青とピンクに宣戦布告

一初ゆずこ

青とピンクに宣戦布告

 夕立に見舞われたのは、蒸し暑い油照あぶらでりの放課後だった。

 山際やまぎわの空に、積乱雲のソフトクリームが発達する。HRホームルームの終わりと同時に、轟いた落雷が合図だった。篠突く雨が校庭を穿うがち、着席した生徒の姿が窓に映る。短いポニーテールの毛先は、セーラー服の襟に届かない。羽岡涼子はねおかりょうこは眉を寄せた。

 先日切り過ぎた前髪に、若干の不満があるからだ。極めて自分らしくない、妙にアンニュイな表情も。鏡像の涼子を眺めていると、背後に女子生徒が現れた。

「涼子、帰ろう」

 沢村雪歩さわむらゆきほが、声を弾ませた。肩口で切り揃えた黒髪が、蛍光灯の光を弾いている。目元には個性が出るのかもしれない、と涼子は取り留めもなく思った。垂れ目でお淑やかな雪歩と、丸い目で活発な涼子は、タイプが異なる幼馴染だ。

「雪歩のクラスは、HRが終わるの早いね」

「うん、三組はいつも早いよ。今ならバスに間に合うね」

 校庭から、悲鳴混じりの談笑が聞こえた。この時間帯の中学生は、バスに乗る為にみな必死だ。普段は帰宅部の生徒だけが急いでいるが、期末テストを来週に控えた現在、部活は全て休止中だ。思案した涼子は、笑みを作る。

「雪歩。迎えに来てくれたのに、ごめん。私は自転車で帰るから、先に帰って」

「え? 自転車なら置いていって、バスに乗れば……」

「明日の朝、自転車がないと不便だし。雨宿りしてから帰るよ」

「そんなぁ、一緒に帰ろうよ」

 雪歩は、悲しそうに眉を下げた。最近整えられた眉を見ていると、昔は気づかなかった瞳の大きさとか、陸上部に入った涼子よりも白い肌とか、この三か月で自覚した隔たりの数々を意識する。

「涼子と、昨日の続きを話したかったのになぁ」

 心臓が、変な跳ね方をした。「ほら、バスが来ちゃうよ。これを逃したら次は一時間後だよ」と涼子がおどけた声音で急かすと、雪歩は小さく笑ってから、上履きの爪先を廊下に向けた。

「明日は話そうね。絶対だよ?」

「うん、気をつけて帰ってね」

「ばいばい、涼子」

 手を振った雪歩が、プリーツスカートを翻して去っていく。別れ際の笑みはいつも通り控えめなのに、女優のように華やかだ。涼子は、着席したまま窓を眺めた。

 窓に映る顔は、昨日から自分らしくないままだ。


     *


 雪歩に相談を持ちかけられたのは、昨日の昼休みのことだった。中庭に呼び出された涼子は、木陰を選んでベンチに座り、購買のカレーパンを取り出した。

「雪歩と一緒に食べるの、小学六年以来だよね」

「うん……」

 隣に座った雪歩は、弁当の包みの紐をもじもじと指先でいじっていた。悩み事があるのだとすぐに判り、色めき立った涼子は、身を乗り出す。

「また男子に意地悪されたの? 私がぶっ飛ばしてあげる!」

「ち、違うの。その男子も、最近は優しいし」

 雪歩は、蝉の音に負けそうな声で言った。

「涼子は、好きな人いる?」

「えっ……いない、けど」

 どきりとした涼子は、すぐに答える。雪歩は、ほっとした顔で囁いた。

「私に好きな人ができたら、協力してくれる?」

 ――協力? 涼子は、カレーパンを落としかけた。

「えっとね、名前は……」

 俯いた雪歩が、弁当の包みを両手で握りしめた。ピンクの布地に落ちる木漏れ日を茫然と見つめる涼子へ、数年分の勇気を前借まえがりしたような声で言う。

「同じクラスの、山科隼人やましなはやとくん……」

「転校生の?」

「そうなの。東京から来た山科くん! すごく頭が良くて、スポーツもできて……」

 ぱっと顔を上げた雪歩は、山科隼人がどんなに素敵な男子なのか、涼子がカレーパンを食べ終えるまで熱く語った。俳優に入れ揚げている口調に、涼子は戸惑う。親友が、知らない少女に見えた。

