香水

『ね、つけてみてよ』

 ふと、ほのかに香った匂いとともに、懐かしい言葉が頭の中で反芻された。

 東京の片隅にある商業ビルの一角。明るすぎる照明に目をやられそうになりつつ、自分が少しだけ大人になっているような、そんな気がした。仕事帰り。グチグチ嫌味らしく俺を軽蔑する上司を尻目に仕事を切り上げて疲弊した身体。彼女の誕生日プレゼントを探すために立ち寄った香水専門店で嗅いだその香りを、体は覚えていた。

 目星をつけていたシャネルの香水を見つけ、レジで会計している最中、その匂いの元が目に入る。

「気になりました?」

「あ…いえ。あの香水、懐かしいなって思ったんです」

 レジ打ちの女性は微笑するとそのまま、手際よく紙袋に入れていく。

「…わたしたちにとって大切だったことって、体の感覚で覚えているんです。頭から、抜け落ちていたとしても」

 だから、今思い出した思い出も、あなたにとってきっと、すっごくいい記憶なんですよ__そう、店員は続けていた。

 家路に着いてから三十分後、自宅のドアを開けた。彼女の誕生日は四日後。それまで、家のどこかに隠しておかなきゃ行けない。せっかく仕事を早めに切り上げてこうやって隠してるんだから、絶対にバレない場所がいい。どこがいいかと思案しながら目に入った押し入れを開けてみた。

「お、ここいいじゃんか」

 押し入れの二段目、右奥。ここなら多分彼女からも死角だし、取ろうにも取れないと思う。背伸びして、少しだけ大人びた香水をそこに置く。__と、その奥に何か紙袋のようなものがあることに気がついた。

「ん?」

 手に取ると、捨てたハズの香水。それは、先の香水の店で香った匂いと同じモノ。なんでここにあるんだろ、なんて考えもせずに俺はその香水を開けた。頭はとっくにもう、あの頃のことを考えている。

 確か、高校二年の春。元カノの、話を聞いていた。

 

「ね、つけてみてよ」

 放課後の教室。カーテンを揺らす風が、微かな桜の匂いを運んでいる。

「いーよ」

 その日は俺の十七回目の誕生日でも、一年の記念日でもなかった。だけどあいつは、その香水を俺にプレゼントした。

「うお、結構いい匂いや」

「でしょでしょ?やっぱウチ、いいセンスしてるね」

「どーだか」

笑いながら、そんな話をしていた。

結局、あいつとはその後別れた。理由は別に特別なことじゃない。なんとなく、冷めた気がして、終わったような気がしてた。それは多分どっちも感じていたことだったから、特段悲しい別れじゃなかった。

「ウチ、海外で働きたい」

そんなことを言い残してあいつはカナダへ飛び立った。インスタにアップされている雪の写真はきれいで、懐かしかった。ブランドの服を着たあいつに、いつの間にか大人になったな、なんて、そんなことをずっと思っていた。


「結局、この香水使ったのはあの時だけか」

ドラッグストアだったらどこにでも売っているような、安っぽい香水。今日買ったシャネルの香水なんかより、ずっとチープなシロモノ。でも、一回嗅いだだけのこの匂いを、香りを、体は覚えていたらしい。

「馬鹿らし」

少し苦笑混じりにそう独り言ちて、そんな思考をやめる。

玄関の方から鍵の開く音が聞こえたので、急いで買った香水を仕舞いに取り掛かった。



今日も、

今日も明日も、明後日も。

僕らは背伸びをする。

いつだって、大人になったフリ。

でも、それでもいいんじゃないかな、なんて思ったりして。

きっと全部、あの香水がそうさせたんだ、と勝手に考えた。

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短編集:ゴミ箱と愛情 上春かふか @Kafka_lissele

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