第9話 憧れの人がくれた飴は…

「あれ、ちょっと待って」

 今まで大して振り返ることがなかったから気づかなかったが、あの人ははっきりと植物から飴を作ったと言わなかったか。しかも植物や自然にあるものを組み合わせて薬を作ると説明していなかったか。

 桂花は思わず布団から飛び起きてしまう。

「えっ、ちょっと待って。じゃあその人も漢方を扱っている人だったってこと」

 思わず動揺してしまったのは、あまりに法明との共通点が多いからか、それとも自分の迂闊さからか。それとも両方か。あの人は本当にお寺の前まで桂花を送り届けてくれて、そして気づいた時にはいなくなっていた。

 お礼を言う暇さえなく消えてしまった人。あの人は一体何者だったのだろう。

「まさか薬師寺さん本人なんてことは……ないない。だって年齢が合わないもの」

 動揺して憧れの人と法明がイコールで結ばれそうになったが、それは絶対にない。断じて起こりえない。そもそも思い出の中の人はすでに三十代だった。それははっきりと断言できる。小学五年生とはいえ、大人の大体の年齢は推測できるものだ。そして、法明は現在三十五歳。絶対にイコールではない。

「ああ、駄目だ。完全に目が醒めちゃった」

 しかし、考えれば考えるほど、頭の中はぐちゃぐちゃになっていく。桂花は布団から抜け出すと、そのままひんやりとした廊下へと出た。そしてゆっくりとお寺の本堂の方向へと歩き出す。

「こういう時は無理に寝ないで、一度リセットするのが肝心」

 思わず細部を思い出して動揺する自分を落ち着けようと、深呼吸をしてしんと冷えた夜気を吸い込む。ほんのりと空気に線香の香りが混ざっているのはお寺特有だ。ここではよく沈香が焚かれていて、気品ある香りが充満している。その香りを堪能していると気分は落ち着いてきたが、ますます目が醒めてしまった。

「本堂まで行って、ちょっと休憩して頭をリフレッシュさせて、戻って温かいお茶でも飲もう。うん」

 静かな廊下をゆっくりと進み、渡り廊下を通って本堂へと抜ける。その本堂はとても大きく、普段は龍玄やそのお弟子さんしか入らない空間だ。法事がある時は解放されるものの、あまり部外者が立ち入らない空間。しかし、ここの孫である桂花は昔からちょくちょく本堂に勝手にお邪魔している。

「うわあ。久々だなあ」

 普段は住職である龍玄の座る位置、本尊の正面にあたる場所に立つと、本尊の優しい顔がよく見える。この光琳寺の本尊は薬師三尊像だった。中央には優しく微笑む薬師如来、その横に日光菩薩と月光菩薩が控えている。薬師如来はその手に持つ薬壺で多くの人を病から救うとされていて、薬剤師を目指している時にはこの本尊に励まされたものだ。

「いつ見ても綺麗な顔をしているのよねえ、薬師如来って」

 さすがに住職専用の高そうな座布団に座るのは躊躇われ、ぺたっとその横の畳の上に座る。少し寒かったが、しばらく本尊を見つめていたい気分になった。

 こうやって見つめていると、薬師如来の穏やかな顔のおかげか、わざわざとしていた気持ちがすっと落ち着いて行くのが解る。そして、どうしてあんなに慌ててしまったんだろうと恥ずかしくなった。

「それはまあやっぱり、漢方薬の勉強をサボってたことよねえ。憧れの人が漢方薬のプロかもしれない。こんな最も肝心な部分を忘れていたなんて、自分ってバカ。もっと早くに思い出していれば、大学の時に苦手だからって後回しにすることもなかったのに」

 一番の動揺はやはりこれだろう。

 憧れの人がくれた飴玉。それが漢方から作られたものだと気づかなかった自分が恥ずかしい。それを思い出していたら、苦手だなんて言わずに学生時代にもっと勉強していたはずなのに。それにしても、あの時味わったあの味はどの漢方薬だろう。

「甘くて元気の出るもの、か。不思議な味だと思ったのは漢方薬独特の風味だったわけね。ううん、もちろん甘味料が混ぜてあったんだろうけど、砂糖とは違うあの味わいは何かしら。陳皮のようなものが入っていたのかな。それにちょっと柔らかかった気もするのよね。飴というより丸薬だったのかしら」

 今まで忘れていたことが、まるで蓋が外れたかのように次々と思い出されてくる。その不思議な感覚に驚きながらも、こうしちゃいられないと立ち上がっていた。ああもう、どんどん目が醒めてくる。

「こうなったら候補くらい割り出したいわね」

 桂花は部屋に戻ると、カバンからずっと持ち歩いている漢方薬の教科書を取り出し、生薬一覧表を開いていたのだった。

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