葉月:青に溶けゆくもの02

 

「ただいまですー」

 花が帰宅して玄関の靴棚を見るとちょこん、と胡瓜の馬と茄子の牛が飾られている。お盆におじいちゃんちに来ると玄関で出迎えてくれた懐かしいものに、思わず目を細める。今は祖母の仏壇も寂しいだろうからと、老人ホームに持って行ってしまったらしい。とは言っても大きなものは母方の兄弟の方で引き取ったらしく、連れて行ったのは新しくしつらえた小さなものである。最近はワンルームなどにも置けるコンパクトなものが増えたらしいから、それならば向こうでも一緒にいられるだろうという配慮だったようだ。

「あ、お帰りー」

 奥から盆に大皿を乗せて台所から出てきた龍一が、ふにゃりと笑って出迎える。そしてぱちり、と目をビー玉のようにまん丸にして、瞬間ぱあっと大輪の花を咲かせたような笑顔になった。

「わー! 早速つけてくれたの? 有難う!」

 宗一がくれた桜色のピンの隣に、空を切り取ったような硝子飾りをつけたピンが髪に留めてあるのを見つけたのだ。早速見つけてくれたことに、思わずにんまりしてしまう。

「マスターの奥さんにめちゃめちゃ羨ましがられちゃいました」

「えっそうなの?」

 まあ、ピンというより、あのイケメンのお兄さんは何者なのかという方の事情聴取の方がすごかった――とは言わないでおくことにする。まさか芥川龍之介ですとか言えるわけもないし、そもそも龍一も宗一も自分達が目立つような容姿をしているという自覚がなさすぎやしないだろうか。

 ……うん、ないな。絶対にない。

「うんうん、似合ってる。良かったぁ」

 声を喜びに弾ませながら、今日は素麺だよお、と言いながら龍一は居間へと向かう。

 それを見送りながら、自室に行く前にと台所を覗くと、丁度素麺を盛り付けた硝子の鉢を盆に乗せている宗一と目が合う。一瞬の違和感の後に、あ、と思わず声を上げてしまった。

「おかえりさん……何や、今の声」

「ただいまですよ、いや、宗一さん髪下ろしてるなって」

 挨拶を交わしながら、素直に言えばむすっと眉間にシワが寄ったのがわかった。

 普段の宗一は前髪を上げていたのだ。下ろしてもいいのに、と言ってはいたが頑なにそれを崩さない。身支度の準備が間に合わなかったり、先日のように雨に降られたなどの髪を崩すような事態にならない限りは、綺麗に前髪が上がっているのだが、今はさらり、と下ろしている。

「……龍のド阿呆が、上げようとする度にぐしゃぐしゃにしおるから」

「へ」

 どうやら、セットする度に龍一に崩されていたらしい。まあ、その度にセットしてもキリがないし、大体花としても下ろしている方がいいのに、と思っていたところではある。外出時は兎も角として、家の中でくらいは下ろしてくれててもいいんじゃないか、なんて。

「下ろしてるほうが可愛いだの何だのほんまに」

「私も下ろしてるほうがいいです!」

「はあ?」

 きっぱり言い切ってから、にっこりと微笑む。

「どうしても家の中で上げたいなら言ってください。私が持っているピンで留めてあげますから」

「げ。それはいい」

 どうやら多勢に無勢圧倒的不利を悟ったらしく、即座に諦めたようだ。可愛く留めてあげるのに、と呟いたらこつんと軽くげんこつを落とされた。

「はよ荷物置いてこいや。食うで」

「はあい」

 確かに外は暑かったし、流石に着替えたい。素直に言うことを聞いて、花は踵を返し台所を出ることにしたのだった。

 いつもの風景、いつもの空気。

 それがあることに、感謝しながら。


 自室に入り、ゆったりとした紺色のチェニックワンピースに着替えてから夕食の支度を手伝おうと居間に向かうと、そこには思わぬ来客が和座卓の前で寛いでいた。

「あれ、斎藤さん?」

「花さん今晩和。お邪魔していますよ」

 微笑を浮かべながら、冷茶の入ったグラスを傾けている斎藤は、懐から扇子を取り出し、はたはたと仰ぎ始める。

「先刻様子を見にと、覗いてみたら夕食のご相伴に預かれることになりまして」

「ああ、そうなんですか」

 花が事情を全て知っている今、わざわざ外で会って話す必要はないというわけか。

 確かに、ここにくればどんな様子かなどというのは一目瞭然だから、斎藤としても楽なのは確かなのだろう。おまけに上手く時間が合えばこうやって美味しい食事にありつけるのだから、良いことづくめには違いない。

 目の前には素麺の鉢が二つ、他に揚げ茄子の煮浸しの入った大皿と天ぷらの乗せられた皿が並んでいる。素麺のつゆは醤油ベースのものと、胡麻だれと二種類用意してあった。更に天ぷら用に塩も置いてある。

