第8話 大穴と井戸

 目覚めると、クリスはすでにいなかった。

 布団は冷たく、だいぶ前にいなくなったのだ。

 キッチンからは良い香りが漂ってきて、早くに出かけたのに朝食は作るという気遣いと早業のコンボに頭がくらくらする。腕が四本あってもできる気がしない。

──プリンは冷蔵庫。

 簡易のメモには、幸せいっぱいの文字。中を開けると、甘い匂いがする。三つという中途半端な数は、どうやってもふたりでは分けられない。壮絶な争いが予想される。

 朝食を食べた後は、風習についてまとめようとメモ帳を開いた。

 風習と言えば、伝統を重んじて守る、堂々とした威厳を感じるが、村の雰囲気や隠そうとする雰囲気から、因習という印象を受けた。

 巨大な穴、埋めても塞がらない。底が見えないのなら、人間の手で掘ったとは考えられないほどだ。

「まさか……本当に神とか黄泉の存在が……?」

 目に見えないものはどうも信じがたい。けれど、もし大穴が確認できたのなら……。

 誰かがドアを数回叩き、顔を上げた。

 クリスなら勝手に入ってくればいいし、そもそもドアを叩かないだろう。

「どなたですか?」

「…………俺」

 一言聞いただけで身体が硬直する。香山だ。

「香山君……?」

「ああ、そうだ。ちょっと出かけねえ?」

 あの香山と普通に会話ができるなんて、日本語の通じる人なんだと数十年越しに気づいた。彼は大人になり、僕も多少は許せる人間になった。

「悪いけど、クリスから開けるなって言われてる」

「俺なら顔見知りだし、別にいいだろ。名前も知らない奴を入れるわけじゃないんだ」

 僕の心に住む悪魔が囁く。

 風習に関する何かを話したいなら、またとないチャンスだ。

 出るのは禁止されているが、招き入れるなとは言われていない。

 抜け道を見つけたただの言い訳にしか聞こえないが、何もしないよりかは情報を集めたい。

 ゆっくりと扉を開けた。

「よお」

 あのときと変わらない笑顔で、片手を上げる。

「おはよう」

「入っていいか?」

「うん……いいよ」

 香山は遠慮もなく、扉の隙間から身を滑らせた。

「お茶入れるから適当に座って」

 香山の視線がある一定の場所に止まり、僕は襖を閉めた。隣は寝室だ。布団が隙間なくぴったり寄り添っていて、完全なプライベートルームだ。

 ゲイ嫌いの香山からしてみたら地獄絵図だろう。けれど彼は、肩をすくめただけで何も言わなかった。すぐ口にして人を弄る癖のある姿しか知らないので、これは意外だった。

「なあ、」

「なに?」

「お前ら何なんだ?」

「どういう意味?」

「取材で来たって言ってたよな? あれ嘘だろ」

 香山は吐き捨てるように言う。

「どうして嘘だと思うの?」

「分かるんだよ。ここに取材にやってくる連中は、そもそも雰囲気が違う。知り合いだってのも差し引いても、お前らからは事件の臭いがプンプンするんだよ。初めから面白おかしい記事を書こうとしているわけじゃねえな」

