第13話

 それは、三学期の期末試験最終日、全試験日程を終えて学校から寮に帰る、その途中での事だった。

 あたしにとって、高校での最期の試験。早田はやた大学の付属高校であるうちの学校、早田高等学院は、落第さえしなければ、卒業生は一応全員大学に進学出来る。勿論、希望学部は成績順に席が埋まるから、それなりの成績を取っておかないと希望する学部には行けない。けど、元々あたしは成績優秀ってのではないから志望学部も高望みしてないし、学部を決める選別考査は学期の頭に実施済み、公開こそされてないけど結果の内示もされている。だから、この期末試験も、よほど酷い点を取らない限り卒業にも大学進学にも影響はしない、要するに3年間の高校生活の締めくくり以上の意味は無い、そういう試験だった。

 だから、寮に戻る生徒、特に三年生は皆浮かれ気味だった。それはそうだ、あたしもそう思う。だって、この後は短い試験休みを挟んで、もう卒業式以外は散発的なホームルーム以外に学校行事は無いんだから。

 でも、その時のあたしは、イマイチ浮かれる気分じゃなかった。

 理由は、分かってる。分かってるけど、その時のあたしは、それを認められなかった。

 だから。悪友マブダチ結奈ゆな美羅みらに話を合わせつつも、あたしはもう一つ上の空だった、んだと思う。

 だから。あたしは、そいつに気付かなかった。


 最初に感じたのは、左肩あたりに何かぶつかった衝撃。すぐに、それはあたしが誰か通行人にぶつかったんだって分かった。

「あっ……」

 すみません、そう反射的にあたしは言葉を続けようとしたはずなんだけど、あたしの言葉は、左脇腹の感覚、痛いと言うより熱いって感じのそれに打ち消された。

「……え?」

 1歩後じさって、自分の脇腹を見落としたあたしの目に映ったのは、自分の左脇腹から生えてる、出刃包丁だった。


ともえ!」

 結奈の声がする。突然沸き起こる、周囲の喧噪。濡れた、鉄っぽい匂い。あたしは、あたしらしくもなく、一瞬頭が真っ白になっていた。痛みより、下校途中でいきなり、何の気配も感じられずに刺された、その腑抜けた事実の衝撃の方が大きかった。

 あたしの視界の中で、スローモーションで、周りの人垣、同じように下校する同級生やら下級生やらが距離をとる。脇腹から視線を上げたあたしは、あたしのすぐ横に、焦点の合わない目でこっちを見ている、いかにも憔悴した表情の女、年の頃なら二十代半ばくらいだろう、化粧の濃い商売女っぽいのがいるのに気付いた。

 その直後。その女は、誰かに突き飛ばされ、倒れる。

あねさん!」

 聞き慣れた声。駆け寄り、女を突き飛ばして勢いを殺した信仁しんじが、あたしのすぐ側に居た。その信仁に、結奈が言う。

「抜いちゃ駄目!早く医務室!」

「分かってる!寿三郎じゅざぶろう真籬城まがきちゃん!そっち任せた!」

「おう」

「はい」

 信仁は、倒した女、あたしを刺した女の方は傍に居た寿三郎と真籬城――信仁の同級の、アイツの親友とその従姉いとこだ――に任せ、あたしに、

「大丈夫か姐さん、いや動くな、今医務室に運ぶ」

 言って、左手であたしの背後から左肩を掴む。

「大丈夫、この程度……ちょ、なに!」

 勿論、あたしは人狼ひとおおかみだから、この程度で死ぬことはない。死ぬほど痛いけど。

 とはいえ、あたしが人狼だって事は絶対の秘密だから、周りの誰も知らない。となれば、そりゃ一大事だって思うだろう。さて、どうしたものか。

 「協会」の仕事で、もっと酷いケガしたことだってあるあたしは、この程度の怪我はある意味茶飯事だったから、その事で慌てる事はなかった。

 けど、全く気付かずに刺されたショックで一瞬真っ白になり、対応に出遅れてどうこの場をとりくつろうべきかを考え始めようとしたその矢先、完全に油断してた隙を突かれて、信仁にお姫様抱っこで抱え上げられてしまった。