「花ちゃん、小皿持ってきて貰っていーい?」

 そこに盆に更に一皿乗せた龍一が、ひょっこりと現れる。豚肉とパプリカの炒め物が、揚げ浸しの隣に置かれる。出来たてらしくオイスターソースの匂いと共に湯気が立ち上がった。赤と黄色の鮮やかな色は目にも楽しい。

「茂吉さん、ごめんね、鰻はないんだ」

「お気遣いなく。今度皆で食べにいこうか。鰻の食べ時は食べたいと思ったその時だ。それに、君もスタミナをつけた方がいい」

「ええ……?」

 そんな会話を交わしているのを後ろに、花は再び台所へと足を向けた。今日の食卓は一段と賑やかになりそうだ。


 食卓は斎藤の来訪により、一層豪華になった。素麺の両サイドに結局茄子の揚げ浸し、天ぷら、豚肉とパプリカの炒め物の他に色どり豊かなサラダも追加され、見てるだけでお腹の虫が暴れ出しそうになる。

「残すんやないぞ」

「そんな勿体ないことしませんよーいただきまーす」

 ダイエットという言葉は遠い遥か彼方に放り投げた。宗一が作ってくれるようになってから、体重計に乗って悲鳴を上げそうになることが多くなったが、そも一人暮らしの頃の余裕のない食事に比べたら栄養バランスも取れているのだし、大分健康的にはなったのは間違いないのだから無問題だろう。

――もっと動くようにしよ……。

 脱衣所で何度か呟いた誓いを改めて心で唱えながらそっといただきます、と手を合わせた。

 サラダは市場で買ったであろう様々な新鮮野菜を、手頃な大きさにカットしてざっとドレッシングで和えた、というシンプルなものだ。ドレッシングもお酢にオリーブオイル、塩胡椒に風味付けに柑橘系――オレンジの果汁が使われているようだ。ふわっとした酸味を含んだ甘い香りとフルーティさが、お酢のきつさを和らげ野菜との調和を取ってくれているようだ。しゃきしゃきと噛み応えもあるから、野菜の甘味旨味もしっかりと堪能できる。

「揚げ茄子のタレは、これはニンニクが入っているんですかね?」

「ああ、夏場はバテるし。普段はショウガを浸し汁に入れるんやけど、今日はニンニクにしてみたんや」

 匂いが少ないやつにしたから安心しとき、と続いた言葉に密かに感謝する。気遣いをしなさそうに見えるのに、痒い所に手が届くと言っても過言じゃないくらいに気を配ってくれるのだから、有難いという他ない。取り皿に乗せたつやつやの茄子はふっくらとしていて、汁を良く含んでいた。ふわっとした出汁と醤油の味わいに、控え目にニンニクの風味が食欲を引き出すものだから、ついつい箸が進んでしまうというものだ。

 素麺を胡麻だれにつけて、ずずっと勢いよくすすれば、胡麻の風味に出汁がしっかり合わさった絶妙なバランスの味わいがつるん、と素麺と共に喉を通っていく。二種類のつゆは単調になりがちな素麺を飽きさせずに食べさせてくれる。天ぷらは衣がさくっとしていて、海老は勿論のこと、大葉や人参と三つ葉と玉葱のかき揚げもついつい個数を重ねてしまうのは、なかなか罪作りではないだろうか。

「ううう美味しい、めちゃめちゃ食べちゃう」

「バテるよりマシやろ痩せるとか考えるだけ無駄やぞ食え食え」

「あああ宗一さんが悪魔だあああ! 食べます!」

「僕は悪魔の方がいいなあ、ごはん美味しいし」

「お前は一も二もなく食え。食細いんやから」

 飛び交う声を嬉しそうに聞きながら、斎藤はパプリカを齧っていた。豚肉の脂の旨味も吸って、元来の甘さと相俟ってまた豊かな美味しさとなっていることだろう。

「花さんはいつも美味しそうに食べますね。そりゃあ食卓も楽しくなるわけです」

「ふえ? あ、色気ないって良く言われますね」

 でも色気で食事はできないんですよね、と言いながらパプリカと豚肉を口の中に放り込むと、楽しそうな笑う声が耳に届いた。そういえば鰻の時も、食べている姿をそうやって嬉しそうに眺められていた気がする。だから、思わずそれを口にしてしまう。