「とにかく、教室まで見に来て!」

「え、今っ?」

 食べかけのメロンパンを持ったまま、涼子は三組まで連行された。雪歩は廊下で喋るふりをしながら、小声で言う。

「窓際で、本を読んでる人」

「知ってるよ。全校集会でも紹介されたし」

 涼子は雪歩のようにこそこそせずに、堂々と教室を見て言った。

 読書をやめた転校生は、友人と雑談を交わしている。当たり障りのない態度は、深山の清水のように透明で、どんな環境にも合わせられる柔軟さと、決して道を曲げない頑固な側面を感じさせた。切れ長の目が、冷めた印象を与える所為だろうか。やはり個性は目元に出る。

「ね、格好いいでしょ?」

 ミーハーな雪歩と違って、涼子には判断できないので「んー」と適当な返事をした。白シャツと黒いズボン姿の隼人が、先週は他校の制服姿だったことを覚えている。

 その日、部活で校庭に出た涼子は、校舎に入る母子を見かけた。のちに近所の噂で有名になる母親は動きが硬く、遠目にも緊張が窺えた。

 その分、少年は泰然自若たいぜんじじゃくとして動じなかった。日向ひなたの校庭から昇降口の日陰に入るまで、見えない敵と対峙しているかのように隙がない。風に前髪をなびかせた横顔に、涼子は親近感を覚えた。

 もし転校生なら、仲良くなれるかもしれない。

 そう感じた人物に、親友が好意を抱くなんて思いもしない。

「雪歩は、山科くんに声をかけたの?」

 訊いてみると、沈黙が返ってきた。奥手な雪歩らしい反応だ。涼子は呆れた。

「友達くらい、すぐになれるよ。雪歩が勇気を出すだけだよ」

「それが出来ないから、協力してほしいの!」

 雪歩が、泣きそうな顔で訴えた。たじろいだ涼子は、言い返す。

「そんなことを言われても、困る。そもそも、協力って何をすればいいの?」

 雪歩は、また黙り込んだ。名は体を表す白い頬が、薔薇ばら色に染まる。涼子は、今度こそ本気でたじろいだ。

 雪歩は、隼人と友達になりたいわけではない。

 もっと親密で、特別な関係になりたいのだ。

「お願い、協力して!」

 手を合わせた雪歩は、瞳を潤ませた。恋をしている顔を、初めて間近で見てしまった。少女漫画のヒロインみたいに、涼子を頼る雪歩は可愛かった。

 なのに、胸がざわつくのは何故だろう。

 返事をする前にチャイムが鳴り、雪歩は小声で「お願いね!」と言い残し、三組の教室に戻っていく。涼子もメロンパンを袋に戻し、一組の教室へ急いだ。

 廊下の窓に映った自分は、雨に打たれた子犬のような目をしていた。


     *


 校門の右側にあるバス停は、バスが去った後も盛況だ。列を作る集団を横目に、黄色の傘を差した涼子は、反対側の舗道を歩く。

 雪歩と友達になって六年間、今までに引き受けた頼みは、男子に苛められたから助けてとか、一輪車の練習に付き合ってとか、涼子が力になれることばかりだった。冗談を言い合う少女達の声が耳に入り、涼子を落ち着かない気分にさせた。

 バニラみたいな甘さの声に気づいたのは、梅雨入りした六月だ。三か月前には呼び捨てにしていた男子生徒を、女子生徒の誰かが「くん」付けで呼び始めた時、皆が恋をしているのだと知った涼子は、本能的に怖気づいた。

 小学生が中学生になるだけで、薬液に浸したリトマス試験紙みたいに、曇り空の青色や、夕暮れの空のピンク色に、皆の雰囲気が変わってしまう。一人、二人と色を変えて、ついには親友の雪歩まで。恋とか、愛とか、青春とか。そんな名前を持つものが、涼子の日常を変えてしまう。物思いに沈むうちに、目的地に到着した。

 ブロック塀で囲われたバス停は、今日も涼子の独り占めだろう。

 そう信じていたのに、先客がいた。

 長椅子に座り、膝に載せた文庫本から顔を上げたのは――転校生、山科隼人だった。


     *


 まずいことになってしまった。長椅子の隅に座った涼子は、隣を盗み見る。

 反対側の隅に座った隼人は、文庫本を読んでいる。親友の好きな人と二人きり。雪歩になんて言い訳をしたらいいのだろう。

 けれど、何を言い訳するのだろう。雪歩と隼人はまだ他人で、涼子に非があるとすれば、雪歩に返事をしなかったことだけだ。気まずさから距離を置いたが、明日は必ず返事をしよう。それまでは協力の話を忘れると決めて、ふと気づく。

