第2話

 翌日。

 茹だる熱気も蝉の鳴き声も不変な夏の日。

 由良原は普段よりも早い時間に横断歩道へ立っていた。当然、手持ち無沙汰な両手は車椅子の持ち手ではなく、虚空を軽く握っている。

 夏真っ盛りの時期にエアコンが故障したという悲劇が、彼に本来の出社時間よりも一時間もの前借での出社を促していた。如何に仕事が面倒であろうとも、冷房の行き届いた快適な空間とのトレードオフならば容易い。

 しかし、ここで時間を早めてしまえば後から散歩に来る少女が困ってしまう。

 所詮独りよがりな独善に過ぎず、少女の名前すら知らず一方的に名乗った程度。そんな安く、軽い関係であるが、だとしても心配をしてしまう。

 どうしたものか、と信号の前で腕を組み逡巡。

 信号が二度、切り替わった頃であろうか。


「なぁ、次は誰狙うよ~」


 神経を逆撫でする不快な声音が、背後から鼓膜を震わす。

 由良原が腰を捻れば首や腕にチェーンを巻き、口元を髑髏の描かれたハンカチで覆ったパンクファッションの一団が路地裏に居を構えていた。

 歳は高校生であろうか。随分と早い起床であるが、学校に赴こうものなら即座に帰宅しろと教員に指摘される服装では意味もなし。

 幸か不幸か、信号は緑が明滅して往来を制限。由良原の意識を自然と背後の会話へと専念させた。


「誰ってつっても、そう都合よくいるのかよ。ターゲットがさ?」

「それがよぉ、もう少し待てば来るはずだぜ」

「来るって、ここにか?」

「そうそう。いっつもサラリーマンに車椅子押させる卑怯者!」

「ッ……」


 歯を食いしばる。


「マジかよッ。自分で押せる癖にッ、王様気取りかよ~?」

「いやいや、女だから王女様だよ」

「うぁわぁ、自分が可愛いって自覚のあるタイプとかド地雷だわぁ」

「しかも念入りに包帯とか巻いちゃってさぁ、厨二突き詰め過ぎって感じぃ」

「ッ……!」


 歯を食いしばる。


「ギャハハハッ、どうせ障害ある振りして楽してんだろ。マジないわぁ、逃げだわぁ」

「ッッッ……!」


 奥歯の砕ける音が合図であった。

 振り返る動きも、集団へ歩む足取りも会社へ向かうのとは比較にならない程に軽い。表情筋が強張る感覚こそあれども実際にどのような表情へ変異しているのか、今の由良原には理解も及ばないし及ぶ必要もない。


「あぁ? なんだよお前──」


 ただ、背後で不快に喚く害虫共の駆除を可及的速やかに実行するための拳に比べたら、表情など些事の些事。

 肉と肉のぶつかる不快な感触と、指から骨へ伝播する鈍い痛痒。格闘技の類を修めていない由良原のストレートはアスリートの放つ同種と比肩できないまでに弱く、そして適切な力の移行も行えない。

