第十章 Seirios -光り輝くもの-

第十章 Seiriosセイリオス -光り輝くもの-


 小夜が柊矢にドアを開けてもらって車を降りると話があると言われた。

 楸矢は何か言いたげに二人に目を向けたが黙って家に入った。

 柊矢は、自分の祖父が呪詛の依頼をされたときのリストに小夜の祖父の名前があったこと、祖父は小夜の祖父を含めそのリストに載っていた人達に警告したらしいことを話した。

 小夜の祖父はその警告を聞いた後、娘が事故に遭ったので安全のために養子に出して連絡を絶っていたようだと伝えた。

「お母さんのため……」

 養子に出した後、会ったり連絡したりしなかったのは娘の安全を守るためだった。

 小夜の頬を涙が伝った。

 お父さんやお母さんがいる人が羨ましかった。

 でも、それは口に出せない。そんな素振りも見せられない。

 ただでさえ迷惑をかけているのにこれ以上困らせるわけにはいかないし、祖父を悲しませたくない。

 そう思うと両親のことを訊ねることすら出来なかった。でも本当は聞きたかった。

 両親がいないのは仕方ない。

 ただ、せめて知りたかった。どんな人だったのか、自分の名前に由来はあるのか、何故なぜいないのか、いつか話してくれると思って待っていた。

 祖父が亡くなったのも悲しかったが、同時に両親のことを聞く機会が永久に失われたという喪失感も大きかった。

 柊矢から、祖父は母を養子に出した後は一度も会ったことがなかったと聞かされて、いつまで待っても教えてもらうことは出来なかったのだと知ったときはもっと悲しかった。

 TwitterやFacebookも無かった頃だったし、個人のホームページやブログも作ってなかったらしく、ネット上にも写真は残ってないとのことだった。

 柊矢に事故の記事に載った写真ならあると言われたが躊躇ためらいがあり、まだ見せてもらっていなかった。

 もし母と縁を切っていたなら祖父の許可なく見るのは裏切るみたいで気が引けた。

 育ててもらった恩をあだで返すのはいやだ。

 ましてや縁を切るほど嫌われていたとしたら尚更なおさらだ。

 かといって今となっては許可をもらうことも出来ない。

 だから見られなかった。

「……じゃあ、母は嫌われていたわけじゃなかったんですね」

 小夜がかすれた小さな声で訊ねた。

「嫌っていたなら、わざわざ戸籍を偽ったりしない」

「え?」

「実際に養子に出した家とは別の家が戸籍に載ってた。お母さんの居場所を隠すために違う家に出したことにしてたんだ。祖父が警告していなければ……」

「柊矢さんのお祖父様は祖父を助けようとして下さったんですから何も悪くありません。感謝こそすれ、恨んだりするのは筋違いですから責任を感じたりしないで下さい」

 口を開いたら涙が零れるのは分かっていたが、それでもこれだけはきちんと伝えなければいけないと思って顔を見てきっぱりと言い切った。

 涙が次々と頬を伝わっていったが構わず、本心だと分かるように声が震えないように必死で力を込めた。

 柊矢にちゃんと伝わったのは表情で分かった。

 柊矢は黙って小夜にハンカチを渡すとドアを開けてくれた。

 母は嫌われていたわけではなかった。

 むしろ全力で守ろうとしたくらい大切に思われていた。

 養子に出す前の写真すらなかったのも他人ひとに知られないようにするために一枚残らず処分したからだろう。

 それだけでも心の負担が少しだけ軽くなった。

 それと同時に、改めて母が祖父と一緒に暮らせなかったこと、大事に思っていたからこそ会うことすら出来なかったことが余計に悲しかった。


 小夜は部屋へ入ると枕に顔を押しつけて声が外に漏れないようにして泣き続けた。

 泣き疲れて寝入ってしまう瞬間、クレーイスからムーシケーのムーシカが聴こえてきた。

 小夜はそのムーシカを聴きながら眠りに落ちた。


 狭いアパートの一室で若い男性がクラリネットで『愛の夢』を吹いていた。

 若い女性が困ったような笑みを浮かべながら、

「また、近所の人から苦情が来るわよ」

 と言った。

「今日は、お隣も下の階も留守だから大丈夫だよ」

 吹き終えた男が答えた。

「そうやって恋人に演奏するの、なんて言ってたっけ」

「セレナーデ。日本語で小夜曲さよきょく。小さい夜の曲って書いて小夜曲って言うんだ」

 男の言葉に、

「小夜曲……じゃあ、もし女の子なら『小夜さよ』っていうのは?」

 女性が言った。

「え、もしかして……」

 驚いた表情の男に女性が照れたような笑みを浮かべた。

「前に『愛の挨拶』を吹いてくれたでしょ。多分、あの日の……」

「やった! じゃあ、次は小夜のためにシューベルトの子守唄を……」

「まだ女の子かどうか分からないのに」

「子守唄なんだからどっちでも……」

 男の言葉が大きなノックの音で遮られた。

「部屋で楽器の演奏しないでって何度言ったら分かるんですか!」

 外から大家さんの怒鳴り声がして二人は首をすくめた。

 男は大家さんに謝るために玄関に向かった。


 翌日、椿矢は夕辺の場所へ向かっていた。

 朝子が言っていた地球人の怨念の塊というものが明るい場所でなら見られるかもしれないと思ったのだ。

 小夜は怨念の塊に捕らわれていた呪詛のムーシカは解放したが、地球人の怨念に対しては何もしてないからまだ残っているはずだ。

 怨念だけしかなければ椿矢にも見えないが慰霊碑のような物があるかもしれない。

 榎矢――と言うか椿矢達の父――が受けた依頼は幽霊の御祓いで怨霊の浄化ではないが、素人なら幽霊と怨霊を混同することは有りるし、幽霊と怨霊を一纏ひとまとめにしていたのかもしれない。