「ここ、バス来ないよ」

 涼子が口を開くと、隼人はびっくりしたようだ。切れ長の目が、涼子を捉える。

「そうなのか? じゃあ、なんで……えっと」

「一組の羽岡涼子。涼子でいいよ」

 他の同級生に接する口ぶりで言ってから、はっとした。雪歩の顔が、頭にちらつく。隼人も、居心地悪そうな顔をした。

「ここの人は、皆そう言ってくれるよな。こっちは慣れてないのに」

「じゃあ、名字で。呼びやすい方でいいよ」

「涼子は、どうしてここにいるんだ? バスは来ないのに」

 何かと張り合うように、隼人は涼子と呼んだ。見えざる敵と相対している鋭利さを、再び感じた。

「雨宿り」

「学校ですればいいじゃん」

「そうだけど……」

 学校は、どこもかしこも恋の気配で浮き立っていて、気が進まない。そう正直には言えないので、逆に質問した。

「急いでるの?」

「別に」

 今度は、隼人が歯切れ悪く答えた。嘆息した涼子は、豪雨でけぶる遠方を指さした。

「このバス停、今は使われてないの。あっちが現役のバス停で、次のバスは四十分後」

「四十分後?」

 隼人は目を瞠り、腰を浮かしかけた。むっとした涼子は、隼人の隣に移動する。

「やっぱり急いでるんだ。誰かと待ち合わせ?」

「なんで分かるんだ」

「誰かの顔色を窺うことに、実は慣れちゃってるからかな」

 隼人は、不意を打たれた顔をした。空席を詰めたことで、文庫本に綴られた言葉の一つが、涼子の目に留まる。

「この言葉、どういう意味?」

銀箭ぎんせんか。強い雨脚を、銀色の矢に例えた言葉だ。今みたいな雨が、銀箭」

 隼人が、目線で示す。細い雨が、閑散とした車道を叩いていく。涼子は感心した。

「雨って言葉を使わなくても、雨を表現できるんだ」

「雨を竹に例えた銀竹ぎんちくって言葉もある。この二つの言葉の類語が、夕立」

「夕立」

 落ち着いた声で紡がれた雨の言葉を、涼子も唱えて声でなぞる。聡明な転校生が告げるだけで、以前から知っていた言葉に、凛とした気品が宿った気がした。

「どうして、俺にそんな話をした?」

「さっきの話のこと? 友達よりも他人のほうが、話しやすい時ってない? 何となく、そんな気分だっただけ」

 畳んだ傘から雨水が伝い、地面に水溜まりを作る。ひさしを打つ雨音に紛れて「意外だな」と声が聞こえた。

「俺が初めて学校に来た日、校庭を走ってただろ」

 涼子は、驚く。先週の快晴の日に、隼人も涼子を見ていたのだ。

「一人だけ飛び抜けて足が速かったから、学校ですれ違った時に、あの時のあいつだってすぐに判った。悩みなんて無縁そうに真っ直ぐ走ってたから、羨ましかった」

「走るのは好きなの。頭の中を空っぽにして、一秒でもタイムが縮まると嬉しいし、縮まらなくても、気分が良いから」

「俺は、ここに来てから良いことなんてなかった」

 雨音の調べが、沈黙を埋めていく。小降りになった夕立が、少しだけ心を開いてくれた転校生の独白を際立たせた。

「俺の母親、噂で知ってるんだろ。家から出ないシングルマザーで、協調性がない変人。確かに母さんは、情熱を在宅の仕事に取られてるけど、今の生活を選ばせたのは父さんだ」

「もしかして、待ち合わせ相手は、お父さん?」

 雨脚が、また強くなる。涼子は、問い詰めた。

「待ち合わせ場所、どこ? 何時?」

「駅に、四時半」

「四時半って、もう四時だよ!」

「別にいいよ。っていうか、ほっとしたんだ。ああ、これなら行けないよな、って」

 隼人は、口の端を持ち上げた。自嘲と諦観の声が、雨音と混じり合う。

「でも、本当は分かってるんだ。俺は、今の生活が嫌いじゃない。毎日が賑やかで、卑屈になる暇もなくなった。俺だって母さんと大差なくて、クラスの奴らが優しいから、話し相手がいるだけだ。父さんのことだって、怨んでなんか……」

