鯨よりも深く

コオロギ

鯨よりも深く

 スーパーの鮮魚コーナーに並べられた鯨肉は他のどんな魚の切り身よりも濃くて赤赤しい赤色をしていた。

 昔はよく給食に出てたのよ、というセリフを、昔、どこかで聞いた。

 鯨は死ぬと、真っ暗な深海の底へ沈む。その大きな死骸は、そこで生きる多くの生き物の食糧となる。肉も、骨も、何もかも。小さな生き物たちは残さずきれいに平らげてしまう。

 どんな味がするんだろう。魚の味がするんだろうか。それとも、鮫のような味だろうか。カエルは鶏肉のような味がするというけれど、どうだろう。

 あれこれと考えながら、わたしは鮮魚コーナーを通り過ぎた。


 くじら。クジラ。鯨。

 エコバッグを揺らしながら、海沿いを歩く。

 鯨は、水深一千メートルを泳ぐ。あるいは、それよりももっと深くを。真っ黒な冷えた水の中を。

 今、わたしから見える海は、立体のない海だ。まるで底なんてないかのような。

 平べったい海が太陽の光をまともに反射して、目がチカチカした。

 暑い。今日もまた、地上は今夏の最高気温を更新するらしい。

 もくもくと大きな白い雲が、道の先にぬっと姿を現した。


 夕方近くになって、ゴロゴロ、という予告の後に急激な雷雨になった。それはほんの一瞬で通過して、すぐにまた太陽が地面をからからに干上がらせていった。一粒の跡形もなく。 

 それでも効果はあったらしく、日が傾き始めるころには少し涼しさを感じられるようになった。重くなっていた腰を上げ、買い逃し品を買うためにもう一度スーパーを訪れた。

 そっと覗いた鮮魚コーナーからは、鯨はすでに姿を消していた。


 小学生のころ、潜水が流行ったことがある。小学校のプールの自由時間、底へ向かって、頭からぐいぐいと泳いでいった。水面で足をばたつかせるのと違って、水の底を泳ぐときのぬっ、ぬっと進むのが好きだった。音が遠のいて、まるで違う世界にいるような特別感を感じられるのも、好きだった。

 鯨は一呼吸で、何時間も海の中を潜る。その一呼吸で、多くのものを飲み込んで、そして最後には、そのすべてを惜しみなく返していく。

 カーテンの隙間から外の明かりがぼんやりと部屋に差し込んで、水底と思われたこの空間が、実は六畳一間の畳の上であると勝手に種明かしをしてくれる。

 寝そべって天井を見つめていたら、だんだんと瞼が下がってきた。

 くじら。クジラ。鯨。

 わたしはふうーっと息を吐き、目を閉じた。そしてできるだけ、ゆっくりと、大きく息を吸った。

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