 榎矢は幽霊の出る場所に目印はないと言っていたが粗忽そこつなヤツだから聞き漏らした可能性がある。

 小夜が消したのは呪詛のムーシカだけで怨念を浄化するムーシカは残っているから存在を確認出来たら浄化するつもりだった。

 依頼を受けたわけでもないのにボランティアで浄化なんて楸矢君や小夜ちゃん達の影響受けたせいかな。

 椿矢は苦笑した。

 今までだったら頼まれてもいないのにそんなことをしようなんて考えなかった。

 近くまで来たとき風に乗って笛のが聴こえてきた。

 耳でしか聴こえないから地球の楽器だ。

 椿矢はそちらに足を向けた。


 夕辺の場所で楸矢が海に向かってフルートでアメイジング・グレイスを吹いていた。

 楸矢が亡くした家族、小夜が失った両親、ムーシケーへとかえっていった二人、人を傷付けてしまうことを悲しんでいた呪詛のムーシカ、それらに対する楸矢の数々の想いが痛いほど伝わってきた。

 切ない、の一言では表しきれないほど様々な感情が溢れてくる。

 アメイジング・グレイスの歌詞の内容とは少し違う感情だが、それでも強く心を揺さぶられた。

 地球の音楽を聴いてこんな風に演奏者の想いを感じ取ったのは初めてだ。

 やがて演奏が終わった。

 椿矢が拍手すると楸矢が驚いた顔で振り返った。背後にいることに気付かなかったらしい。

 二人は並んで崖の側に立つとしばらく風の音を聞きながら海を眺めていた。

「……あんたの言うとおりだった。小夜ちゃん、今朝、目が腫れぼったかった。寝坊してたし、夕辺泣き疲れて寝ちゃうまで泣いてたんだと思う……」

 小夜がまだ起きてこないからと、清美が起こしに行こうとしていたので慌てて止めた。

 そして後で訳を話すから起きるまで待ってほしい、

 目が赤くなってても気付かない振りをしてくれと清美達に頼んだから彼女達は何事もなかったように振る舞ってくれた。

「そう」

 楸矢自身まだ気持ちの整理は付いてないはずだ。

 それでもそこまでの配慮が出来るのはさすがだ。

 兄がいたとはいえ楸矢も生まれてすぐ両親を亡くし、育ての親の祖父も小学生の時に失ったのだから色々と苦労してきたのだろう。

 それなのに、よくこれだけ素直な性格になったものだ。

 恵まれた家庭で育った椿矢や榎矢の方が遥かにひねくれてる。

 生来せいらいの気質もあるかもしれないが、案外素直なのもムーシコスの特性なのかもしれない。

 楸矢も柊矢達とは別の意味でシーラカンスなのだろう。

 現存してるシーラカンスって一種類じゃないし……。

「ただ、なんて言い訳すればいいのか思い付かなくてさ。フルートの練習してくるって言って出てきちゃった」

 楸矢が頭をいた。

 椿矢はその様子を見て微笑わらった。

「柊兄、夕辺家に着いたときに小夜ちゃんに話したんだよ」

 楸矢は今朝柊矢から聞いた夕辺のやりとりを椿矢に話した。

「勇気あるよね。嫌われるかもしれないのに。俺なら言えなかった」

「……夕辺、小夜ちゃんの説得やめたのは君に止められたからだけじゃないんだ」

「じゃあ、なんで?」

「朝子さんが『ムーシケーは小夜ちゃん信じてる』って言ったから。実際、小夜ちゃんはムーシケーを裏切らなかった。柊矢君も小夜ちゃんのこと信じてたから話せたんじゃないかな。実際、小夜ちゃんは逆恨みしたりしなかったわけだし」

「でも、呪詛は人の身体を傷付けるものだけど、恨むのは少なくとも身体は傷付かないんだから呪詛よりずっとハードル低いじゃん。寝坊するほど泣いちゃうくらい悲しかったなら逆恨みしたって責められないよ」

 朝子は誰が義兄を呪詛したのか分からなかったから恨みの矛先ほこさきをムーシケーやムーシカに向けた。

 それに対して結果的にあだになってしまったとはいえ祖父を思ってしてくれたことだから柊矢達の祖父を恨むのは筋違いと言い切った小夜。

 小夜の場合、両親を殺した人間が分かっているとはいえ、母親が子供の頃に遭った事故は偶然だったのだから霧生兄弟の祖父の警告さえなければ、と小夜の立場だったら逆恨みしてしまう人は多いだろう。

