5.手を繋いで歩きませんか?-3


「――ランヴァルト様!」


 エルヴィーラが云い切るとほぼ同時だ。ここに居てはいけない人――ベック夫人がランヴァルト達の前に飛び出して来た。

 ぽかん、と呆気に取られる。ベック夫人はいつものひっつめ髪を乱し、汗をかいて荒い呼吸をしながら、ランヴァルトへ詰め寄ろうとしてきた。すぐにヴェルトとヘイスがさらに前へ出て、夫人を牽制する。いきなり組み伏せなかったのは、ランヴァルトに気を遣っての事だろうか。


「そこで止まりなさい」

「それ以上近付くなら武力排除するけどー」

「なんて乱暴な……! わたくしはランヴァルト様にお話があるだけです! それを卑劣にも暴力で阻止しようとは、恥を知りなさい!」

「ベック夫人、それは……」


 なんか変な事云い出した。ランヴァルトは若干の混乱状態に陥る。

 確かにランヴァルトとベック夫人は昔からの知人で、食客として遇していた。以前は家の一員として接していた事も事実である。しかしエルヴィーラと婚約した以上、前のようには接せられないと説明していた。それについてモニカは不満げで納得していない様子だったが、ベック夫人は粛々と頷いていたはずなのだが。

 どうして今になって、こんな騒ぎを起こしているのだろう。“元”男爵夫人が気軽に公爵と会話はできないと、分かっているはずなのに。それも、婚約者である侯爵令嬢エルヴィーラの前でなど、不可能な事だ。

 夫人の暴挙を注意しようしたランヴァルトの口に、エルヴィーラの扇子が当てられる。驚いて彼女を見下ろせば、眉間にしわを寄せた顔を向けられた。


「貴方が云う必要はありません。部下の仕事を取らぬように」

「は、はい」


 夫人の後から、ルーカスや新しい使用人たちと、離れのメイドたちが云い争いながらこちらへ来る。

 ルーカスたちは無礼な行いはやめるように訴え、メイドたちは自分たちこそがこの屋敷本来の使用人だと怒鳴っていた。


「もう我慢の限界です! わたくしたちを邪魔者扱いし、追い出そうと画策するラーゲルフェルト侯爵令嬢の横暴に、断固として抗議させていただきます! わたくしたちの権利を侵害しないでくださいませ!」

「わたしたちから坊ちゃまを取り上げて、モニカお嬢様を孤独へ追いやるなんて、あなたたちには人の心がないのですか?!」

「坊ちゃま、わたしたちの所へお戻り下さい! そのような冷酷な人たちと一緒にいては、坊ちゃまのお心が歪んでしまいます!」

「愛されるモニカお嬢様への嫉妬から、坊ちゃまを軟禁し、監視まで付けるなんて非道がすぎます! 人を人とも思わないあなたになんて、わたしたちは屈しませんから!」

「えぇー……?」


 もうランヴァルトには意味が分からない。

 ベック夫人とモニカ、古くからの使用人たちを離れへ移動させる決断をしたのはランヴァルトだ。権利も何も、彼女たちの所属いばしょを決めるのは一応屋敷の主人であるランヴァルトが持つ権限である。彼女たちにその手の自由はない。自由が欲しいならこの家から出るしかないのだ。

 取り上げるも何も、ランヴァルトは彼女ら使用人のものではない。モニカは離れで母親や多くの慣れた使用人と一緒なのだから、孤独も何もないだろう。

 そもそもここはランヴァルトの家なので、戻ると云う表現もおかしい。どこに居るのもランヴァルトの自由であり、何よりこっちこそ、エルヴィーラたちを冷酷扱いする彼女たちへ抗議したい。こんな役に立たない底辺公爵にも、親切かつ丁寧に接してくれているのに。

 モニカの事は妹分として大事にしているが、愛してるなんて一言も云った事はない。外に出ないのは勉強が忙しいのと身を守るためで軟禁ではないし、監視と云うか常に護衛が側にいるのも仕方ない事だ。むしろ有り難いまである。

