スーサイド・マーダー

志村麦穂

スーサイド・マーダー

 気が付いたらぼくは見知らぬ部屋にいた。下着すらも身に着けていない、産まれたままの姿で立ち尽くしていた。何かを思い出そうとしてもなにも思い出せない。日付や自分の名前さえもわからない。忘れたというよりも空白。記憶がそこに存在しないような、脳内が一面の白で塗り潰されている。

 ず、ず、ず、――。

 そして、ぼくの目の前に、全裸の女が死んでいる。

 背中に包丁を生やした、まだ若い少女の死体だ。高校生ぐらいにみえる。ひきあがった三角の尻肉と生白い尻に点と落ちた黒子。自分でみえない裏側の一点。くすみもニキビを潰した痕もない、滑らかな肌。みずみずしい死がある。生き生きと死んでいる少女。艶もいい。まだ体内にガスも溜まっていない。

 裸のぼくが、裸のきみの尻の黒子を眺めている。異様な構図だ。

 彼女は死にたてで、鮮度がいいのだろう。切られてものたうちまわるイカのように、指先や瞼がぴくりと痙攣している。さきほどの音はこれが原因か。包丁の刃先が胸まで突き抜けており、かすかな脈動に合わせて血が溢れ出す。

 とくとく、とくとく――。

 遠くから波打ちながら走るパトカーのサイレンが聞こえる気がした。あるいはそれも、幻聴じゃないのかもしれない。サイレンは一度近づいたものの、そのまま遠ざかっていった。押し返し、打ち寄せる波。鼓動に合わせて痛みが襲ってくる。頭蓋骨をすり抜けて、脳を締め付ける。

 とくとく、とくとく――。

 噴き出す血の勢いは次第に衰えて、締めそびれた蛇口のようだ。ひたひたと水滴が垂れ落ちるだけになった。カーペットが血を吸い上げて、ぼくの足元にまで染みを広げている。踏んだりしたら、じゅわりと、生暖かい血が指の隙間からにじみ出るのだろう。

 あぁ、……なんてことだ。

 見知らぬ部屋。全裸のぼく。記憶喪失の頭。そして、少女の死体。

「あぁ、なんで……わからない」

 ぼくのすべては疑問からはじまった。

 彼女は、ぼくが殺してしまったのだろうか。

「殺した?」

 口の中で小さく呟いたつもりだったが、その声はやけに大きく響いた。壁に反響した言葉が、山彦のように繰り返し、繰り返しぼくを責め立てる。

 殺した、殺した……殺したっ!

「違う、ぼくじゃない」

 脳内を覆い尽くそうとする嫌な妄想を振り払う。そんなはずがない。だって、ぼくには特別な力があるのだから。ふと、その事実が空っぽなはずの脳内に浮かんでくる。思春期特有の無邪気な無敵感にも似た確信。

 ぼくにはある異能の力が備わっている。

 自らに紐づけられた記憶をすべて忘れても、異能に関する知識だけは忘れていなかった。そのほかにも言語や物の名前、常識や知識に分類される記憶たち。どうやら、ぼく個人に関するエピソード記憶だけがぽっかり消失してしまっているらしい。

 異能について、わかっていることと、わからないことがひとつずつある。

 わかっていることは、この記憶喪失が異能発動の副作用だということ。異能というだけあり、本来ただの人間には耐えられない力だ。脳に過剰な負担をかけ、強制的に体の機能を拡張する。パソコンやスマホのように、データを削除して空き容量を増やすことで、負担を軽くしていると推測できる。その削除の対象となるのが、生命維持に直結しない個人のエピソード記憶なのだろう。

 わからないことは、どのような力かということ。異能に関する知識を持っているからには、過去にも発動されたはずだが、それらの記憶は能力の使用によって削除される対象となったのだろう。ぼくが意識的に削除される記憶を選別できるわけではない。つまり、なにか不明な力を使ったことにより、記憶喪失となり、現状に至るというわけである。