 それでも、余剰分が己が肉体を痛めつける代物でも、不快な害虫の歯を宙に回せるには充分な威力を秘めていた。

 害虫の肉体が地を離れて疾走するも、即座に別の害虫が身体を支える。


「テ……メェ、何しやがるッ!!!」


 顔を抑えた害虫が鼻から垂れる鮮血を指で拭い、由良原への敵意を高める。呼応して、集団も仲間に手を出した余所者を敵対認定。

 勝ち逃げなど許さないと即座に由良原を囲うと、方々から殴打を浴びせて路地裏へと誘導する。

 彼としても大通りでの喧嘩を避けられるなら本望だと、反撃の拳もそこそこに誘導そのものには従順に従った。



 結論から述べて、義侠心からの行動は愚かである。

 勝てない戦には勝てないだけの根拠が事実として存在し、問題点を解消できないのならば勝ち戦へ転ずることは叶わない。

 そして古今東西、無策で数の暴力を覆す手段は存在しない。


「ギャハハハ、コイツよっえなぁ!」


 肉体的全盛期と未熟な精神の相乗効果によって全開の暴力を振るう害虫達。

 数は八人程度であろうか。

 部隊にして二小隊相当の戦力が、たった一人の非力な男を寄ってたかってサンドバックとして扱い、日頃の鬱憤を発散する。

 夏にも関わらず着込んだ黒スーツは痛み、端々にはアスファルトを転がった反動で破けてもいる。由良原自身もまた、亀の如く身体を丸めて少しでも傷を抑えるばかり。

 無謀な突撃を嗤う声が木霊する路地裏。

 外から凄惨な光景を目撃した通行人こそいれども、誰もが我関せずと目を背けるばかり。

 当たり前だ、自主的に己が身を危険に晒して由良原を助けた所で一切の利点がない。どころか、たった一人の増援では害虫に贄を与えるにも等しい。

 そして理由はもう一つ。


「わざとやられてるだけだろ……」


 誰かが呟き、路地裏から視線を逸らす。

 人にあるまじき異能を振るえば、多少の人数差など容易く逆転する。

 異能への理解が深い国々では、代替困難な力を軍に組み込めないかと専用の特殊部隊が検討されている。それだけの力を、図らずも由良原は期待されているのだ。

 それが他者を助けない言い訳と意識してか否かは別にして。


「お兄さんさぁ、俺も鬼じゃ無い訳よ?」


 暴行の嵐が止み、害虫の一人が腰を下して由良原を見下ろす。

 鼻がやや曲がっている辺り、不意を突かれて殴られた者であろうか。

 声音と目の奥で灯る暗い輝きの燃料は、侮蔑と嘲笑。自分達に手も足も出ない様子にご満悦なのか、爬虫類染みた眼差しは由良原が負った怪我の程度を眺める余裕を持つ。


「今ここで土下座してさぁ、財布置いて帰ってでもくれれば文句はない訳よ。分かる?」

「……」


 一方的な、さも自身に非がないと断じる態度に、由良原は閉口。


「わっかんないかなぁ。俺らはこれから本番がある訳よ、脇に体力を使ってる余裕はないの?」

「本、番……?」

「そ。そろそろ来るらしい車椅子の調子乗ってる奴? に制裁を加えようと……」


 粘度の高い、赤の混じった液体が囀りを妨げる。

 吐き出したのは蹲り嬲られるだけだった由良原の口。

 甚振られてなおも意志を曲げぬ様に害虫は表情を固め、周囲は仲間の汚れた顔を見て冷笑を漏らす。


「制、裁……だ……寝言は寝て、言え」

「……プッチーン」


 わざとらしく、自らの怒りを口にすると害虫が腰を上げる。見下ろす視線はそのまま、首を数度鳴らして蹴り上げ。


「がッ……!」


 蹴り上げたのは、顎。

 突然の衝撃でこそあるものの、舌を引っ込めていたがために噛み切る事態は回避。刈り取られた意識を背中に伝わる痛みで取り戻すと、不幸にも取り囲む害虫の顔がよく見えた。

 ハンカチで覆っているのが幸いであるものの、不愉快が滲み出ていれば無意味。

 あぁ、服がボロボロだ。これで仕事に向かうのはむしろ失礼ではないか

 そのようなことをぼんやり思案していると、視界の端に影が差し込む。

 それは、街路から注がれる光を遮るように──


「なに、やってるの……」

「ハッ。鴨葱ってヤツだろ、これ……!」

「お、い……離れ、ろ……」


 全身に包帯を巻いた、病弱な容姿。不要だと肉体が勝手に断じて削られた筋肉。

 陽光を浴びる白髪を乗せた車椅子のシルエット。それらの要素は紛うことなく由良原が普段から散歩の手伝いを行っている少女であり、声も普段から聞き慣れた代物。

 ただ一つの例外として、純粋な赤の眼差しだけがどこか濁りを帯びている。

 それは毎朝、顔を合わせていた由良原だからこそ掴めた変化。


「おいカズ、俺はあっちと先に遊んでっぜぇ」


