未来のフィロソフィー

もーち

メタスタシス


★まえがき

 私のようなサバルタンのシチュアシオニストがヘーゲル以来のヘゲモニーであるポストモダンのノウアスフィアにパロールをアンガージュマンすることはニーチェ的なルサンチマンのひとつのエンテレケイアと思われるかもしれない。しかしそのようなフロイディアンはだしのア・ポステリオリなモーダスポネンスのコナトゥスをエポケーしてみれば、ノエシス-ノエマ的契機を言語ゲームによってアウフヘーベンしたエクリチュールのクリプキ的地平はア・プリオリにパラドキシカルなカウサ・スイである。サイバネティクスにマインドセットされたホモ・ルーデンスのランガージュはそのアフォーダンスなパラダイムと共につねにアンチテーゼなカオスの縁にある。ゾーエーたるレシをビオスにモノ射するレゾンデートルは、こんにちではふたつのラポール=比からなる。すなわち、ハイパーテクストのヌミノースはプルーストのマドレーヌによって、エクリとシニャレのアルビトレールはソシュールのリードランジェ流解釈によってそれぞれ保証される。デリダ的イデオロギーをメタ的に脱構築してみれば、あたかもシニフィアンとシニフィエがそうであるように、存在と「存在」のエナンティオドロミーを象徴界にみとめることもできよう――もっともそのシンギュラリティにあってはコノテーションはアナムネーシスされたイデア界ではなく、シンプレティックなミームプールであるが。



★オブジェクティビズムと「虹の解体」について


 ドーキンス的な記号は『虹の解体』のサンボリズムで、キーツのディオニュソス系のΩ矛盾を導く。



キーツ的な体系(プレローマ)の危機 → 矛盾 → 代替可能であること(デウス・エクス・マキナ)



キーツのオードはスペクトル分解を予型したか? 世界のペルスペクティーフがコペルニクス的転回によってアフィン変換をうけたマトロイドとして振る舞い、マルコフ連鎖のアルゴリズムによってテクストがアウラのクオリアを出力するプロセスをセンス・オブ・ワンダー変換と解する。

 たしかにブルバキ流のアブダクションによれば、ブルジョアのセミオロジーはソバージュのブリコラージュと何ら変わるところがない。エデンの園配置からの有限回操作(G軌道)によるカオスな半無限のロジスティック方程式をエピ射した超越論的オブジェであるという点において、プリンキピアのシンタグマはパルナッソスのパトスとエッセンスをカット除去してシンプレックスに解析接続する。

 しかし詩のプネウマはセンス・オブ・ワンダー変換におけるパリティであろうか? 結局、ドーキンス的な記号はプネウマをフィジカルマインドとしてイデオローグのオルギアへとうつす。J.S.ミル風に言えば「プラスはsgn(σ) = 1 クワスは sgn(σ) = -1 よってtが遷移すれば所望の結果を得る」となる。実際は、詩のプネウマは形式をともなったフロネシスであり、リビドーと同型であるホーリズムのもとでしか生成しない。ヒルベルト空間はゼーレのエイドスである詩のオートポイエーシスを被覆するが、アインシュタインと直交するミンコフスキー空間はこれを満たさない。



ヒルベルト的なもの→キーツ記号体系→詩→虹←ドーキンス記号体系←ユークリッド的なもの



ドーキンス的な記号はアルス・オプの哲学のコンテクストでタイプとトークンを双対化するグロタンディーク宇宙におけるファジィ測度を持たない。カスターリエンの継承者はヒルベルトであった。フォン・ノイマンによる初期の仕事『量子力学の数学的基礎付け』は、アーツ・アンド・クラフツ運動におけるジョン・ラスキンの『ヴェネツィアの石』に匹敵する。例えばプラグマティズムのスパースなシンボルはFを権力、したがってスカラーに捉える――翻ってノイマン-ベルナイス-ゲーデルの公理系ではFのパラディグマをマルチチュードにクラス化し、ファン・デル・ヴェルデンの定理は虹を彩色すると述べるだけで十分である。