 ぼくは、ぼくが誰なのかわからない。しかし、ぼくがわからない代わりにわかること。それは殺人者ではない、ということ。

 これほどリスクの高い異能を使っておきながら、殺人を犯す理由がない。むしろ、殺人というリスクを回避するために異能を使ったと考えるほうが自然だ。ぼく以外に犯人となるべき人間がいるはずだ。

 早朝の薄明かりが差し込む窓を見やる。部屋が地上から離れたマンションの上階であることを風景から確認する。この場面を誰かに目撃されるわけにはいかない。ぼくはそっと、薄いピンク色のカーテンをひいた。

 殺人者でないという確固たる思いが、ぼくを冷静にしてくれる。

 改めて自分の置かれた状況を観察しなおす。素っ気ない色の壁紙に囲まれた、やや手狭な1Kの部屋。ソファベッドが壁際にあり、取ってつけたようなファンシーなぬいぐるみがいくつか転がっている。部屋の中央には少女の死体があり、死体を取り囲むようにハンドバッグやコスメの類いが無数に散らばっている。ソファベッドの上には、少女のものと思しき、丁寧に折り畳まれた制服がある。そばには三台ものスマートフォンが放り出されている。

 どうやら女子の部屋のようだ。死体となった少女の部屋かもしれない。やたらと化粧品や小物の種類がおおいように思う。素人目にはどうやって使い分けるのか違いがわからない。口紅やペンシルが床に何本も転がっている。

 ぼくはそれらに不用意に触らないよう、気をつけて部屋を移動する。

 少女は玄関に繋がる扉に向かってうつ伏せに倒れており、ぼくはそれを倒れた足側から見下ろす形で、窓に背を向けて立っていた。そこから、少女の頭側にまわり、死体の様子をつぶさに観察する。

 うつ伏せに倒れ込んだ少女の顔を覗きこむ。受け身もろくに取れなかったのか、倒れた衝撃を顔面で受け止め、鼻梁の通っていた鼻が見事に折れている。半開きの瞼、垂れ流れる鼻血、欠けた門歯。たったひとつふたつ均衡が崩れるだけで、人間の顔はこうも醜くなるものか。ひとが死んでいることよりも、若さと不釣り合いになってしまった少女の顔面に驚きを隠せない。不意に、寒気が肌をなでた。

 氷を吐きそうな勢いで息を吹く空調に気がつく。

 寒いはずだ。リモコンをみれば、16度の冷房に設定されている。カーテンの隙間から窓を見直すと、隙間が養生テープで目張りしてある。外の空気を入れないためか、中の空気を外に出さないためか。キッチンの換気扇もしっかりと塞がれている。どうやら徹底してこの部屋を密封しているようだ。

 誰が、なんのために。

 死体の発見を遅らせる為だろうか。遺体の腐敗速度を緩やかにし、臭いを外に漏らさない。咄嗟に行われた感情的な殺人ではなさそうだ。それは凶器である包丁からもうかがえる。

 うつぶせに倒れた少女の背中には、ちょうど裏から心臓を刺しぬく形で包丁が刺さっている。殺人者は背後から深々と刃物を差し入れ、一撃で少女を死に至らしめている。刺し口の背中にはタオルを一枚置き、返り血を浴びないように細工している。

 包丁にしても意図的だ。胴を貫通できる柳葉包丁がわざわざ選ばれている。

 部屋の主が料理好きなのだろうか。1Lから続くキッチンには、数種類の包丁が几帳面に並べてある。ペティナイフ、三徳包丁、出刃、菜切り包丁、万能ハサミがいくつか。そして凶器の柳葉包丁。もしこの包丁が台所から取り出されたのだとすれば、殺人者には凶器を選定している余裕があった。

 少女は間違いなく計画的に殺されている。

 ふと、違和感を覚える。刃物はやたらそろえてあるのに、食器類は使い捨ての紙コップと紙皿しか見当たらない。鍋はなく、フライパンもひとつきり。料理好きとは、なにか異なる。おかしいと思うが、犯人に至る手掛かりはない。

