そして、そのドアを開ける

樋野

ウタウヒト

ウタウヒトを買った。

 社会人になって5年目という節目の時期に自分にご褒美をあげたくなったからである。車ほどの大きな買い物ではなかったけれど冬のボーナスは飛んで行った。でも後悔はない。会社の健康診断でメンタル値が良くなかったというのも購入を考える大きな要因になった。このストレス社会を生き抜くためにも癒しは必要だ。

 私はテーブルに鎮座するアクリルボックスをのぞき込む。ウタウヒト専門店から送られてきた私のための、私だけのウタウヒトがそこに入っている。白雪姫の棺のようにメルヘンチックな装飾が施されたその箱は手のひらよりは大きいけれど、両手ですっぽり覆うことができるようなサイズだ。こんな小さなものが私の心の疲れを癒してくれるのかと思うとまだまだ半信半疑である。

 とにもかくにもまず、起動してみなければ。

私は5回6回と深呼吸を繰り返し、ちっともほぐれない緊張に八つ当たりするような勢いでエイヤっと箱の蓋を開ける。するとそこには小さな小さな箱の中で横たわる妖精のごとき愛らしさのウタウヒトが入っていた。親指姫が実在したらきっとこんな感じだろう。可愛い。まぶしいくらいかわいい。手のひらに乗るほど小さいのにその姿は人間にひどく似ている。おもちゃというにはあまりに精巧に作られていて生きているとしか思えない生々しさがある。私は、はち切れんばかりに拍動する心臓で己の生きる血潮をしっかり感じながらウタウヒトの起動スイッチを探す。説明書には首の後ろあたりと書いてあった。確かになにか突起物がある。そのスイッチを押すと、まるで眠りから醒めたみたいにウタウヒトはゆっくりと起き上がった。

鮮やかな紺のワンピースを身にまといウタウヒトはその小さな体を起用に動かして私に向かって挨拶をしてくれた。桜貝みたいな指先でワンピースの裾をつまんでちょこんとお辞儀をしてくれたのである。私はその仕草でみごとに撃ち抜かれたしまった。どうしよう世界一可愛いお姫様がうちに来てしまった。さすがSNSを日夜騒がす魔性の存在である。

例え起動後の動作確認のためにプログラムされた動作であろうとも関係ない。最高に可愛い。生きているとしか思えない。こうして見つめているだけで日々の疲れなど吹き飛んでしまう。

この緑色のつやつやきらめく瞳がカメラだなんて一体誰が信じられるだろう。


私は高揚する気分のままにウタウヒトを使ってみることにした。なんだかちょっと興奮しすぎている気がするし精神を安定させる作用があるらしいのでちょうど良い。体感してみよう。


「歌って」


私がコマンドを発声すると、ウタウヒトはにっこりとほほ笑んで私を見つめ、そして数秒の沈黙の後曇りのない声で歌い始めた。その歌に言葉はなく、ラララだけで紡がれていく。明るいとも暗いとも言い難いような歌だ。それなのに、どこか心を打った。透明感のある歌声は伸びやかなのにすぅと溶けていく様な不思議な声で思わず聞き惚れてしまう。聞いているだけなのに全身の力が抜け眠ってしまいそうなほど心地よい。歌声によってマッサージを受けているみたいで、思わずほうっと息をついてしまった。瞳のカメラ機能によって私の表情や顔色からメンタル値を観測して、対象者に精神的安定をもたらす歌を自動生成しているらしい。この歌声で脳を刺激し副交感神経の働きを高めるためリラックス効果が得られるというわけである。

どうしても時間がかかるメンタルケアの新たな選択肢の1つとしてウタウヒトは誕生した。

外見の愛らしさもさることながら、その即効性が何よりの魅力だ。カウンセリングではどうしても人間同士の信頼関係が必要になるしそれを築くためには相応の時間も、性格の相性もある。それが一言呼びかけるだけである程度まで回復するなんて忙しい社会人には嬉しい機能だ。自分の心と真剣に向き合っていくのは難しい。

現に私だって、さっきまであんなに興奮していたのに今はもう冷静な理性を取り戻している。こんなに効くならもっと早くに購入しても良かったかもしれない。

ウタウヒトは、私が落ち着いてきたことを観測したのか歌うのをやめ、ご清聴ありがとうございましたとでも言うようにぺこりとその小さな頭を下げた。その動作の滑らかさに感動する。ほんとうに生きてるみたいだ。


「ありがとう、これからよろしく」


私が声をかけると、ウタウヒトは笑顔のままこっくりと頷いてみせた。


それからというもの、私は嫌なことがあるとウタウヒトに頼るようになった。仕事に失敗したときも、日常での些細な気分の落ち込みも、恋人に振られた時だって、ウタウヒトの歌を聞くとすっと気分が楽になる。まるで魔法だ。

