第7話 一緒にいたい

 ただ暑いだけではなく湿気がこもりやすい建物で、部屋に戻るとすぐに風呂の準備をした。

 クリスはというと、さっきから部屋に戻ってから窓のチェックをしたり、自分の鞄をあさっている。

「誰かが入った形跡がある」

「え……?」

「窓に触れた?」

「触ってもないし開けてもいないです」

「ほら、ここ」

 指を差す箇所を見てみると、白い埃の一部が消えていた。何かで擦ったような線があり、クーラーの風で飛んだと言い訳しても無理がある跡だ。

「おまけにバックの中も開けられているね。金銭目的じゃないみたいだけど。君も一度確認して」

 財布は持ち歩いているため、お金の心配はない。

 そもそも僕には、中身を開けられたかすら分からない。

「特に取られてはいないみたいだけど……何のために? ツキノワグマじゃないですよね?」

「それなら冷蔵庫に直行だよ。ふふ、面白いこと言うなあ」

 笑われてしまった。ジョークのつもりではなかった。恥ずかしい。

「それだけ俺たちはよそ者だってことさ。俺たちが彼らを探っているように、彼らも目的があって何かを不審に思っている」

「ここに泊まっていいって言ったのも、見張るためとか?」

「だろうね。夜もちょっとだけ子供じみた罠でも仕掛けておこうか」

 クリスは小さく笑い、ドア側に靴を法則性がありながらもバラバラに並べる。

 向こうから開くと、僕たちのいる部屋側に押される仕組みになる。並べ方は、並べたクリスと見ていた僕にしか分からない。考えたものだ。

 先に汗を流す権利を譲ってもらい、カーテンを閉めた。

 脱衣場と居間との境目にはドアがなく、布一枚しかない。クリスの鼻歌が聞こえる距離感だ。

 風呂に入っていると、遠くで野生の生き物の遠吠えが聞こえた。低く唸る声は、近くなくても恐ろしい声だ。

 急に鳥肌が立ち、寒くなってお湯を足す。

「ぎゃあ!」

「ちょっと、なにその声」

 先生が、まっぱで、タオルも巻かず、堂々と。

 風呂場に入ってきて、一緒に入ろうと満面の笑みで湯船に入ってきた。

「う、うそでしょ……」

「入るよ?」

 小さく頷くと、クリスは湯船に足をつけて熱い、と漏らす。

「水足します?」

「大丈夫。慣れるから」

「あの、なんで……」

「病み上がりだし、お風呂の中で倒れてたら困ると思って……っていうのは口実。君と一緒にいたかった」

 クリスは僕を抱き上げると、膝の上に乗せた。

 お湯よりも、クリスの体温が熱い気がする。

「目に見えて疲れがたまってますね」

「うん……世の中のど真ん中でがーっと叫びたい気分。どうにかしたいし知りたいし、全身を蛇で締めつけられている。身動きが取れないんだ。あまりにも情報量が多すぎて」

 小説家の言うことはいまいち分からない。こめかみを押してやると、クリスは気持ち良さそうに身を委ねる。

「もしかして、取材以外でも目的が?」

「君といちゃいちゃしたい」

「からかうのは禁止です。真剣に聞いてるのに」

「ね、洗いっこしよっか?」

 断れない僕に質問に答えを返さないクリス。会話がいまいち成り立たない。

 反応に困っていると、

「やっぱり洗いっこはいいや」

「……………………」

「もしかしてしたかった?」

「もういい」

「ごめんごめん。それは次の機会にさせてもらうよ。今は君に甘えたいんだ。ちょっと心がぎゅーってなってる」

「なでなででもします?」

「いいの? やった」

 濡れたブロンドヘアーに触れ、ゆるゆると下に伸ばしていく。

 学生時代に比べたら伸びに伸びた。後ろで一本に繋いだりそのままにしたり、自由にさせている。癖っ毛といえぱ近江さんもだ。そういえば、跳ね方の癖がクリスに似ている。

「彼女のことどう思った?」

 心を読まれたかのようだった。

「別に。何も」

「あ、今の言い方、昔の千夏っぽい。敬語は止めて前みたいに呼んでよ」

「……仕事中以外は」

「ふふ。僕はね、彼女はとても可愛らしい人だと思ったよ。君の名前を呼ばせたくないくらい」

「だから僕を相田だと紹介したの? 自分は名前で呼ばせたのに」

「まあ、俺もいろいろあるんだよ」

 醜い心は浄化されていく。僕はこんなにもクリスが好きだったんだ。認めてしまえば、すとんと落ちるところに落ちた。なぜだか認めたくない僕もいて、恋愛は厄介で楽しいことばかりじゃない。素直に好きと言いたくても、抗う悪魔が存在する。