 ぼくは視線をさらに移動させる。

 玄関の扉には錠がかけられ、ドアロックもしっかりとかけられている。靴は少女のものと思しきローファーとスニーカーが一足ずつ。

 丁寧に閉じられた密室だ。

 窓には目張り。ドアにはロック。目張りは言うまでもないが、ドアロックも外からはかけられない。何らかのトリックがなければ、閉じることは不可能。細工が可能だとすれば、ドアロックの方だが、なんらかの細工を施した様子はない。

 ひっかき傷のただのひとつでもあれば……。

 他殺された死体。

 封の破られていない密室。

 内側には生きた人間がひとり。

 もしかして、ぼく、なのか。手許に否定する材料はたったひとつきり。ぼくが異能を使えるという一点だけ。しかも、自分を窮地から救えるはずだという希望的な考え方に則っているにすぎない。

 異能の使用目的が、窮地からの脱出でなかったとしたら。

 不確定な能力に頼るのではなく、明らかになっている副作用を目的として使用されたとすれば。少女を殺害した罪の意識から逃れるための、忘れるための力の行使であった可能性は否定されていない。

「いいや。それじゃあ、あまりにぼくが不憫だ」

 自分で自分を貶めるような考えはやめよう。

 訳も分からず投獄され、一生責め苦を負わされるなんて、ぞっとしない。

 ぼくは記憶を失う以前のぼくが自虐的でないことを願い、後ろ向きな仮定を脳内で揉み消した。あくまでぼくはやっていない、というスタンスを貫くべきだ。

 いまだ見えない犯人の姿に追いつくため、部屋の中を探り始める。戸棚、クローゼット、ソファの下などを覗いてみるが、女物の洋服や小物があるばかりで目ぼしい手掛かりは見当たらない。

 残る場所はユニットタイプのトイレと浴室。

 落ちていたハンカチでドラノブを包み、ユニットバスの扉を押し開ける。瞬間、狭い空間に押し込められていた空気が、一息に解き放たれぼくを襲った。同時に、今まで部屋に充満していた異様な香水の甘さにも気がつかされた。あまりに強烈な匂いに鼻が鈍らされていたのだ。

 浴室から漂う、腐敗した血腥さ。

 部屋に充満した、香水の甘ったるさ。

 相反する臭気が扉を開けたことで混ざり合う。なぜ目張りまでして、部屋を密封する必要があったのか。答えはシャワーカーテンで閉じられた浴槽のなかに横たわっていた。

 赤黒い、血と骨と肉。解体されたさらなる死体。

 内臓と脳みそ、目玉はビニル袋に。体は関節から分解され、コンパクトにまとめられている。かち割られた頭が、ひとつ、ふたつ、みっつ。バックも化粧品も多いはずだ。それらはすべて、ここで切り刻まれている少女たちのものに違いない。やけに刃物だけそろえられた調理器具の違和感も、使途が解体のためならば納得できる。万能ばさみは人間の関節を切り取るのにも、さぞ役に立つのだろう。

 猟奇殺人の死体が積み重なるユニットバス。部屋で死んでいる少女もこうなる運命だったのか。

 死が、累々と。

 屍の証明に、呼吸が、溺れる。

 裸の腹に拳を落とし、吐き気をこらえる。まだ。まだ認めるわけにはいかない。

 必死で思考を巡らせる。この状況を打破するには、ぼくの異能の謎を解かなければならない。この状況に陥った異能の正体。そう、確実に力は危機回避に使われたはずなのだ。

 あべこべだ。この現実はちぐはぐだ。

 状況はぼくが犯人だと告げている。しかし、異能は発動している。

 発動した以上、危機的な状況は回避されていなければならない。しかし、危機はなにひとつ避けられていない。

 ぼくの異能が空間移動だった場合はどうか。テレポーテーションだ。偶発的に殺人現場に出くわしてしまったとすれば――。

 そこまで考えて、首を振る。

 ここまで犯人の痕跡を見つけられていない。ぼくが突然この場に現れたとするなら、ぼく以外の犯人が存在していなければならない。ユニットバスの解体死体のことを除外して、部屋の少女だけに絞ったとしても、ぼく以外に犯人がいることは考えづらい。この丁寧な密室と、鮮度のいい死体が証明してくれる。