 霧生兄弟の祖父はもう亡くなっているからそのうらみが霧生兄弟に向いてもおかしくない。

 狙いは小夜で、両親は巻き添えだから母親がどこで育とうと親を失っていたことに代わりはなかったかもしれない。

 だが、もし母親が祖父の元で育っていれば少なくとも写真くらいは見ることが出来ただろう。

 あんな、顔もはっきりしない写真一枚だけという事態にはならなかったはずだ。

 だから楸矢は、話してしまったら恋人に嫌われたかもしれないのにと考えたのだろう。

 霧生兄弟の祖父が警告したとはっきり判明しているわけではないのだし、知っていたのは霧生兄弟と椿矢だけなのだから黙っていることも出来た。

 とはいえ今の話によると小夜は母親が祖父に嫌われていたのかもしれないと思っていたそうだから違うと分かったことで多少救われたはずだ。

 今回のことは程度の差はあれ霧生兄弟も小夜もつらい思いをした。

 その中で小夜にほんの僅かでも救いがあったのは一筋の光明だろう。

「確か高校入試は推薦って言ってたよね」

「うん。なんで?」

「君の高校、推薦の方が入るの大変でしょ」

「大変ったって二倍だよ。そりゃ、一般は一倍だからそれよりは高いけど……」

 楸矢が苦笑いしながら答えた。

 当人は大したことないと思っているらしいが二倍という事は推薦入試を受けた人の半分は落ちているということだし楽器の腕前は練習量だけでなんとかなるというものでもないだろう。

 これが謙遜ではなく本当にそれほど才能があるわけではないのだとしたら地球の音楽家というのは相当な実力者ばかりということになる。

 地球の音楽には興味ないが、それでもこの楸矢に凄かったと言わしめられるだけの才能があった柊矢のヴァイオリンを聴いてみたくなった。

 椿矢のために弾いてくれることはないだろうが。

「地球の音楽聴かない僕に言われても説得力ないかもしれないけど、今のアメイジング・グレイス、すごく胸に響いたよ」

「ありがと」

 大して照れた様子もなく礼を言ったということは称賛しょうさんされるのは珍しくないのだろう。

 普通科の知り合いはほとんどいないと言っていたし、音楽科の友人や教師なら音楽に長けているのだから耳が肥えてるはずだ。

 そんな人達に褒められ慣れてるとしたらやはり腕は確かなのではないのだろうか。

 おそらく、ずば抜けた才能があった柊矢と比べてしまうから大したことがないように思えるだけだ。

 とはいえフルートはうっかり「歌が聴こえる」などと口走ってしまったときのための予防策として祖父が物心つく頃に始めさせたもので当人が望んだわけではない。

 フルート自体は好きだと言っていたがキタリステースは基本的に演奏を好むからフルートを習ってなくても遠からず何かしらの楽器を始めていただろう。

 望んで始めたわけではなく、単に演奏が好きなだけだから音楽家になりたいとは思ってないのだ。

 地球人なら音大付属に推薦では入れるだけの腕があれば音楽家になって名声を得たいという野心をいだくだろうがムーシコスはその手の欲求とは無縁だ。

 楸矢の夢はフルート奏者として舞台に立つことではなく普通の家庭を築くことなのだから。

「前にさ、ムーシコスが愛を確かめ合う行為はムーシカを奏でることだって言ってたじゃん」

「うん」

 楸矢は夕辺見たムーシケーの意識の話をした。

「魂はムーシカで出来てて、ムーシケーとムーシケーのもの全ての魂は繋がってる……すごいね」

「ホント、全員で一つの魂なんてね。しかも惑星とまでなんて」

「それもあるけど……。夕辺、小夜ちゃん二度と呪詛が作れないようにしちゃったでしょ。それって魂を変質させたって事だよね。人一人分くらいならともかく、惑星ムーシケーやムーシコスを含めたムーシケーのもの全ての魂って、相当な大きさ、っていうか量なんじゃない? それだけのものを変成させたって事だから……」

「そっか、全員分だとそういうことになるのか」

 楸矢はそこまで思い至ってなかったようだ。

 楸矢は感心したような表情を浮かべた後、話を続けた。

「基本的にはムーシコスの親はムーシコスだけど、中には親がムーシコスじゃない人もいるのかもね。夕辺の女の人は死んじゃった後だったけどムーシコスになったみたいにさ。子供が少ないのに絶滅しなかったっていうのもそのせいかも。ムーシコスって、ムーシケーと魂が繋がってる人のことだから血とか関係ないし」

「なるほど」

 だとしたらムーシカは魂で聴いているのかもしれない。

 だから、どれだけ離れていても、そして聴力を失っても聴こえるのだろう。

 そうなると朝子や朝子の父が見ていたムーシカというのは一体なんなのかよく分からなくなるが。

 魂を知覚すると言うことはないだろうし、知覚しなければ他の感覚を刺激したりすることもないだろう。

 ……そういえば楸矢君、よく「異星人」って言ってるな。

 もしかしたら異星人ムーシコスの『声』が〝見えて〟いたのかもしれない。

 ムーシカは魂を通して聴いているとしても、知覚としては脳内で音として処理されていたから視覚と結びついてムーシカが〝見えた〟のかもしれない。

 演奏だけのムーシカはないから必ずムーソポイオスの声は聴こえる。

「あんた、前に言ったよね。パートナーが死ぬと一緒に死んじゃうことがあるって」

「うん」

「ムーシコスってパートナーとは魂が強く結びつくんだよね。殆ど一つになっちゃうくらい。魂って命の事じゃん。魂が強く結びついてるから片方が死んじゃうともう一方も死んじゃうんじゃないの? ずっと不思議だったんだよね。なんで柊兄が小夜ちゃんだけ特別扱いなのか。でも、魂が一つになっちゃうほどの相手ならそりゃ当然だよね」