 苦笑した隼人は、涼子を振り返り、息を呑んだ。

 涼子が、立ち上がっていたからだ。

「行こう、立って」

「……バスは来ないし、この雨じゃどうせ走ったって」

「夕立にったから、バス停を間違えたから、もう間に合わないから? 関係ないよ。会いたいくせに、会わない理由を作ってる」

 隼人は鼻白んでいたが、苦しそうに涼子を睨んだ。

「でも、間に合わない」

「間に合う」

 断言した涼子は、傘を開いた。雨粒が弾けて、曇天に黄色の花が咲く。

「私が、間に合わせる」

 ぱしっと乾いた音がした。涼子はこの町に馴染なじもうと努力している男の子の腕を掴み、バス停跡地を飛び出した。校庭の駐輪場まで駆け戻り、銀色の自転車に鍵をす。

「山科くん、うちもお父さんはいないよ」

 隼人は、驚かなかった。それでも聞こえた息遣いが、まだ動揺が醒めていないことを教えてくれた。

「お母さんいわく、元旦那は顔も見たくない。今後の冠婚葬祭にも、父親は関わらないって受け入れてる。寂しくないよ。私はお母さんが大好きだし、お父さんの空席には、おじいちゃんとおばあちゃんが座ってくれたから。ねえ、別に、だからってわけじゃないけどさ」

 隼人の通学鞄を自転車の前かごへ押し込み、涼子はサドルに跨った。

「会いたくないならともかく、会いたいなら、会いに行かなきゃ」

 青にもピンクにも見える不安は、きっと隼人にも見えている。一人なら怖くても、二人なら怖くない。

「後ろに乗って、掴まって!」

 隼人は金縛りが解けた顔で荷台に乗り、涼子は力強く地面を蹴った。夕立が柔らかく降り注ぎ、「俺が走る!」と叫ぶ隼人へ「私に任せて!」と叫び返す。

「山科くんは、途中から走って! 全力で!」

 土草が香る畦道あぜみちを駆け抜けて、近道の小山に入る。坂道へ怯まず挑むうちに、不安も、迷いも、身体から剥落はくらくしていった。この感覚を、涼子はとうに知っていた。

 頂上に着くと、霧雨を運ぶ風が頬を撫でた。涼子は、ふらつく足を地面につける。

「下り坂からは、山科くんの番。ほら、駅が見えてる。真っ直ぐ進めば、大丈夫」

「ああ、交替だ。涼子は後ろに……」

「ううん、私は歩いて帰る」

 自転車を降りた涼子は、息切れしたまま、にっと笑った。

「絶対、間に合ってよね」

 隼人は、やがて毅然と頷いた。さっきよりも、すっきりとした良い顔をしている。

 すぐに出発するかと思いきや、隼人は前かごの通学鞄から黒いパーカーを取り出した。それを涼子に投げつけてから、自転車で麓の街へ走っていく。

 呆けた涼子は、パーカーを握る胸元を見下ろして、息を止めた。雨で透けかけたセーラー服を上着で隠し、頬の火照りを雨で冷ます。

 隼人の服からは、畳の藺草いぐさに似た、よその家の匂いがした。


     *


 家に着く頃には、雨は止んでいた。洗い髪にタオルを当てて、赤く色づいた居間に入る。着替えを済ませた涼子は、夕日を窓越しに眺めた。

 家族の帰宅まで、まだ時間がある。石鹸の匂いの幸福感に包まれながら、今日の椿事を回想すると、窓の外に現れた人影が、涼子の心臓を高鳴らせた。急いで玄関扉を開き、自転車を門の前に止めた人物に駆け寄る。

「山科くん、どうして? お父さんは?」

 勢い込んで訊く涼子へ、隼人は「落ち着けよ」と素気無すげなく言った。ズボンの裾は泥だらけで、この田舎で生まれ育ったような出で立ちからは、以前の鋭さが薄れていた。

「父さんに仕事の電話が入ったから帰ってきた。ちゃんと会えたから」

 それを聞けて、ほっとした。涼子は、悪戯いたずらっぽく笑って見せる。

「自転車を返しに来てくれたの? よく私の家が分かったね」

「近所のクラスメイトと、この辺の人達に訊いた。疲れたし、心臓に悪かった」

「大げさだよ。皆いい人でしょ?」

「まあな」

「上着は、洗濯して返すから」

 涼子は、平静を装って言った。いつもの羽岡涼子の顔を作れたか、無性に気になって仕方なかった。

 対する隼人は、無神経なほど平然と「別にいいのに、洗濯なんか」と返してくる。意識されないのも癪だという慣れない感情を抱えていると、自転車の前かごに紙袋を見つけた。視線に気づいた隼人が、紙袋を開けた。

「これ、母親から。自転車のお礼に持っていけって」

「わ、きれい」

 紙袋には、夏野菜のキッシュが入っていた。ケーキのように切り分けられた断面で、ズッキーニの緑とトマトの赤が鮮やかだ。雨粒みたいな粗塩は雨上がりの空にぴったりで、チーズと胡椒のいい匂いがした。