 ほかに思いついた可能性としては、ぼくのもつ異能がまったくの役立たずの場合だ。記憶だけ奪われ、なにひとつ変わらない。ここまでくると、異能が罪から逃げるための言い訳に聞こえてくる。

 だめだ。だめなんだ。逃げられない。なにか、なにかないか。

「異能が使われたなら、状況は終わっていなければならない。いま、ぼくのいるこの状況は終了している。ぼくに降りかかる危機は取り除かれているはずなんだ」

 唯一の糸口は、ぼくの異能。

 たったそれだけ。

 そのとき、ユニットバスの壁にかかっている鏡に気がついた。そこに映る虚像で、ぼくは初めてぼくの姿を確認する。

「ぼくだ」

 鏡に映る虚像が悦楽にゆがむ。

 すべてが融解する。

 せかいは反転する。

 状況はとっくに終わっていたんだ。

 こんなにも簡単なことだったんだ。

 ぼくは部屋に落ちていたスマホを手に取り、カメラを起動する。もはや指紋が残ることを気にする必要はない。インカメラに切り替えて、素っ裸のままで寝転がり、自分の尻を持ち上げる。カメラで映された、自分では気づかない位置にある黒子を確認する――あった。まったく同じ位置に。

 変装でも、擬態でもない。まったくの同じ、だ。

 カメラに映されたぼくの顔。死体の少女とおなじ顔。鼻が折れ、門歯がかけ、背中から包丁をはやす前の少女。

 死体――ぼく。

 犯人――ぼく。

 彼女――ぼく。

 わたしはぼく。

 異能により、状況はすべて終了している。危機は去り、殺人犯は決して捕まらない。なぜなら、連続猟奇殺人犯の犯人は、この部屋で最後の犠牲者となるから。

 ぼくの異能。

 複製される体。

 プラナリアのように分裂した体が、ぼくと私に重複される。複製と分裂。肉体単位での細胞分裂。それがぼく――私の異能。

 背中の致命傷が、私を殺す手順を教えてくれる。

 柳葉包丁を刺した瞬間、私とぼくはまだ完全には分かれていなかった。分かれてしまうと記憶がなくなってしまい、自分に殺されることができなくなるからだろう。体が複製されている最中に包丁を浅く刺し、複製が完了し、分裂しきる最後の一瞬に包丁を勢いよく押し出す。死体はこと切れたまま倒れ込み、顔面を損傷する。ぼくは記憶喪失となって、現場を発見する。経緯はこんな所か。

 

 これがぼくの真相。

 メッセージを残していないのは、証拠を恐れたからだろう。この異能は決して、誰にも気付かれてはいけない。なにより、一目見れば説明など不要なのだから。

「ふつ、ふつ、ふつ」

 奇妙なわらいが、胃の奥底からわきあがる。

 ぼくは部屋のなかから、気に入った服をみつくろい、解体された死骸の隣でリップを塗る。鏡に映してまつ毛を整え、眉毛をかく。髪を巻いて、うっすらチーク。この年頃の肌にファンデーションは不要な雑味。いつもと違う雰囲気の顔になるように目元を際立たせる。最後に、女子々々して女くさい甘ったるい香水をうなじと手首にひとふりずつ。

 女は化ける。メイクの印象で簡単にぼくが私に、私がぼくに。

 遺品から抜き取った現金をハンドバックに詰める。鍵を開けて、ぼくは誰でもない新しい私として外の息を吸い込む。

 まっさらな気持ちだ。すがすがしい。

 何もかもが新鮮に感じる。産まれたての気分だ。

 部屋の鍵を閉めたあと、二度と戻ることのない部屋の鍵は遠くに放り投げた。

 密封された完全な密室に、事件のすべを閉じ込める。

 絶対に開くことのない秘密箱。

 さぁ、どこへ行こう、新しい私。

 どこへでも、なんでも、何度でも。

 新しい体でやり直せるのだから。

 そして、また――。


<了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スーサイド・マーダー 志村麦穂 @baku-shimura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