 楸矢から聞いた話を総合するとムーシコスとはムーシケーと魂が繋がっている人間の事で、それとは別にパートナーとは魂が一つになってしまうくらい強力に結びつく。

 それは魂を共有しているといってもいい状態だ。

 地球人が言うところのベターハーフ、魂の片割れである。

 地球人なら厳密には魂=命ではないし、ベターハーフも必ずしも魂の片割れを指しているわけではなく、単に最愛の人のことを言う場合もある。

 だがムーシコスとは魂自体を指していて、パートナーとは魂が一つになっているのだからベターハーフは文字通り魂の片割れだ。片方が命を落として魂がムーシケーへかえってしまえば同じ魂を共有しているパートナーも一緒にってしまうのも頷ける。

 本体が魂なら愛を確かめ合う行為が身体的しんたいてき接触ではなく魂を構成しているムーシカを奏でることなのも納得がいく。

「まぁ、でも、魂と身体が別々に存在してて生き物に取り憑いてるって訳じゃないし、生まれてきた人間の魂がムーシコスで、その上で地球人の血も入ってて、魂には地球人の部分もあるから地球人らしいところが強かったり弱かったりしてるみたい。しかも、地球で地球人に交じって暮らしてるわけだから嫌でも地球人の影響は受けるだろうし」

「道理でね。帰還派は否定するだろうけど、実は残留派より帰還派の考え方の方がずっと地球人に近いんだよね」

「あ、それ、バレンタインのとき、沙陽の〝歌〟聴いて思った」

 楸矢の言葉に椿矢が笑った。

「ホント、あれ、完全に〝歌〟なのに歌ってる本人は全然気付いてないんだから笑っちゃうよね」

「ムーシカとしては落第点だし、地球の歌としても、技術は評価されるかもしれないけど、地球の音楽も技術だけを判断基準に評価する訳じゃないから難しければいいってもんじゃないんだよね。技術的な部分だけを見て評価する人もいるけどさ」

「そうなんだ」

 椿矢には地球の音楽は分からないから沙陽の〝歌〟が地球人にどういう印象を与えるのかは判断がつかない。

 ムーシカとしては今に至るまで一度も歌われたことがない時点でムーシコスが誰も評価してないのは聞くまでもない。

 ムーシコスはムーシカを奏でる時、その時点で自分の気持ちに近いものを望むから、感情の伝わってこない沙陽の〝歌〟は浮かんでこないのだ。

「そういえば、地球の音楽っぽい演奏するキタリステースがたまにいるね」

「そうなの?」

「地球の音楽――て言うか、クラシック音楽――ってさ、作曲したときの社会情勢とか心情や状況とかを知った上で、どうすれば作曲家の意図したとおりに表現出来るか考えるんだよね。この曲を演奏するときはここを強調した方がより作曲者の意図通りになるんじゃないか、とか」

 だから西洋音楽史が必須科目なのだ。

「ムーシカの演奏もさ、時々、ここを強調した方が創った人の意図に沿ってるって思ったんじゃないかって感じの演奏があるんだよね。多分、クラシック音楽やってるムーシコスなんじゃないかな」

