはもはや、その代わりなどない。

 楽譜に涙が落ちないようにトニアは腕を曲げて袖でそっと目元を抑えた。

 彼が遺した時間をミハウに伝えないなど、それこそ臆病者のやることだと、トニアは赤い紋様に誓いを立てる。

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