 それらの事はほとんど説明済みだし、云わずとも当たり前の事で理解しているだろうと思っていたが、そうではなかったと云うのだろうか。

 いや、そもそも、ランヴァルトが説明下手の可能性。大いにある。話すのが得意ではないし、貴族と使用人では視点が違う。彼ら側に立った説明が必要だったのではないか。自分の力不足ではないのか。あ、このあり得ない状況、自分のせいか、とランヴァルトはどんどん落ち込んで行った。

 ランヴァルトの落ち度で、エルヴィーラたちに厭な思いをさせ、古くからの使用人たちに妙な誤解と勘違いをさせてしまった。もう腹を切るべきでは? とドン底まで気持ちが落ちた。

 朝からのやる気が嘘のように気分が萎える。もう消えてしまいたいほど、自分の存在が恥ずかしい。


(……なんで上手く出来ないかなぁ……)


 現状を説明し、納得させる。

 その程度の事も出来ていない自分が、情けなかった。


「……」


 ベック夫人たちが好き放題に叫び、エルヴィーラ側の人たちがいい加減にしろと怒鳴る中。

 ――メキ、と空気が軋む音がした。

 比喩では無い。本当に、空気が軋んだ。――世界が悲鳴を上げたのだ。

 瞬間、誰もが口をつぐむ。話し声どころか呼吸音すら消えた。

 ミシミシ、ピシピシ、ギチギチと、世界へ亀裂が走る音がする。エルヴィーラから放出される魔力が、空気を重くして行った。


五月蠅ウルサい」


 一言、エルヴィーラが云い放つ。その言葉は昨夜も聞いたが、声音が違い過ぎた。

 昨日の「うるさい」は拗ねた子供のような可愛らしさがあった。今の「うるさい」は――羽虫をプチリと潰す、静けさしかない。感情がない、温度がない、凍り付くような低温だ。


「この私の前で――ランヴァルト様に恥をかかせるな、慮外者りょがいものども」


 背後で誰かが、ひぃ、と引きつった悲鳴を上げた。振り返ったヴェルトとヘイスが、青い顔をして腰を引かせる。ルーカスたちが天へ祈るように指を組み、ガタガタと震え出した。血の気を引かせ顔色を白くしたベック夫人とメイドたちが、何かに押されたかのように声もなく尻もちをつく。

 エルヴィーラが怒っている所を見るのはコレで二回目だ。しかし昨日、ヴェルトへ怒っていた時とは種類が違う。

 昨夜の怒りがエルヴィーラ自身のためだとしたら、今の怒りはランヴァルトのためなのだと察する事が出来た。だからランヴァルトは周りのように怯えなかった。怖くなかったのだ。空気を軋ませるほど、世界を震わせるほどの怒りを前に、むしろ嬉しくなってしまった。

 自分を情けなく思う気持ちは消えないが、顔を上げる事は出来た。左腕へ添えられたエルヴィーラの手の上へ、ランヴァルトは右手を重ねる。エルヴィーラはこちらを見ない。けれど、魔力の奔流は和らいだ。


「……邪魔だ。片付けろ」


 扇子をぱしりと閉じて、エルヴィーラは夫人たちを突き放す。冷たい声の命令に、すぐさま侍女や従僕たちが動き出した。ほぼ気絶しているベック夫人たちを近くの部屋へ引きずって行く。

 エルヴィーラが、ため息を一つ。残った使用人たちが大きく震えた。


「……――申し訳ありません、ランヴァルト様」

「え、」

「貴方に口を出さぬよう云っておきながら、私の方が耐えきれませんでした」

「い、いいえ、そんな……」


 エルヴィーラが謝る事は一つも無い。いつだって、彼女は正しかった。

 謝るべきはランヴァルトの方だ。


「私の方こそ、至らぬ事ばかりで申し訳なく……。こんな、騒ぎを……」


 云っててまた落ち込んできた。肩が落ちる。視界が下がる。気落ちするランヴァルトの頬を、絹の手袋越しにエルヴィーラが撫でた。


「……庭へ参りましょうか、ランヴァルト様。外の空気を吸えば、気分も変わりましょう」


 花が咲くように、ふわりとエルヴィーラは笑う。

 先ほどの怒りようが嘘のように、慈愛に満ちた穏やかな笑みだった。

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