「へぇ」


 そのとき小夜の歌声が聴こえてきた。

 静かだが、暗く垂れ込めた雲間から差し込んできた一条の光のような美しい旋律だった。

 これ以上悲しい思いをする人がいないように、みんなが幸せに暮らしていけるようにという願いを歌っていた。

 人々の平安と安寧、そして亡くなった人達に対する鎮魂の想いが込められている。


 これは祈りだ。


 伝わってくる感情は、さっき楸矢のアメイジング・グレイスを聴いたときに感じたものと酷似こくじしていた。

 多少の違いはあるものの楸矢と小夜の境遇はよく似ている。

 両親を知らず、祖父に育てられ、その祖父も亡くした。二人とも同じ悲しみや寂しさを経験してきたのだ。

 だから小夜は他の人が自分と同じ悲しみに見舞われないようにという想いを込めて歌っているのだ。

 今まで小夜が創ってきたのはラブソングばかりということを考えれば、こんなムーシカが出来てしまうほど底知れない悲しみを味わってきたのだと思い知らされる。

 そして、他人には計り知れないほど傷付いていたにも関わらず、それを表に出さなかったことにも驚いた。

 楸矢君がれ物にさわるような扱いをするわけだ。

 これだけ深い傷を負っていても表面上は平気そうに見えるように振る舞えるのだと知ってしまうと確かに傷付けてないか常に心配が付きつきまとう。

 それはともかく、この発露した感情は自分の悲しみだとしても、願っているのは他の者が同じ思いをしないことだ。

 どれだけつらくても他の人間のことまで思いやれる小夜のムーシカを聴いていると全ての悲しみや苦しみが洗い流されていく。


 これは小夜の願いであり、この世の全ての人のための祈りでもある。


 この先どれだけつらく悲しいことがあったとしても、このムーシカが消してくれる。

 悲しいときや苦しいときでもこのムーシカを奏でればつらい思いが消える。

「……まるでムーシケーのムーシカみたい」

 人間が創ったとは思えないような、荘厳さすら感じるムーシカだから楸矢がそう感じるのも無理はない。

 しかし伝わってくる感情からして明らかにムーシケーのムーシカではない。

 もっとも、ここまで綺麗に負の感情を消してしまえるのはムーシケーの力によるものだろう。

 小夜の祈りにムーシケーが応えたのだ。

「こんなムーシカ創っちゃうなんてすごいね」

 楸矢は感嘆しているが、これが本来の〝歌〟の姿なのだ。


 歌とは祈りだ。

 ムーシコスも地球人も、太古の人々は自然の恵みに感謝し安寧な日々を願って歌っていたのだ。


 自らのためではなく他人ひとのための祈りだからこそムーシケーはこのムーシカに祝福を与えた。

 小夜の願いに応え人々ムーシコスに対する恩寵おんちょうを。


 椿矢はリアリストだし、ムーシコスは地球人ではないということを生まれたときから聞かされて育ってきたから無神論者だ。

 だがアメリカで生活するのに宗教に無知というわけにはいかないから多少の知識はあったがそれだけだった。

 知識として知ってはいても信仰心のない椿矢には今ひとつ理解出来なかった「神の無限の愛アガペー」がどういうものなのかようやく分かった気がした。

「アガペー」自体はギリシア語だが、古代ギリシアとキリスト教では言葉の指す意味が違うから、キリスト教でいう「アガペー」がどういうものか今一つピンとこなかった。

 古代ギリシアの「アガペー」に「神の愛」という意味はない。

 原始キリスト教徒が「神の愛」を表す言葉として古典ギリシア語の「無償の愛」を表す「アガペー」という言葉を借用したのだ。

 小夜のムーシカを聴いてようやく理解出来た。

 というか実際に感じることが出来た。

 ムーシケーは神ではないが、それでもこれは『神の愛アガペー』だ。

 とはいえ、やはりムーシケーは神ではないから恩恵を与えられるのはムーシコスに限られてしまう。

 このムーシカを、ムーシコスに対する(ムーシケーからの)無償の愛アガペーとらえるなら、夕辺朝子からムーシケーの魂を切り離したのは厳罰だ。

 朝子にこのムーシカは聴こえない。

 このムーシカの恩恵おんけいは受けられないから生涯悲しみや苦しみから解放されることはない。

 もっともムーシケーも小夜がこんなムーシカを創るとは思ってなかっただろうから結果的に想定していなかった罰になったということか。

 朝子自身は一生知ることはないだろうが自分がやったことに対して相応の報いを受ける結果になった。

 小夜は復讐など望んでいないだろうし、このムーシカはあくまで祈りであってムーシコスはその恩恵おんけいを受けているだけに過ぎない。


 そもそも小夜はムーシコスのためだけに祈っているのではないだろう。

 このムーシカは地球人も含めたの全ての人のための祈りだ。

 ただムーシケーが干渉できるのはムーシコスだけだから地球人には恩恵が及ばないというだけで。


 そう、ムーシコスではなくなった朝子はこのムーシカの恩寵おんちょうを受けられない。

 大切な人を失った悲しみや大勢の人を殺したことに対する罪悪感、それだけのことをしても結局何も成し遂げられなかった挫折感、二十年近い歳月を浪費しただけという徒労感や虚無感、ムーシケーに復讐する手段を奪われて、もう何も出来なくなったという無力感。