気付けば私は、いつでもどこでもウタウヒトを持ち歩くようになっていた。メガネケースよりも小さな箱は、まるでお守りのようにいつも私の鞄に入っている。仕事に行く時だってそうだ。忘れたらわざわざ取りに戻るようになった。

休憩時間には同僚とランチに興じるよりも、こっそりウタウヒトの歌を聞くことのほうが多くなった。

休みの日にはウタウヒト専門店に通い、メンテナンスや彼女の服を買い漁るようになった。

彼女に向き合うことで、どんどんストレスが無くなっていくような気がした。仕事にも打ち込めるようになって、大事なセクションを任されることにも繋がった。もちろんそれに見合うだけのリスクがあるのはわかっている。それでも、やっぱり昇進は嬉しい。



半年が経過した頃、とうとう私は毎日彼女の歌を聴くようになっていた。

そうしないと、不安で不安でたまらないのだ。同じ失敗を繰り返すのが怖い。人間関係が崩れるのが怖い。間違えるのが嫌だ。

そうした不安を彼女の歌で打ち消す。根本的な解決は難しいが明日を戦う力は貰える。ゴミだらけの部屋の中でも、彼女だけは変わらず愛らしかった。


「歌って、歌って、歌って」


もはや命令ではなく、懇願だ。おかしいのはわかっている。分かっているけど、逃げたかった。とにかくあの声が聞きたい、あの歌が聞きたい。しかし頭の奥でまだ残っていた理性の端っこが、とても恐ろしい、結論をはじき出す。

こんなの、まるで、わたしが。

私が支配されてるみたいだ。

そこに思い当たった瞬間、息が止まる。

体に電撃が走ったみたいに全身総毛立つ。

悲鳴を、上げたかもしれない。よく覚えていない。ともかく私は靴も履かずに走り出した。このままじゃいけない。このままじゃいけない。

私はウタウヒトを購入した専門店に駆け込んだ。


店主らしき老年の女性が、目を丸くして私を見ている。当然だろういきなり裸足の女が来てものすごい剣幕でウタウヒトを返品したい、なんて。


私はすっかり錯乱したみたいにその老婆に洗いざらいことの顛末を話した。ウタウヒトの歌がなければもうどこにも出かけられないほど依存していること、支配感を感じること、生きていくことへの不安。便利な道具だと思っていたのにコントロールされているように感じること。


老婆は私の言葉をすっかり聞き終えると一言そうですか、と

告げた。


「聞いていましたね?試験番号80521。あなたは対象者に極めて強い不安感と依存心を植え付けました。魔法歌療法士としてあってはならないことです。よってあなたを失格とします」


冷たく鋭利な言葉が老婆の口から宣告される。意味が、分からない。


「…申し訳ありませんでした、師匠」


鈴の鳴るような声音がそれに答える。声を視線で辿ると、家に置いてきたはずの、私のウタウヒトがふよふよと宙を漂い、言葉を操っていた。もう何が何だか理解できない。どうしてここに?



「励みなさい。二度とこんなことのないように」


「はい」


ウタウヒトは肩を落としてしょげているようにみえた。


それから、と老婆は私に向き直る。


「あなたには大変申し訳ないことをしました。未熟な生徒をあてがってしまったこと、そのせいであなたの日常が壊れてしまったこと、師としてお詫び致します。次の子は人と良い距離感で共存できる実績のある子に任せようと思います。大丈夫、あなたはいつも通りにしていてくれたらいいのです、さぁ目を閉じて」


老婆の言葉はまるで他の世界の言葉のようだ。まるで意味がわからない。


「つぎ目覚めるときは、きっと、大丈夫ですよ」


優しい老婆の声が耳に届く。まぶたが重くなる。こんな所で眠るわけにはいかないのに。


────目が覚めた。

無機質な目覚ましのアラームを必要以上の力で止めて、私はぐっと背伸びをする。床で寝ていたからか体中が軋むように痛い。つん、とカビの匂いが鼻につく。ゴミだらけの部屋でとっくに埋もれたベッドをそろそろ発掘すべきだろうか。さすがにこの状態は常軌を逸している。というかこんなに汚していただろうか?ともかく今日は掃除をしなくちゃ。忙しさにかこつけてこんな自堕落な生活をするのはよくない。ふと、私はテーブルの隅に無造作に置かれたアクリルボックスを見つけた。手に取り青白い光を落とす照明に透かしてみる。光がきらきらと反射して美しい。

けれどこんなもの、持っていただろうか?アクセサリーボックスにしては随分メルヘンチックな装飾だ。


不意に、来客を告げる呼び鈴が鳴った。そうだ、今日は待ちに待ったウタウヒトを迎える日だ。私のための、私だけのウタウヒトを。


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そして、そのドアを開ける 樋野 @Tsurara_amano

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