第15話 花咲くとき

 ☆   ☆   ☆   ☆   ☆


案の定会社に遅刻した栞だったが、上司は刷り上っていた広告にミスが見つかったと報告を受け、この場にはいなかった。



「遅刻して、痛い目にあわなくてよかったね」



仕事仲間の浅井一哉が、隣の席の栞にそう言って笑いかけてきた。



「そうですね」



答えながら、栞はホッと息を吐き出す。



バス停から走ってきたため、心臓が飛び出しそうなほど苦しい。



一哉はそんな様子を楽しそうに眺めながら、近くの棚に置いてあるコーヒーメーカーに手を伸ばす。



「砂糖は?」



「あ、すみません。私やりますから」



「いいのいいの、走ってきて疲れてるんだから、休んでてて」



そう言われても、走ってきたのは自分が寝坊したのが原因。



上司から怒られる事はまぬがれたのだから、今日はとことん雑用でもなんでもしなければいけない。



けれど、席を立とうとする前に、一哉がミルクたっぷりのコーヒーを差し出してきた。



「はいよ。しっかり目を覚まして」



栞より五つ年上の一哉は、やはりしっかしりている。



栞は申し訳なさそうにコーヒーを受け取り、それを一口飲んだ。



苦い味が、口の中から脳を刺激する。



「ところで栞ちゃん」



コーヒーを飲む様子を眺めていた一哉が、いかにも『仕事話ではないよ』、という口調で話しかけつつ、なれなれしく栞の肩に手を回す。



「なんですか?」



栞はそれを嫌がる事もなく、ただ聞き返す。



「女子高生の間で噂になってるんだけど」



「何がですか?」



「好きな人と一緒になれるおまじない」



「はい?」



キョトンとして、一哉を見つめる。



突然、そんな話題を吹っかけられるとは思っていなかったので、思わず裏声になった。



「俺、試しちゃおっかな。栞ちゃんと一緒になれるように」



ヘラヘラと軽い笑顔を見せる一哉に、からかわれているだけだと知りながら、頬がカッと赤くなるのがわかった。



「あれ、その反応……。もしかして栞ちゃん、俺のこと……」



「そんなわけないじゃないですか」



慌てて、一哉の言葉を遮る。



「だいたい、おまじないって漢字でどう書くか知ってるんですか?」



「漢字で?」



首を傾げる一哉に、栞はペンを持って、メモ帳に『お呪い』と書く。



「おまじないって言うから響きがいいだけで、呪いをかけるのと同じです」



「いいじゃん、呪いの方が効果ありそうで」



と、更に楽しそうな声を上げる。



一哉の遊び心を静めるためにやった行動が、見事に裏目に出てしまったらしい。



栞はここでようやく、一哉の手を自分の肩から引き剥がし、『セクハラですよ』という視線を向ける。



すると一哉は軽く肩をすくめ、長めの茶髪をかきあげた。



悔しいけど、こういうナルシスト的な行動がよく似合う男なのだ。



「さ、仕事仕事」



栞を一通りからかって飽きてしまった一哉が、すぐにスイッチを入れ換えてパソコンへ向かう。



いつもそうなのだ。



スイッチの切り替えが鈍い栞だけが、取り残されたようにそこにいる。



そして、たった一人、いつまでも熱い鼓動が絶える事はないのだった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る