 その他にも沢山の苦しみを抱えているだろうが、それらを消し去ってくれるこのムーシカを聴くことは出来ない。

 おそらくムーシコスの知人が目の前で歌ってくれたとしても効果はないだろう。

 このムーシカで悲しみやつらさが消えるのはムーシケーが魂を通して負の感情を浄化しているからだ。

 ムーシケーと魂が繋がっていない朝子の心が癒やされることはない。

 因果応報いんがおうほうとはいえ途轍とてつもないしっぺ返しをらったな。

 生きていくというのは時に死ぬよりつらい。

 だからムーシコスはムーシカを聴いたり奏でたりすることで心を癒やしてきたのだ。

 何よりムーシコスでなくなった朝子は死んでもムーシケーへはけない。

 朝子の義兄あにはムーシケーへかえったのだから死んだのちうことは出来ないのだ。

 おそらく、それがムーシケーの意図した罰だったのだろう。

 クレーイス・エコーになったことがありムーシケーの意志も分かったなら、ムーシコスの魂がムーシケーへ還るということも知っているはずだ。

 朝子がまだ気付いてなかったとしても遠からず悟るだろう。

 死後の世界でも最愛の人との再会は叶わない。

 真の意味で義兄あにを永遠に失ったのだと。

 楸矢の悲しみを目の当たりにし、小夜の境遇を知った椿矢としては微塵みじんも同情する気にはならないが。

 特にまだ十六の小夜が朝子に対する復讐を選ばなかっただけではなく、霧生兄弟の祖父を恨むのは筋違いと言い切り、その上で他人のために祈っているムーシカを聴いた後では。

 義兄あにが亡くなったとき朝子は今の小夜の倍以上の歳だったのだ。

 別に左の頬を差し出したり敵を愛したりする必要はない。

 小夜のように他人のために祈れという気もない――さすがにこれはこれで特殊すぎる――。

 だが、いい年した大人が赤の他人を巻き込まないくらいの良識は持てなかったのか。

 歌い終えると小夜は続けて新しいムーシカを歌い始めた。

 今度もラブソングではなかった。明るい曲調で聴いてるだけで楽しい気分になってくる。

 みんなで仲良くしようという感じの歌詞だからおそらく長い間寂しい思いをしてきた呪詛のムーシカを慰め、励ますためのものだろう。

 地球人なら歌に感情などないというところだろうが、楸矢はムーシケーやムーシコスの魂を構成しているのはムーシカだと言っていた。

 だとすればムーシカもそれ自体が魂ということになる。

 ムーシカは感情が発露して旋律になったものだからムーシカ自体にも感情が宿っているのだ。

 というか宿っているからムーシカを思い浮かべたとき感情も一緒に伝わってくるのだろう。

 さっきのムーシカを歌うほどではないが沈んだ気持ちを浮上させたいときに向いてる曲だ。

「また創ってるし……」

 楸矢の呆れた声に椿矢は笑った。

「二曲続けて新しいムーシカって……」

 楸矢の方はもはや呆れを通り越して言葉も出てこない。

 椿矢は笑っているから周囲にムーシカ創りまくる者がいなかったとはいえムーシコスというのはこういう生き物なのだろう。

「これが小夜ちゃんなりの元気を出す方法なんだよ」

「これだけ創りまくってれば少人数でも惑星全体を覆うくらい楽勝だよね~。夕辺見た海、全部凍り付いてたし」

 惑星全体が凍り付いているのだから海も凍っていて当然なのだが、さすがに水平線まで見渡す限りの海面が全て旋律で凍り付いている光景は想像を絶するものだった。

 榎矢の言う通り自分は地球人の血がかなり濃いらしい。

 血っていうか、地球人の魂の部分が多いんだろうな……。

 やはり自分は柊矢のおまけでクレーイス・エコーに選ばれたのだ。

 おそらく自分は地球人と結婚して子孫はいずれムーシコスではなくなるに違いない。

 逆に柊矢と小夜の子孫はいつか破片の脅威がなくなった時ムーシケーへ還るだろう。

 もっとも血筋ではなく魂の問題だから予想とは全く違った結果になるかもしれないが、どちらにしろ遠い未来の話だから実際のところはどうなるかは分からない。

 とはいえ椿矢の言うことも分かる。

 というかムーシケーの意識――魂――を見て何故なぜムーシカを奏でると気持ちが洗われるのか理解した。

 個人の感情が一滴のすみだとしたらムーシケーの魂ムーシカは海だ。

 海に一滴の墨を垂らしてもすぐに薄められて消えてしまう。

 一滴の墨どころか座礁ざしょうしたタンカーから漏れ出した大量の原油でさえ海全体をよごすことは出来ない。

 同様に個人の負の感情もムーシケーの魂という大海に飲み込まれればすぐに霧散むさんしてしまう。

 さっきの小夜のムーシカは、それまで副次的なものだった負の感情を消すという効果を直接的なものにしただけだ。

 とはいえ長い間に蓄積ちくせきされてきた負の感情がムーシカに呪詛の能力ちからを与えてしまったのかもしれない。

「そういえば、楸矢君、大学どうするか決めた?」

「うん。あんたの言う通り、このまま音大行くよ。とりあえず試験と課題頑張れば、後は少しくらい成績悪くてもフルートの実技でフォロー出来るんじゃないかと思って。普通科ならともかく音大の楽器専攻なら大事なのは実技の方だからフルートの腕さえ落ちなければ、なんとかなるんじゃないかって思ってさ」

 本来なら入学を認められないほど一般科目の成績が悪かったのに、お目こぼしで進学させてもらえるくらいの腕はあるのだから進級や卒業くらいなら問題ないだろう。

 それはさっきのアメイジング・グレイスを聴けば分かる。地球の音楽に興味のない椿矢でさえあれだけ胸をかれたのだ。

 楸矢の入った大学は付属高校での成績はあくまで参考程度にしか見ないのに、それですら本来なら進学が難しいような点数だったのをフルートの腕で目を瞑ってもらったというのでは、はっきり言って普通科の大学は一番偏差値が低いところでも裏口以外では無理だろうし、入るだけではなく進級するためにも毎年多額の金を積まない限り卒業は一生無理だろう。

 実際はどこの大学も在学していられる期間が決まってるから一生大学生というのは不可能だが。規定の年数内に卒業出来なければ退学となる。

 そうなると大学は既に入学が決まっている音大しかない。

 別の大学でも音楽科なら入れるかもしれないが卒業だけが目的ならわざわざ一年無駄にして別の大学の音楽科に入り直しても意味はない。

 そして卒業出来そうな手段として一番可能性が高いのはフルートの実力で成績の悪さに目を瞑ってもらうことくらいだ。

 もちろん、お目こぼしにも限度があるから試験勉強や課題などは死ぬ気で頑張る必要があるだろうしフルートの方もそれ相応の腕を維持しなければならない。

「成績フォローするためとなるとフルートも今まで以上に頑張る必要あるだろうから遊んでる暇はないだろうけど、どうせ高校時代だって練習ばっかでそんなに遊んだことなかったし」

 楸矢は、たまにはデートくらいしたいけど出来るかなぁ、などと言って頭を掻いた。

「カリキュラム表に載ってた語学ならどれも僕が教えてあげられるよ。それ以外はどの程度力になれるか分からないけど、音楽と関係ない一般科目ならなんとかなると思う。一応これでも大学の助手だからね」