★筋のない小説のアーキテクチャについて――スーパーフラットな再帰理論のエピステーメー


マラルメが示したように、言語体のベクトル場においてはボルスク・ウラムの定理によって、ロゴスは形式のマトリクスをオマージュするしかない。いかなるヒエラルキーもポセットを構成する。ロラン・バルトは「物語の構造分析」において、今日のロジシャンがツォルンの補題と呼びならわしている間テクスト性のエントロピーを行間で証明し、同時にシークエンス分析についてもパラフレーズを行った。

あらゆる物語は、おおまかに以下のアーキタイプへと分別できる。



1.ソーシャルフェミニズムに関するもの

2.答えのないもの

3.p-進付値かq-類似に関連するもの

4.デカルト的なもの

5.既存のテクストを批判するものやパロディ

6.未完成のもの

7.ヘルマフロディトスに関するもの

8.話らしい話のないもの

9.いけにえの羊を要求するもの

10.リーマン予想が真のとき成り立つもの

11.その他のもの

12.トリックスターが登場して悪霊をこらしめるもの

13.インターネット文学なもの

14.ダンプリングのように浸されたヘクサメトロス

15.それ自身のもの



それぞれのアエティールはパターン変数にドライブされるモナド単位の独立システムである。話らしい話のない小説の文化システムをシモーヌ・ヴェイユは「カタストロフィーとは神の不在である」によってアンガジェする。id est, ショーペンハウエルの孤独になじむオントロジーの消失のみが詩のブラフマンに漸近する(ラルフ・ウォルド・エマソンをみよ)。実際、リオタールを見はるかすレヴィナスのイリヤはしばしばモノドロミーに陥る。形式言語のトートロジー、ネストされたゼロ記号のタイプ論はアウェアネスによって満たされる。

 野生化するゼロの記号はバルト神学の聖杯である。これにシーケント計算が無関係でないとは言えない。サルトル的にあらゆる人間がスコーレム標準形であるためだ。ロバチェフスキー空間におけるポワンカレ円板のS3へのトポロジカルな埋め込みであるパスカルの球は、コンパクト座標がひとしくエスであると同時にエゴである点においてアンチノミーを持たない、パタフィジックなマナによる、アポリアを馴化した存在論的トポスたりうる。ヘルメス・トートのオクシモロンが話らしい話のない小説のアフォリズムを(道連結でないハミルトンのアタラクシアを)導来する。

 しかしコミュニケーション的行為とエスノメソドロジーのなかで、ウィトゲンシュタインをゲージ化する凖イデアルのアトラクターもツァイトガイストに回収されるだろう。コンティンジェンシー・システムにおいて、アーカーシャを掌るヘンペルのカラスは古典ウィーナー空間の地平にむけて飛んでゆくのである。



★さいごに

 キャピタリズムのリゾームがユビキタスなスケール分布で群生するラストマンのユートピアたりうるのと同じくらい、トランスモダンなオムファロスのホムンクルスにとって、ラプラシアンのチューリング機械でノンパラメトリックに補間するダイクストラのヒューリスティクスが愚者の楽園であるのはポストミレニアルの悲劇であった。チャイティンとバダンテールが交叉する多元主義のポリティクスでは、バックラッシュのイニシエータすらラムゼイ理論の陰影を持つ。回転のキュビズムはハウスドルフ次元にコミットされたビュフォンの針すら回収できない

そこで次のクワインを提案する。あるいはしない、否、できない。ホッブズ的モンスター加群のシルバーバレットがホッジ理論の内に、ラムダ式の内に、セルオートマトンのハラールにコード化されたイテレータの内にチョムスキーもかくやと即自しても、ジョイスの歓喜するテロスは離れ、ゼノンのエピゴーネンはムーンシャインを仰ぐほかないのだ。

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