「ちょ、信仁!やめ、下ろして!大丈夫だから!」

「いいからじっとしてろ!んじゃ部長、主計長、ここはお願いします!」

 あたしに一喝し、返す刀で元生徒会法務部書記委員長にして元科学部部長の紐緒結奈ひもお ゆなと、元生徒会主計部会計委員長にして元家庭科部部長である鏡美羅かがみ みらを、現科学部副部長であるところの信仁はその呼び慣れた旧役職で呼んで一言後始末を頼み、決して軽くはないだろうあたしを――自慢じゃないけど軽くない自覚はある――抱えて、人垣を蹴倒して走り出した。


 早田学院の学生寮は、学校から一駅分離れた所にある。元は帝都女子学院という女子校であったものを、五年前にその当時は男子校であった旧早田学院が吸収合併、校舎改造と教育システム改編に二年の時間をかけて共学化したのが今のあたし達がいる現早田学院であり、つまりあたし達は共学化後の最初の世代の女子生徒だ。

 旧帝都女子学院、略して帝女の校舎はその一部を改造して学生寮化し、残りは特別教室と部室棟として使われている。あたしが担ぎ込まれた医務室も、設備自体は帝女の頃のそのままで、違うのは医療資格のある教師が常駐していない事くらいのもの――通常は寮母さんが管理している――だった。

「とにかく止血!それから救急車!ガーゼどこだ!」

「だ、大丈夫だから!ほら、そんなに切れてないし血も大して出てないから!」

 無人の――緊急事態に備えて常に鍵は開いている、救急箱程度以上の医療品は鍵付きロッカーに仕舞ってあるが――医務室の引き戸を足で蹴り開け、手近なベッドにあたしを下ろすと、信仁は大きめの救急箱を引っかき回してガーゼやら消毒液やらを物色し始めた。

 あたしは、運ばれている最中に、信仁の視線がこっちに向いていないのを確認しつつ出刃を抜き、いかにも制服の間を刃が滑って、肌に少し傷がついただけ、みたいな位置関係に見えるように小細工していた。

「ほら!」

 その小細工の成果を、あたしは制服とその下の肌着の裾をまくって信仁に見せる。一般的な紺ではなく漆黒の、帝女の名残を残すセーラー服の脇は出刃が貫通し、白の肌着にはそれなりに血痕が広がっているが、その下の肌は既にかすり傷程度に回復している。

 人狼の回復力ってのは、こういう時は逆に結構不便だ。別に健康な時なら医者に診られても大して問題無いけど、明らかに出刃が刺さったところを診られて、しかもそれがあっという間に塞がっちゃったら、ちょっとあたし的に都合が悪いし、医者を困らせるのも忍びない。

「制服、穴開いちゃったけどさ、なんか上手く逸れたみたいでさ。だから救急車とか要らないから!」

 あまり脇腹を見せ続けるのもあたしの趣味ではないから、すぐに制服の裾を戻して、あたしは笑顔を取り繕って信仁に言う。

 ガーゼと絆創膏と消毒液とハサミと三角巾を抱えた信仁は、しばらくそのあたしの脇腹付近を見つめ、大きく息を吐いた。

「……大丈夫なのか?本当に?」

「大丈夫。本当に。だから、その一番でっかい絆創膏だけ頂戴」

 あたしは、取り繕いついでに、ハサミで必要分切って使うタイプの大面積の絆創膏を指さして、言った。

「姐さんが大丈夫ってんなら信じるけど……貼ってやるよ、悪い、も一度裾めくって」

「……ん」

 いつもと違う、妙に殊勝な信仁の物言いに、いつもなら裾をまくって脇腹を見せるなんて拒絶するのに、つい、あたしも素直に応じてしまった。

 肌に触れる信仁の指を、その時、妙に熱く感じた。

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