「そろそろ出たい」

「早くない?」

「ちょっとよくない状況なので」

「んん?」

 控えめに微笑んで、僕は湯船の縁に手をかける。

 大きな手が重なり、後ろに強く引き寄せられた。固い大きな身体にぶつかるが、水がクッションとなったおかげで痛くはない。

 目が合った。青い目は空より深い。左手が頭にかかる。僕はそっと目を閉じた。

 お風呂に入っているからか、ふやけた唇は思っていた以上に柔らかい。何度かついばみ、軽く音を立てて離れた。ティーンエージャーのようで、ひどく恥ずかしかった。

 遠くでまた獣の鳴き声がする。今度はとても悲しそうで、威圧よりも何かを捜しているような声だ。

「初めて聞く遠吠えだね。何の鳴き声だろう?」

「ツキノワグマ?」

「あんな声する? 座敷わらしかも」

「幸せを運んできてくれたのかな」

「嬉しすぎて、吐きそう」

「ワァオ。それは困る。夕食は君の好きなエビだよ」

 もう一度、柔らかいものが当たる。アメリカでは友情の証に唇へのキスを許すのか。それとも別の意味が込められているのか。

「ちょっとのぼせてきたね」

 へへ、と小さく笑うクリス。

 お風呂を出て、ふたりで夕食を作った。エビたっぷりのピラフと、鮭のムニエル。スープが飲みたいと言ったら、十分とかからずコンソメスープも作ってくれた。

 僕は横で、邪魔をしていた。それでも彼はずっと微笑んでいて、いて良かったのだと錯覚した。

 また何かの生き物が吠える。深く響く大きな音で、わりと近くだった。床下の木板まで響き、うねるような動きをする。

 座敷わらしであれば、こんな音を鳴らさないでほしい。


 深夜、ぐっすり寝ていたのに突然目を覚ました。

 大きな物音があったわけでもないし、なぜだか分からない。起きたて特有のだるい感覚もなく、神経が研ぎ澄まされている。

 嫌な予感は当たるもので、隣で寝ているはずのクリスがいなかった。電気もついていないし、トイレでもない。

 布団に触れてみると、冷たくなっている。僕の心も冷たくなる。

 玄関には靴がない。暗闇の中、携帯端末の明かりを頼りに外へ出ると、エアコンもついていないのに廊下はひんやりとしていた。

 耳を澄ませてみると、出入り口のある方角から女性の話し声がする。もっと注意深く集中すると、男性の声も聞こえてきた。

 すり足でなるべく音を立てないように移動し、曲がり角で壁に背をつける。クリスだ。それに近江さんもいる。

 知り合ったのは同時期なのに、クリスはかなり親しげに何か話しかけている。近江さんもまんざらではない様子で、相づちを打っていた。

 嫉妬に任せた行動など見苦しいだけで、行動を起こさないのも情けない。どちらにせよ、中途半端で何もできない。

 二人は話が終わった後、クリスは何かを受け取り戻ってきた。

「ふふ、どうしたの?」

「ばれてた?」

「最初からね。さあ、戻ろう。山の家は真夏でも冷える」

 クリスは僕の手を繋ぎ、長い廊下を歩く。

「それなに?」

「ただの家系図の乗った古書だよ。風習とは関係ない」

 クリスはきっぱりと言い切る。これには関わるな、と強い念が込められていた。

「さあ、寝よう。明日は朝早く出かけるから」

「どこに行くの?」

「千夏はゆっくり休んでていいよ。昼食も準備しておくからね」

 開いた口が塞がらなかった。ご飯もろくに作れないし、これではただのお荷物だ。しかも僕は食料も水も電気も消費する分、何もしない荷物の方がまだましかもしれない。

「ごめん千夏。ちょっと用ができたんだ。終わったら必ず話すから、明日はここにいてほしい」

「僕が側にいたら足手まとい?」

「違う。あっ浮気じゃないから心配しないで」

「浮気?」

「心配してないの? それはそれで寂しいけど」

 クリスは僕の肩を撫でる。もう一度顔が近づくが、今度はごまかしのキスに感じてあまり嬉しくはなかった。

「俺のわがままだ。君は明日、ここから出ないでほしい。俺に閉じ込める権利なんかないけど……。君はとても聡明で物分かりがよくて、とても魅力的だ。座敷わらしに攫われたりでもしたら、俺は生きていけない」

「クリスの座敷わらしのイメージってなに?」

 おかしくて吹き出してしまった。それに必死すぎてむちゃくちゃだ。

「分かったよ。明日は部屋から出ない。その代わり、プリン作って?」

「オーケー。プリンでもみそ汁でもなんでも作るさ!」

「みそ汁はいいかな。スープまだ余ってるし」

「オーウ……」

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