「香山君たちこそ、何を隠している? 事件の臭いを感じるのはそっちの方だ」

「嗅ぎ回られると迷惑なんだ。俺だって……お前らみたいに……」

 香山は弱々しく笑う。

 香山の抱えている闇を、僕は知らない。けれど、助けてもあげられない。

「クリスがいないのを分かってて、来たんだね。僕の方が聞きやすいと思った?」

 突然の動きに、僕はついていけなかった。

 ポケットから白い布を出し、僕の口元へ手を伸ばす。

 振りほどこうとするが、壁に挟まれそのまま背中を叩きつけられた。

 口元に押さえられた状態でなんとかもがこうとするが、動けば動くほど身体の力が抜けていく。

 薬をかがされたと気づいたときには、僕は意識を失った。




 夢を見た。

 ここへ来てから数日なのに、普段より多く夢を見ている気がする。

 吐きそうなほどひどい異臭だ。心臓が警鐘を鳴らすような臭い。夢でもこんなに感じるなんて。

 臭いから想像できることは、残虐性のある行為だ。臭いは鼻で感じるものだが、頭で感じている。こびりついて離れない。頭も身体も、全身が拒否している。

「ここは……?」

 僕は目が覚めた。夢だったと安堵はできず、明かりのない閉鎖された空間にすぐに恐怖が押し寄せてきた。

 真夏だというのに氷の壁に囲まれたように寒い。手を泳がせると、すぐに壁に当たる。やはり冷たい。感触から、多分石でできている。

 腰に力を入れて立ち上がり、壁伝いに歩いてみる。

「おかしい……」

 独り言は響き、自分に返ってきた。

 寒さから、鳥肌が立ち感覚が過敏になる。

「クリス……」

 うろうろしていても仕方がない。とりあえず腰を下ろし、ポケットにしまったままだった携帯端末を取り出した。

──動かないで。

 今は圏外だが、二時間前にメールが届いていた。たった一言だけだが、お守りよりも効果があるような気がした。今は昼食時で、薬を嗅がされてから三時間は経過している。

 万が一のために電源は切らずにおいたが、できるだけ持つように画面の明るさは下げて、ポケットにしまった。

 独りぼっちなのに、独りな気はしない。クリスがメールをくれたからだ。必ず助けてくれると、確証もないのに妙な自信があった。

 それにしても、ここはどこだろう。角張った部屋ではなく、一周回れるのは丸みを帯びた壁であり、石で作られている。そして寒い。

 頭が冷えると物事も冷静に考えられるようになり、もしかしてこれはと、ふと思うものがある。

 これは、儀式で使う大穴ではないのかと。天井を見ても真っ暗だが、何かで蓋をされているとしたら。ありえる話だ。

 儀式用の穴に僕が入れられているとしたら、生贄とした捧げられたのか。

 気づけば、三十分ほど経過していた。座りっぱなしで体勢を変えようとしたとき、背中側の壁から低い爆発音が聞こえた。振動が響き、瞬時に身体を浮かせる。

 石の擦れる音がすると、生ぬるい風と光が入ってくる。僕には希望の光に見えた。たとえ僕にとどめをさそうとする人物であっても、ホイホイついていってしまうだろう。

「千夏!」

 人ひとり分入れるくらいの穴が空き、壁からクリスが顔を出した。

「千夏!」

 もう一度呼ぶ。感情が壊れ涙を流し、穴から手を伸ばした。

「遅くなった。もう大丈夫だ。こっちにおいで」

「クリス……クリス……」

 ばかみたいに名前を呼ぶと、クリスも顔をくしゃくしゃにして僕を呼ぶ。

 壁の冷たさに命と精神を削られても、彼の体温に救われた。

 もう少し抱き合っていたかったが、引っ剥がされる。

「こうしている場合じゃないんだ。見つかるとまずい」

「ここはどこ? どうして僕が閉じ込められた?」

「全部出てから話す」

 クリスは端末の小さな明かりを手に、壁伝いに進み始めた。

 途中、緩めの階段があり、高さのない段差程度だった。こんなところを通った記憶もないので、完全に気を失っていたと言える。

 階段はしばらく続いた。とにかく長い。光は見えなくても出口はもうすぐだと感じたのは、酸素が体内に入ってきたと落ち着きを取り戻したからだ。よほど地下深くに閉じ込められていた。

「ストップ」

 クリスは壁を触り、耳をつけた。

 しばらくそうしている間、両手をつけて押す。すると、閉じていたはずと壁が背後にずれていった。

「隠し扉だよ」

 光が漏れ、現れた光景に悲鳴が漏れそうになる。

 壁にはお札が張られ、棚には女の子の日本人形が並べられている。表情はみな同じで、悲しげに笑っているように見えた。

 石でできた井戸があり、誰かが落ちないように厳重に蓋をされている。

「もしかして井戸? 僕は井戸にいたの?」

「そうだ。でも落とされたわけじゃない。身体は痛くないだろう?」

「うん……確かに」

「君は薬を嗅がされて、隠し扉から井戸の底に入れられた。香山がやってくれたんだ」

「香山が?」

 危機に晒したのか助けてくれたのか、よく分からない人だ。

「助けがくるまで、しばらくこのままだ。少し休もう」

 クリスは壁を背もたれにして座り、ポケットからチョコレートを取り出した。

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