本の虫

高村 芳

本の虫

 ベッドの中で目を覚ますと、俺はなぜか虫になっていた。

 朝陽が俺の顔に降り注いでいる。


『あら?』


 昨夜のことを必死に思い出そうとする。確かベッドにもぐりこんで、本を読みながらそのまま寝てしまったはずだ。今俺がいるのは、枕の中央だった。肌寒い。ベッドの斜め前に置いていた姿見の隅に映った自分の姿は、人間の親指一本分くらいの大きさになっていた。声は出なかった。


『なんでいきなり虫に?』


 確かに寝る前に読んでいたのはフランツ・カフカの「変身」だけど。それにしても本を読みながら寝てしまっただけで虫になるなんて。俺は首をかしげた。虫だから、首はないのだが。

 ジリリリリと、けたたましい音が鳴った。


『な、何だ!?』


 起伏のある枕の端へ向かって、おそるおそる音のほうをのぞき込む。枕のそばに置かれたスマートフォンがアラーム音を出していた。音を止めようにも高さがあって降りられず、迂回していかなければならない。布団でできたアーチをくぐった、そのとき。


「トシキ! いつまで寝てるの!」


 部屋の扉が勢いよく開いて、おふくろが入ってきた。険しい顔がたちまちキョトン顔になり、固まっている。ベッドに近づいて、とりあえずアラームを止めた。


「あの子、今日早出だったかしら? スマートフォンも置きっぱなしで」


 不思議そうな顔のまま、おふくろは部屋を出て行った。たまに図書委員の仕事で早く登校することがあるので、そうだと思ったのだろう。俺は隠れていた布団から顔を出した。こんな虫の姿を見たら一瞬でスリッパで殺されるだろう。肝を冷やした。

 気をとりなおしてスマートフォンまで辿り着く。電源をつけるため画面の上に乗ってみるが、いっこうに光らない。ジャンプしてみるが、腹から生えている六本足のうち前足の二本が少し浮いただけだった。操作できれば、メッセージで助けを求められたのだが。スマートフォンは諦めて、この状況を打開するキッカケがないか、部屋の中を探索することにした。


 ベッドから降りるのは怖かったが、足の先が鉤のようになっていて、布の繊維にひっかけながらだとゆっくり進むことができた。しかし、最後の最後で手を引っかけそこねて背中から床に落ちた。


『痛えっ』


 かなり衝撃があったが、背中が硬いせいか、すぐに動けた。勢いをつけて転がり、仰向けからうつ伏せになる。いつもは狭いと思っていた部屋が、知らない街に見えてくる。


『ハハ』


 ちょっと楽しくなってきた。目の前にそびえたつ本棚は上の方が見えない。その前に積まれた本は、ちょっとした高層ビルのようだ。俺はそのビルの間を駆け回る。


『あ、あれ、あらすじ読んでおもしろそうだったから買った本だ』

『あれも読みたいんだよなあ』


 俺の好みで集められた本たちが作り上げる街を探索して、本が読みたくてたまらなくなった。ミステリー、SF、ファンタジー、純文学、恋愛もの、仕事小説。読みたいものが多すぎて、授業とメシと睡眠以外は常に本を読んでいる。それでも時間が足りなかった。

 ノックの音が部屋に響き渡る。俺は急いで積まれた本の影に身を隠した。


「入るよ!」


 ノックしたら、返事するまで待てと何度も言っているのに。幼なじみのハルカがずかずかと部屋に入ってきた。翻ったハルカのスカートの中が見えそうになって、俺は慌てて目を反らす。


「ったく、スマートフォン忘れるなんて。届けなきゃいけないじゃない」


 枕元に置かれたスマートフォンを拾い上げて、ハルカは独りごちる。おふくろに「持っていってやって」とでも頼まれたのだろう。なんだかんだ言って優しい奴なのだ。

 ハルカはなかなか部屋を出て行こうとしなかった。何やら神妙そうな顔をして、俺のベッドを見つめている。床に膝をつき、俺のベッドに倒れ込むように頬を埋め、しばらくそうしていた。

 遠くからおふくろの「ハルカちゃーん?」と呼ぶ声が聞こえた。ハルカは跳ね起き、顔を真っ赤にしながら急いで部屋を出て行く。何だアイツ? ハルカのことはさておき、俺は探索を再開した。

 当然ながら、俺が人間に戻れそうな方法は見つからなかった。スマートフォンも持って行かれてしまったし、何もすることがない。食べかけのお菓子が残ったままだから、メシに困ることはなさそうだが、暇だ。


『仕方ない。本でも読むか』


 俺はベッドに上り、昨日読んでいた本のそばまで歩いていった。ちょうど枕の端が、栞のようにページの間に挟み込まれている。


『よいしょ、っと』


 この体、腕力はないが、脚力と噛む力はあるようだ。ページの隙間に入り込み、脚で紙を押し開く。最後はページの端を噛んで、自分の体重で本を開ききった。


『よし、これで読める』


 意外と虫の体、悪くないかもしれない。一苦労ではあるがページはめくれるし、学校にも行かなくて済む。読書だけに集中できるこの状況に、俺はワクワクしていた。

 俺は昨日の続きから、文字を目で追っていく。たちまち、周りの音は聞こえなくなった。



   了

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本の虫 高村 芳 @yo4_taka6ra

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