 椿矢は主に教授の研究補助をしているが、学生の相談に乗ることもある。

 椿矢は見た目と表向きの人当たりの良さから話やすいらしく、よく学生が相談しに来る。

 そういうときに一般科目のレポートなどを見てやることもある。

 柊矢ほどではないが、椿矢も高校や大学での履修科目は真面目に勉強していたから授業を受けた科目に関しては人に教えられる程度には出来る。

「あんたなんで弟にはあんなにキツいのに俺には親切なの?」

「君は意味もなく喧嘩売ってきたりしないでしょ。それに僕も君に教えて欲しいことがあるし」

「俺があんたに教えてあげられるような事ってなんかある?」

「地球の音楽の事とか楽器の事とか」

「地球の音楽に興味ないのに知りたいの?」

「古代ギリシアでは哲学や宗教、数学その他なんにでも音楽が関係してたけど、地球の音楽や楽器の事は僕にはよく分からないから」

 楸矢は納得したように頷いた。仕事が古代ギリシアの研究で、その内容のほとんどに関係しているなら音楽の知識は必要だろう。

「それなら専門的すぎなければなんとか……」

 聞かれたその場で答えられるかは分からないが、家には教科書や参考書があるから調べて教えることは出来る。いざとなれば柊矢に聞けば分かるはずだ。

 高校や大学で教わる事を訊ねたりしたら叱られるのは目に見えてるが。

 聞くのは小夜ちゃんがそばにいる時にしよ。

「そういえば、小夜ちゃんも進路のことで悩んでるって聞いたときは悪いけど笑っちゃった」

「え? 小夜ちゃん、どこ狙ってるの?」

 小夜の成績は聞いたことないが通ってる高校の進学率は都内でもトップクラスだ。

 ちょっと頑張れば東大を始めとした国内の難関大学はほぼ全て合格圏内に入れるだろう。

「いや、目標がなくて困ってるんだって。いつまでも居候してるわけにはいかないから出ていかなきゃいけないけど、その為にどの大学へ行けばいいか分からないって」

 ムーシカ以外に興味がないのだから当然将来の目標などあるわけがないし見つけられるはずもない。

「出ていくのは無理じゃない? 柊矢君が認めないでしょ」

「俺もそう言ったし、清美ちゃんにも同じこと言われたって。例え成人して柊兄が後見人じゃなくなったとしても出ていくなんて許すはずないって」

「だよね」

「もし強引に家を出ていったら柊兄がいてくよって言っておいた」

 楸矢の言葉に椿矢が笑った。

 確かに柊矢が小夜から離れるなんてあり得ないから小夜が出ていけば柊矢がいていくだろう。

 柊矢が小夜の家に転がり込んだとして、新入社員の給料で借りられる部屋では歌うのもキタラの演奏も無理だから二日とたずに音楽室のある霧生家に帰る羽目になるのは目に見えている。

 まず間違いなく小夜は一生霧生家で柊矢と暮らすだろう。

 ふと、さっき小夜が呪詛のムーシカのために歌ったムーシカを思い出した。

 きっといつか彼女は優しさに満ちた明るく楽しいムーシカを創って子供のために歌うだろう。

 それを聴ける日が楽しみだ。

 楸矢が、小夜は憧れを叶えてくれたと言っていた。

 きっと小夜は子供なら誰もが憧れる理想的な優しい母親になるはずだ。

 ムーシコスは子供が少ないが小夜には母親になって欲しい。

 小夜や楸矢の子供はきっと幸福な家庭で育つだろう。

 小夜や楸矢の分まで彼らの子供には幸せな子供時代を送って欲しいと願う。

「俺も聞いていい?」

「何?」

「……知ってたの?」

 椿矢は一瞬迷ったが頷いた。

「うん」

「もしかして、前にも柊兄と話したことあった? それで柊兄、知ってたの?」

「……どうして柊矢君も知ってたって思うの?」

「いくらパートナー以外はイスかテーブルと同じっていったって、さすがに親を殺されたって聞いて動揺しないのはおかしいでしょ。あんたも表情変えなかったし」

 喫茶店で話したとき、柊矢は両親と祖父が殺されたかもしれないと知っても平然としていた。だが、それをわざわざ楸矢に教える必要はないだろう。

 表情に出さなかっただけかもしれないし……。

 楸矢も、弟どころか親すらイスかテーブル扱いと言うことは知りたくないだろう。

「ごめん」

「別に責めてるわけじゃないよ……どうして父さん達が殺されたって分かったの?」

「君達のご両親のことは確信があったわけじゃないんだ。理由が分からなかったし。君のお祖父さんの事故の時は、うちの祖父様はもう死んでたし、色んな話を総合するとクレーイス・エコーだった君達が狙われたんじゃないかって」

「小夜ちゃんのご両親は?」

「柊矢君に事故現場の写真見せてもらえばすぐ分かるよ。チャイルドシートがあの車から飛び出すのは物理的に不可能だから。ただの交通事故だったとしてもムーシケーは護っただろうけど、君達のご両親やお祖父さんが亡くなったときにしろ、従妹の事故にしろ、小夜ちゃんがかれかけたときにしろ、みんな〝居眠り運転〟で、小夜ちゃんのご両親の事故もそうだったから」

「小夜ちゃんはなんで狙われたの?」

 朝子は小夜を狙ったことは認めたが理由は言わなかった。

「多分だけど、能力ちからが強かったからだと思う。いずれ一番の脅威になるって思ったんじゃないかな。実際、その通りだったわけだし」

「まぁ、魂作り替えちゃったくらいだもんね」

 その言葉に椿矢が可笑おかしそうな顔になった。

「俺、なんか変なこと言った?」

「いや、榎矢が小夜ちゃんのこと、クレーイス・エコーに選ばれたのは能力ちからが強いからだって言ってたでしょ。ムーシカを奏でるだけのムーシコスに能力ちからの強弱もないだろって思ってたからバカにしてたけど、ちゃんとあったんだなって」