「……斎藤さん、また来ればいいんじゃないですかね」

「はい?」

 驚いたような声が返され、慌てて「あ、いやその」としどろもどろになってしまいながらも花は続ける。

「楽しい相手と食べる食事は、美味しいですし。斎藤さんがひとりごはん好きというならその、余計なお世話かもしれないんですけど」

「別に、斎藤の分くらい余計に作れる量はあるからな」

 ぼそ、とそこで思わぬ援護が入った。

「報告だの何だのもこそこそせんでええ、それに用事なかろうと連絡ありゃ出迎えくらいするわ」

「宗が優しいー! あ、僕も同意見ですよ。茂吉さんさえ良けりゃですけどね」

 更に龍一が茶化すのかと思いきや、同じく援護に回ってくれる。三人三様にそう言われた斎藤は、と言えば、少しだけはにかんで微笑する。

「今度は鰻でも手土産にして、来ますよ。皆で食べに行くよりその方が楽しそうですしね」

 うなぎ! と思わず力を入れて見てしまうのは許されたい。奢って貰ったのを言ったらさぞかし大騒ぎになるんだろう、と思いながら花はかしゅ、とかき揚げを齧ったのだった。


***

 

「いやいや御馳走様でした。随分腕上がりましたねえ、研修の時とは段違いじゃないですか」

 玄関まで見送りに来た宗一にそう告げると、さよか、とぷいと視線を視線を逸らされる。研修から見守っていた身としては、最初はレンジひとつ扱うにしても説明書を読みながら操作を確認していた状態から考えたら、今日見た手際の良さは感慨深いものがある。

 それよりも、この食卓の、家の温かさを見れば彼等の様子は一目瞭然ではあるが。

「……ふたりとも、楽しく過ごされてるようで、安心しました」

「まあ、そりゃあ大家がええからやろな」

 ぽそり、と返され思わずふふ、と笑みがこぼれてしまった。

 彼女は確かに二人にとっては、とても相性が良いに違いない。直木にしてみたら、かつて可愛がっていた少女のような愛嬌を感じただろうし、芥川にしたら妻がまだ友人の妹だった頃のあどけなさを感じただろうから。それでいて、紆余曲折事情を知っても受け止める懐の強さと柔軟性、ふたりの感情を引き上げるだけの強さもある。これ以上任せていい、という信頼を寄せられる相手に恵まれたのは僥倖と言えるだろう。

 きっと、彼等にとってここでの時間は、癒しとなり糧となる。それを見守れることも、また僥倖だ。

 本格的に立ち去ろうか、と背中を向けようとした斎藤に、ああそうや、と声が引き留める。

「直木さん?」

「――あんたには言うておこうか。空耳かもしれへんけど」

「空耳、ですか」

 んん、と少し渋った後で、それでも、と言葉は空気に綴られる。

「あいつを探してる時に、菊池の声が聞こえた……気がしたんや。まあ、幻聴やろけど」

「菊池寛、さんですね。貴方も頼りにされていたから、助けてくれたのかもですよ?」

「あー……いらんお節介焼いたんかもな。まあ、助かったけど」

 それなら、ええな。そう、呟いた表情は何処か柔らかく。それを見届けた斎藤は、今度こそと一礼する。

「また、伺います」

 では、と笑って。からから戸を引き、家の外へ出る。

 一歩、二歩、進んだところで背後で戸が閉まる音がした。奥に行く気配、そして賑やかな会話が始まったのだろう、声が微かに漏れてくる。楽し気なそれらに送り出され、小さな門をかたんと開いたところで、斎藤の背後に微かな光が寄り添った。足先の形を模したようなそれは、ふわ、とこちらの動きに合わせて揺れる。


『いいなあ、僕も女の子と暮らしたいなあ』


 独特の甲高い声。斎藤はくすくす笑いながら、門をかちゃりと閉めた。

「駄目ですよ、菊池さん。貴方すぐ口説くじゃないですか」

 人聞きが悪い、と膨れたような気配に、語りかける。

「――いいんですか、あのふたりにお会いしなくて」

 それに答える声は、とても楽しそうで。

『いいよ。楽しそうにやっているし、僕もあのふたりが一緒なら安心だ』

 しかしそれにしてもなあ、ずるいなあ、ご飯美味しそうだったなあ、と言葉は話す端からほろほろと崩れていく。もうすぐ次の場所へと行く、そういう魂は本来、形を作ることが出来ない。それは前のものであって、今これから新たに作られるものだからだ。だから、本来ならばこうやって会話することも難しい筈なのだ。

 しかし、彼は最後に、と望んだ。

 手が届かなかった彼に、ひとかけらの灯をと。

 なかなか甘えない彼に、導きの言葉をと。

 それを叶えることが出来たのも、また僥倖だ。

「届いて良かったですね」

『うん』

 嬉しそうに、光はこぼれる。

 斎藤は外灯の少ない道を、戻っていく。

 親友達を心配してやまなかった、優しい魂を送り届ける為に。


 精霊馬が急ぐ中。

 ゆっくり、ゆっくりと精霊牛が如くに、帰り道を辿っていくのだ。

 次第に薄れゆく楽し気な声の語る思い出話に、斎藤は耳を傾けながら暗闇の中で笑みの花を咲かせた。


【幕】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ショーメシ~河童のかえりみち編 来福ふくら @hukura35

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