「山科くんのお母さん、料理が上手なんだね」

「隼人」

「え?」

「こっちだけ名前で呼ぶのは、フェアじゃないっていうか……呼びやすい方で呼べばいいから」

 隼人は、よそ見をした。夕日に照らされた横顔は、耳まで赤い。

「母さんのこと、そんなふうに言われたのは初めてだ」

 なんだ、そちらで赤面したのか、と涼子は拍子抜けする。けれど、少し嬉しくなった。隼人は、田舎に馴染めなかった母親が、誰かに認められると嬉しいのだ。出会いの直感は正しかった。隼人とは仲良くなれそうだ。

「あ、虹」

 隼人が、田園風景の彼方を指さした。澄んだ夕映ゆうばえの空に、七色の橋が架かっている。

「ほんとだ。今日は良い日だったなぁ」

「ここに来てから良いことがないって言ったけど、撤回する」

 隼人が、涼子を見た。前髪が風に靡き、双眸を穏やかに細めて、微笑む。

「良いことなら、ちゃんと前からあったんだ」

 とくんと、胸が弾んだ。雪歩から協力をお願いされた時と、苦しさが似ているのに少し違う。隼人が虹の方角へ帰ると、涼子はじんわりと温かい紙袋を抱えて家に入り、玄関の上がりかまちに座り込む。

 キッシュを一口食べると、洒落た見た目に反して味は素朴で、シンプルな塩気が野菜の旨味を引き出していた。田舎でも、都会でも、違いなんて一つもない。隼人の母親は、きっと大丈夫だ。涼子は、紙袋を抱いて俯いた。

 霧のような夕闇から、学校に満ち溢れた青とピンクが染み出してくるのを感じた。今の涼子は、雪歩を始めとした少女達と同じ顔だ。そんな己に、嫌悪感は湧かなかった。

 顔を上げた時、涼子の心は決まっていた。


     *


 翌日の空は、胸がすくような日本晴れだった。

 紙袋を手に提げて、姿勢よく歩く涼子の姿が、廊下の窓に映っている。元気よく揺れるポニーテールに、快活な性格を表す丸い瞳。久しぶりに会えた本来の自分は、以前と雰囲気が変わっていた。けれど、もう怖くない。

 三組に着くと、引き戸から飛び出してきた生徒達が、教師に叱られながら走っていく。珍しくHRが長引いたようだ。今日もバス通学組は大変そうだ。

 教室を覗き込むと、雪歩が涼子に気づいた。顔をほころばせて、席を立とうとする。雪歩に手を振った涼子は、窓際の席に視線を送った。

 雪歩の表情が、固まる。隼人は席を立つと、通学鞄を持って廊下に出てくる。

「洗濯したよ。ありがとう」

「別にいいって言ったのに」

「お母さんにも、キッシュすごく美味しかったって伝えてね。家族も喜んでたよ」

「ああ、伝えとく」

 隼人は頷いてから、廊下を歩きかけて、振り返る。

「俺も、明日から自転車通学にするから」

「へえ? 雨の日に当たったら大変だよ?」

「楽しそうに走ってたくせに、よく言う」

 口の端を持ち上げた隼人は、片手を上げて去っていった。斜に構えた転校生は、あんな笑い方も出来るのだ。その時「涼子」と掠れた声に呼ばれた。

 雪歩だった。大きな瞳が、不安で揺れている。涼子が隼人に近づいたのは先日のお願いの為なのか、それとも別の理由なのか、意味を図りかねているようだ。

 以前の雪歩なら、前者を信じたはずだ。涼子が変化を受け入れたように、雪歩も一日一日、変化している。

「雪歩。一昨日の話だけど……ごめん。私は、雪歩に協力しない」

 雪歩が、息を詰めた。涼子は、唇を引き結ぶ。

 二人で虹を見上げた時に、呼び名を選ばせてくれた隼人の声が、涼子の心を決めたのだ。――フェアじゃない。そう、フェアじゃないのだ。涼子が自分の意思を知らないまま、雪歩の願いに応えるのは。

 恋とか、愛とか、青春とか。そんな名前を持つものが、涼子の日常を変えるのだとしても。正々堂々、向き合いたいのだ。初めて見つけた、この気持ちに。

「私も、隼人が好きだから」

 立ち尽くす雪歩に背を向けて、走り出す。早鐘を打った心臓の音が、昨日の夕立みたいに騒がしかった。虹色の光彩が弾ける青天の下へ、涼子は全身で飛び込んでいった。

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