4−3

 講義を終えて塾を出た。けれど、真っ直ぐ帰る気持ちにはなれなかった。帰らなくちゃいけないと思うけど、それと拮抗するように、別の気持ちが働いていた。僕は家とは反対の方へ足を向けた。

 罪悪感。またお母さんたちを泣かせてしまうかもしれないという気持ちはもちろんあった。それでも、踵を返す気にはなれなかった。

 足を速めた。早歩きから小走りに。やがて、小走りから駆け出した。

 何かから逃れるように。

 何かを振り切るように。

 目指したわけでは——少なくとも、僕自身が意識してそうしたわけでは——なかったのだけど、河川敷にたどり着いた。

 コンクリートの階段を上がり、土手の上に出た。真っ暗な夜空の下、対岸には街の灯が煌々と灯っていた。碌な明かりのない川のこちら側には、土手上の道を照らす街灯の光が点々と浮かんでいた。

 闇の奥へ続く道に、小さな人の姿があった。街灯の明かりを受けて青白く輝くその横顔は、目を凝らさずとも、僕が知っている人のものだとわかった。

 彼女がこちらを向いた。口元が、わずかに驚いたように開いた。それからすぐに、笑みへと変わった。

「ダメじゃん、寄り道」

「イヌイさんこそ、こんな時間に一人で」

「もう一人じゃなくなった」

「屁理屈だよ」

「そういう君は? こんな時間に、何しにこんな所へ?」

 言葉に詰まった。何と言ったらいいかわからなかった。いや、わかっていたけど口にするのは恥ずかしかった。

「ねえ」いつの間にか、イヌイさんの顔が目の前にあった。「暇なら少し付き合ってほしいんだけど」

 返事をしないうちに、手首を冷たい手で掴まれた。

「行こう?」

 彼女は僕の手を引いた。

 導かれるまま、夜の街を歩いた。景色は高速で流れていき、時間も、普通とは違う流れ方をしているようだった。

 気づけば僕は学校にいて、閉まった校門の柵をよじ登るイヌイさんを見上げていた。

「何やってるの?」

「見ての通り、学校に侵入してるんだよ」

「ダメだよ、こんなこと」

「日付が変わるまではわたしはまだここの生徒だし」イヌイさんが柵を乗り越えた。

「そういう問題じゃなくて」

 柵の向こうに彼女が降り立った。

「それは、君の言葉?」

 暗がりから、蒼い瞳がこちらを向いていた。

「そう言ってるのは、本当に君なのかな?」

 イヌイさんは闇の奥へ向かって歩き出した。僕は柵越しに、遠くなっていく彼女の背中を見つめた。

 ずっと思い浮かべていた背中を。

 その背中は、今は追いつけそうな場所にあった。

 僕は、自分の背丈より少し高い柵に手を掛けた。日頃の運動不足が祟って腕にはなかなか力が入らなかった。けれど必死に足掻いて、手すりに足を掛け、どうにか自分の体を門の上まで持ち上げた。

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