 無論のこと、今日始めて顔を合わせた害虫に彼女の心境を掴めるはずがない。


「なぁ、お嬢ちゃん。あっこのボロ雑巾にいつも車椅子を押させてたんだろ、ひっでぇな。奴隷かよ」

「わたしの質問に、こたえてよ……」


 不意に、ビルの一片へ亀裂が走る。

 突如、アスファルトに蜘蛛の巣が張られる。

 突然、路地裏側に張られた窓ガラスが一斉に砕け散る。


「キャッ。んだよ、いきなりッ!」


 降り注ぐ欠片の驟雨に頭を隠す害虫とは対照的に、車椅子の少女は微動だにせず睥睨。

 乱反射する光が少女を照らす中、自身の周囲に神秘を纏って言葉を紡ぐ。


「そこにころがってる由良原さん。いいひとなんだよ……いつもわたしの車椅子をおしてくれる」

「なんだよ、やっぱりお前さんは異能持ち──!」


 害虫を覆うかの如く、一陣の暴風がアスファルトとビルを抉る。

 舞い散る瓦礫はそれだけで彼らに恐怖を抱かせ、死神の鎌が首筋を優しく愛撫する。

 車椅子が音を立て、車輪を回して前進。

 まずは一歩。害虫が後退りし、肩を震わす様は小動物を彷彿とさせた。


「わたしって、こまかい制御ができないから。腕の一本じゃたりないよ……?」

「ヒッ──!」


 安い挑発だと、由良原は思ったものの害虫達の意志を挫くには充分。

 統率を無くして我先にと駆け出した先は、路地裏の奥。

 光から背く形の逃走劇は彼らに利し、己が身を闇の中へと眩ませた。元よりその気はないとはいえ、車椅子の状態で薄暗い場所で人探しを行うのは非効率極まりなかろう。

 少女は由良原の前で車輪を止めると、心配そうに瞳を潤ませた。


「だい、じょうぶ……血がながれてるよ、由良原さん?」

「……あ、あぁ。心配するまでも、ない……」

「そんな、手は、あ……」


 起き上がろうとする由良原へ手を差し出そうとした少女だが、体勢が崩れそうになり慌てて身体を引き戻す。

 申し訳なさそうに顔を下げた少女だが、彼としては救いの手を差し伸べられただけでも喜ばしいというもの。全身の埃を叩きながら、感謝の言葉を注ぐ。


「ありがとう、どうなることかと思った」

「そ、そう……」


 普段は礼を言われる立場であった由良原にはむず痒い感覚があったものの、慣れない代物だという程度で気持ち悪い程でもない。

 しかしながら、少女は礼を言われたことよりも隠し事をしていた事実に意識が偏っていたのか。目を合わせることもなく、陰気を充満させる。

 まごついた口が音を発したのは、何度目の往来であろうか。


「かくしてて、ごめんなさい……でも、嘘じゃないんだよ?」

「異能のことか。別にどうってことはないさ、困ってたことに代わりはないんだろ?」

「……」


 返事は、首肯であった。


「口先だけ、なんていわないんだね……?」

「そりゃ、普段から人助けばっかりしてれば本当に困ってる人も分かる」


 うんうんと頷き、回想する由良原に少女は感嘆を漏らす。

 いったいどれほどの経験を積んだのだろう。仕事先でも同様なのだろうかと想像の羽を広げていると、男は上着を脱いで路地裏を去ろうと踵を返す。

 一瞬の躊躇。

 そして待って、と消え入りそうな声を零す。

 まだ何かあったかと振り返った由良原が目にしたのは、人差し指を回している少女の姿。


「そ、そういえばね。もうひとつ、わすれてることがあったよね」

「忘れてること? 仕事のことならもう休もうかと思ってたけど……」

「そうじゃなくて、ね」


 気づけば少女は頬に朱を混ぜ、忙しなく視線を左右に振っていた。

 意図が読めず、由良原が首を傾げていると意を決したのか、少女が口を開く。


「霧崎無月……わたしの名前。すきな風によんで」

「……あぁ」


 数秒の後、漸く由良原は理解が及んだと口を開く。

 彼女、否、霧崎が名乗って初めて把握したが、由良原はどうにも普段から手助けしている人物の名前すらも把握していなかったのだ。

 そこから顎に手を当て、数秒。

 うん、と首を縦に振ると由良原は口を開く。


「……なら、霧崎で。

 それじゃあ霧崎、そろそろ散歩するか?」

「! ……うん!」


 当然のように紡がれた言葉に、霧崎は声を弾ませて応対。破顔した表情は、これまで一番といっていい程に歓喜を孕んでいた。

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俺と車椅子と異能と病弱 幼縁会 @yo_en_kai

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