これまでに乞い盛る

 奇乃あやの旭女あさひめの浴びる瞼を持ち上げることをしないで意識を覚醒させていた。


 目を開かない理由は一つ。


 この部屋にいるもう一人がすでに起きていて、じっと奇乃を見詰めている気配を感じ取ったからだ。今、瞼を上げれば、奇乃の眸は確実に実景みかげの瞳とばっちりと合わさることだろう。


 寝起きでそんなことになれば、気まずい。


 奇乃は息を潜め、実景の意識が反れるのを待つ。

 呼吸一つ分だけ視線を外してくれたら、その隙に目覚めたフリをしようと機会を伺う。


 けれど、実景は十分を過ぎても、意識を反らすどころか、瞬きもしないで奇乃を見続けた。


 これならいっそ、起きた時に目を開けば良かった。十分も寝たふりをしながら、今更起きていました、なんていうのは、とっても気まずい。


 奇乃は寝返りを打つ。

 実景の視線から逃れて目を覚まそうかと狙った奇乃だったが、実景は奇乃が思考した間に体を寄せて隙を埋める。


 余りに隙がなさすぎて、奇乃は絶望する。


「おはよーございます、ですのー」


 奇乃は溜め息に諦めを混ぜて、目覚めの挨拶を告げて瞼を上げた。


 実景の黒目勝ちな瞳が大きく映る。


 実景は驚きで目を見開き、そして赤く染まっていく顔を俯けて隠した。

 もっとも、布団に伏せた奇乃からは、その顔色ははっきりと見えてしまっているけれども。


「実景ちゃんは友達におはようも言ってくれませんの?」


 からかい半分、欠伸半分で奇乃は指摘して、体を起こした。


 それでも実景は挨拶もできなくてわたわたと手足を暴れさせている。


 奇乃は立ち上がり、伸びをして眠りで凝った体を解す。

 時計を見れば、まだ六時であった。


「随分と早いですけれど、もう学校へ行きますの?」

「あ、ううん、学校に行く前に走るのが日課で……」

「ああ、いいですわね。鍛錬の基本ですわ。お付き合いいたしますわ」


 二人はてきぱきと朝の支度を済ませて、朝日がもう陽針ひばりを降り注ぐ町へと駆け出した。


 いつもの一人で行う日課を、友達と一緒にできるのが嬉しいのか、実景はずっと笑顔を浮かべていく。


 奇乃はその顔を見ながら、思ったことを口にする。


「実景ちゃんは普通の女の子になりたいのでしょう? でしたら、走り込みとかしない方がいいんのではないですの? 鍛錬をしなければ、三年もしたら嫌でも体力も筋力も技術も落ちますわよ」

「うん、そうかも、しれないけど……」


 奇乃の指摘に理論だった言葉は返って来ず、実景は道路を駆けていく。

 その速さは、奇乃でも全力で、気を抜けば置いていかれてしまうし、二時間は続けられないと判断するほどだ。


 限界まで体力を削って、底上げをする基本的な体力作りだ。これを続けていくというのは、自分の力を維持するということに他ならない。


 二人の会話は途切れて、アスファルトを蹴るスニーカーの擦過音と、早起きな鳥たちの囀りが朝の空気に響乃ゆらのしている。


 鳥の棲家という地名の意味の通り、種類の多い鳥たちの声を聞き、時々姿を目で追って、奇乃は気を紛らわせていた。


「道場も流派も、弟のあの子が継ぐのでしょう?」

「ええ、そうだけど……」


 景隆の子供が実景一人であったなら、自分の意志に関係なく強くあらねばならないだろう。

 でも実際は跡継ぎとなる健康な男児がいる。


 実景が鍛錬を行うのは、外津魂そとつたまに縛られているのではなくて、自らの魂によって定めたことであるはずだ。


 昨日に手合わせをして、言葉を交わした限りでは、景隆は子供に強さを強要するような人物ではないと奇乃は把握している。

 それどころか、実景を闘わせないために、勝ち目の全くない奇乃に対して向かってきたくらいだ。


「まぁ、人の気持ちなんて自分でもどうにもなりませんものねー」


 しかし奇乃はその一言であっさりと疑念を放棄した。


 そもそも、体をきちんと鍛えてくれている方が、強者と闘いたいという欲求を持つ奇乃にとっては都合がいい。


 実景は何か言いたそうに口をもごもごと動かすけれど、墓穴を掘ったり藪蛇を突いたりしたくないのか、それは言葉にまでは至らない。


「奇ちゃんは、どうして強くなりたいの?」

「え? わたくし、別に強くなりたい訳ではありませんけれど。そんなこと言いました?」

「え?」


 代わりに、同じことを奇乃に訊き返したら、盛大に食い違った。


 足が縺れてもおかしくないくらいの動揺が実景の心に走ったけれど、ペースは全く落ちずに奇乃と並走している。


 それでも顔を真横に向けて、奇乃を穴が開くほどに見つめる。


わたくしは強い方と手合わせしたいだけで、自分は強くなるつもりはありませんの。むしろ、強くなってしまったのはこう、自然と? 気づいてたら誰も相手にならなくなってたみたいな? そんな感じですのー」


 そんなふんわりとして至った強さに下された景隆を始めとする各地の道場の人達が、実景は憐れに思えた。


「えぇえええ?」

「うわー、なんだか、不服そうな声あげられましたのー。かなしいですのー」


 奇乃は棒読み過ぎて、ちっとも悲しそうではなかった。


 それでますます実景からの非難の眼差しが強まる。


「んー、それで強い方と闘いのは、こう、生きてるって実感と悦びが得られるからですわね。ぶっちゃけ、趣味ですわー」

「しゅみ」


 随分と物騒な趣味もあったものだと、実景は呆然とした。


 しかし、奇乃にとっては存在証明にも近く、重要な事実だ。


「でも、親戚でもわたくしと対等にやり合える相手はいませんし、おもしろくないから、お年玉使って遠出したんですのよ。それももう底をつきましたけれど。全国回ったのに、楽しく闘えたのはほんの二、三人ですのー」


 奇乃は不満をたっぷりと込めて頬を膨らませる。


「それも、建物が壊れるとか、山の動物が逃げて生態系が壊れるとか、邪魔が入って決着まで行けたのは一戦だけですのー。不満爆発でしてよー。だから最後は絶対に思う存分闘いたくて、絶対にわたくしと同じくらい強いって確信した相手のところに来たんですのよ」


 そこでくりんと奇乃は実景に顔を向けた。


「それが貴女でしたの。わくわくしながら会いに来たんですのよ、わたくし


 まるで推しに会いに来たんだというような奇乃の顔には、少し寂しそうな色が差していた。


 それが、手合わせを拒否されたからだというのは、実景にも分かった。


「一回だけでいいですのー! 一回本気で相手してくれたら、わたくしは満足して帰れますのよー!」

「うわ……ひどいナンパみたいな言い方しないで……」


 本音を駄々洩れにして懸命に懇願してくる奇乃の物言いに、実景はげんなりとして一気に応えてあげようという気持ちを減衰させてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る