第16話 境島署のいちばん長い日14

 太陽が西の空に傾き、オレンジ付いた陽の光が青々とした田畑を照らしている。

 コンビニから一人の男性が出てきて、何気なく上を向いた。


 明らかに雲ではない大きな影が悠然と横切ってゆくのを見て、彼はビニール袋が落ちた事さえ気づかなかった。

 


「では、準備が出来次第出発をお願いします。何としても、日の入り迄には片づけなければなりません。宜しくお願いします」


 杉本の言葉に全員が一斉に動き出す。

 夏の盛りを過ぎたとはいえ、日暮れまではまだ余裕がある。

 夜になれば捜索は困難になるだろう。何としても、この作戦は明るいうちに成功させなければならなかった。

 緊張から、無意識のうちに手が震える。

 ユリウスはそれを振り払うかのように拳を握った。

 その時、ポケットに入れたスマホが鳴った。

 ディスプレイを見れば、妹のソフィアからであった。

『兄さん、大丈夫?』

 その文面は、危険な場所にいる兄の仕事の妨げにならないようにしたものなのかは分からないが、簡潔なものだった。

 ユリウスはそれを見て何かが溢れそうになり目を閉じた。

『大丈夫。後で連絡するから』

 メッセージにそれだけを送信すると、ユリウスはスマホをポケットに入れ、任務を果たすべく歩き出した。

 日暮れまで、後3時間。


≪境島2、異常ありませんどうぞ≫


 車載無線から犬飼の声が響く。境島2には毒島と犬飼が乗車し、境島1には但馬、ユリウス、そしてエルミラが乗っていた。

 交通規制が敷かれているせいで、対向車も後続車両もいない。

 がらんとした国道をパトカーや捜査車両だけが走ってゆく。


「でもさあ、この子までは連れてこなくても良かったんじゃない?」


 バックミラー越しに但馬がユリウスを見た。その口調は、いつも通り飄々として変わらない。


「うーん、でもこの子全然離れないんですよね」


 ひし、と胸元にしがみつくちびドラゴンの背を撫ぜる。

 出発前、緒方に預けたはずだったのだが、いつの間にかユリウスを追いかけて乗り込んできてしまったのだ。


「ガーランド君が母親だと思っているのかもね。生まれる時に傍に居たんでしょう? なら離れ離れになったら寂しがるものよ」


 助手席に座るエルミラが人間の赤子のようにむずがるドラゴンを見て眼を細めた。


「母親って……。困るなぁ。本当の母親に返したいのに」

「ドラゴンは何より血の絆が深いって聞くわ。その時が来たらこの子も家族の元に返ると思う」

「お子さんをお返ししますで話が通じればいいんだけど」


 ユリウスはきゅうきゅうと鼻を鳴らしながらしがみつくドラゴンに苦笑しながら、よしよしと赤ん坊をあやすように揺らした。


「そろそろポイントに到着するな。ラヴィネ、無線頼むわ」

「はい……。境島1から境島。第一ポイントに到着しました。指示願います」


 エルミラが本署へ報告した。それから少し遅れて、境島2からも無線が入る。


≪了解。境島より境島1、境島2。拡声器の使用を許可します。対象の出現時、非常に危険だと思料された場合は各自の身体の安全を最優先に行動願います……必ず全員で帰りましょう≫


 ユリウスは自分の背中にじわりと汗が滲むのを感じた。エルミラの横顔も緊張に顔が強張っている。


「じゃあ、ボイレコやろうか」


 但馬の言葉に、エルミラがボイスレコーダーを手にして頷く。レコーダーのスイッチを入れ、拡声器のマイクに近づけた。

 金色に色付き始めた田園の海に、どの動物とも違う、寂しげな高い鳴き声が響き渡る。

 パトカーはそのまま、ゆっくりと最徐行で走り続けた。

 誰一人として、言葉を発する者はいなかった。

 パトカーがサイレンの代わりに、未知の生物の鳴き声を拡声器から流すなど前代未聞だ。

 厳しい苦情もくるかもしれないし、下手したら懲戒になるかもしれない。

 しかし、現在出来得る最善の方法はこれしかないのだ。

 全境島署員が、この作戦に全てを賭けていた。


 その時、エルミラが弾けるように窓の外を見た。


「来ます! 11時方向!」


 ユリウスもその方向を見る。青色が濃くなり始めた空に黒い点が現れた。

 それはどんどん大きくなり、近づいてくる。


「お出ましだ!」


 但馬が言うと同時にアクセルを思い切り踏み込んだ。シートに背中が押し付けられるのを感じて、ユリウスは左手でちびドラゴンを抱きながら、右手でアシストグリップを掴んだ。


 轟、と風が鳴り、車体が大きく揺れた。田んぼには切り裂かれたように風の跡がついていて、それが物凄い速度で通過したのだと分かった。



「こちら境島1! 対象を発見、当車両の上空を旋回しています!」


 エルミラの声が車内に響く。

 空を見れば、羽を広げたドラゴンが悠々と旋回している。

 明らかに、こちらを見ている。

 此処には障害物は何もない。あの勢いで体当たりされたらパトカーは紙のように潰れるだろう。


 パトカーは速度を上げながら、西陽の差す道路をひた走る。


「パト乗ってて追いかけられるのとか初めてだよ!」


 十字路に差し掛かり、但馬がハンドルを右に切る。ぐわん、と身体が左に振られた時だ。


 ドガン!とすぐ後ろで大きな音がした。

 振り向くと、巨大な爪がガードレールごとアスファルトを抉り砕いていた。

 冷たい汗が全身から噴き出す。

 エルミラの青褪めた顔と、但馬のこめかみに幾筋もの汗が流れるのが見えた。

 恐ろしいのは誰もが同じだと言い聞かせ、ユリウスは奥歯を強く強く噛み締めてそれを殺した。


 草原で猛禽に狙われる兎のように、パトカーは物凄いスピードで蛇行しながら走ってゆく。

 住宅地を避け、田園地帯を選んでいるが、あのガードレールのようになるのは時間の問題だ。


 ユリウスはカーナビの地図に目を止めた。

 ここから東にすぐの場所に、山を開発したゴルフ場がある。確かそこは、特別区への近道でもあった筈だ。


「班長!! ゴルフ場の方へ!! あそこなら視界を遮られます!」

「おっしゃ! 境島GCね!」

「境島1から各車移動。 これより境島GCへ向かう。引き続き対象はこちらを追っている。以上」


 エルミラが冷静に無線を送る。すぐに各車から返答が返ってきた。


 《境島2 了解、GC方面へ向かいます》


 上空から、この世の物とは思えない恐ろしい咆哮が響く。

 だがユリウスには何処か、酷く哀しげなものに感じた。

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