 椿矢が肩をすくめた。

「あいつ自身は能力ちからっていうのがなんなのかよく分かってないんだろうけど」

 相変わらずバカにした言い方だから自分の方が間違っていたと言って榎矢に謝罪したりはしないだろう。

 椿矢がふと思い付いたように、

「言い訳なんだけど」

 と言った。

「なんの?」

「小夜ちゃんが夕辺泣いた理由」

「なんかある!?」

 楸矢が身を乗り出した。

「ある人から小夜ちゃんの亡くなったご両親の話を聞いたって言うのは?」

 椿矢の言葉に、清美が自分も含めてクラスメイト達は亡くなったお祖父さんの話はけてると言っていたことを思い出した。

 祖父の話に触れないようにしているのなら亡くなったご両親のことだと言えばそれ以上は追求されないだろう。しかも嘘ではない。

「いいかもね。ありがと。って、うわ、また新しいムーシカ……」

 小夜の歌声が時々止まる。

「これ、柊兄とのデュエットだ。あの二人、ホント、デュエット好きだよね。てか、三曲続けて新しいのとか創りすぎでしょ」

 楸矢が信じられないというように言った。

 どうやら小夜がアトの、柊矢が男の方の気持ちを歌っているらしかった。

「……ねぇ」

「何?」

「今の男声パートの歌詞、一生そばにいて欲しいって……これ柊兄の気持ちだよね?」

 男の気持ちを代弁しているとは言っても実際は柊矢が自分の想いを歌っているのだ。

 当然、そばにいて欲しいというのは柊矢の小夜に対する気持ちだ。

 そもそもアト達は既にムーシケーで一緒にいる。

「そうだね」

「小夜ちゃん、自分もそばにいたいって歌ってるけど家から出ていかないって答えちゃったって分かってるのかな」

「さぁ」

 椿矢が笑いながら答えた。

「小夜ちゃんが気付いてないにしてもなんでいきなり……」

「小夜ちゃんが出ていこうとしてるって柊矢君も小夜ちゃんの友達から聞いたんじゃない?」

 訳を説明すると言っていた楸矢が話さないまま家を出てきてしまったから柊矢に訊ねたのかもしれない。

 そのとき小夜が家を出ようとしていると柊矢に話したという事は十分有り得る。

「それで先に言質げんち取ったのかも」

「小鳥ちゃんが気付いてないの分かってるはずなのに、柊兄、きたないな~」

 楸矢が呆れたように言うと椿矢が声を上げて笑った。

「恋と戦争手段を選ばずって言うからね」

 いくら魂の片割れでも、それだけで相手に対する気持ちが強まるわけではない。

 おそらく夕辺の一件で更に小夜に対する想いが深まったのだろう。

 その上ムーシケーが祝福を与えるようなムーシカまで聴いたら完全に心を鷲掴みにされただろう。

 やがて別のデュエットが始まった。

 これは以前、柊矢が作ったものだから男声パートは男のムーシコスが歌っているが柊矢も歌っているのは想像にかたくない。

「歌ってるの、近くだね」

 椿矢が歌声のする方を向いた。

 肉声が届くほどの距離ではないが方向が分かる程度には近い。

「聴きに行ってくる」

 椿矢の言葉に楸矢が信じられないという表情になった。

 やはり椿矢もムーシコスなんだと思っているのが顔に書いてある。

 椿矢は笑いながら後ろ手に手を振ると小夜の歌声の方に向かって歩き出した。


 エピローグ


「なんで僕がこんなことしなきゃいけないの」

 榎矢がバーベキューの道具を運びながら文句を言った。

「貸しがあるでしょ」

 椿矢が素っ気ない声で答えて庭にバーベキューの道具を持ち出させた。

「火は僕がおこすからお前は野菜洗ってきて。洗い終わったら、それ持って父さんと母さんと連れてきて」

「そこまでの借り?」

 榎矢が不満そうに顔をしかめた。

「自分が食べるものでしょ。それとも食材費自分で出す? それなら僕がやるけど」

 榎矢は渋々食材の入った袋を受け取った。

「でも、なんで急に……」

「楸矢君の話、聞いてたら親に感謝しないといけない気になってね。お前が沢山食べるだろうと思って材料多めに用意してきたよ」

「ホント?」

 榎矢が意外そうな表情を浮かべた。

「いくら何でもお前だけけ者にするほど冷たくないつもりだけど? ちゃんとお前が腹一杯食べても十分な量の肉と野菜、買ってあるよ。肉に串を刺すのも忘れないようにね」

 椿矢がそう言うと、榎矢は食材の入った大きな袋を抱えて嬉しそうに母屋へ駆けていった。

 ホント、バカなヤツ。

 椿矢は白い目で榎矢の背中を見送った。

 あれだけ単純なのによく他人ひとを騙せるなどと考えたものだ。

 それも自分より遥かに利口な小夜を。

 成績の良さと賢さはイコールではない。

 相手と自分の力量を見極められ、分からないことは素直に教えをえる謙虚さを持っている楸矢は賢明だ。

 つまらない対抗心で意味もなく喧嘩売ってきたりもしないし……。

 椿矢はバーベキューグリルの真ん中に古文書を積み上げるとその周りを囲むように炭を置いて紙に火を点けた。

 以前、榎矢が蔵に戻すのを手伝ってジャンル別にさせたのは呪詛に関するものを一ヶ所にまとめるためだ。

 終わった後で確認を買って出たのも、そそっかしい榎矢が置き間違えて別の場所に紛れ込んでないか確かめたのだ。

 椿矢はそれを持ち出してきて炭のき付けにした。

 古文書が灰になる度に次々と文献を火にくべていった。

 焚書ふんしょなんて学問の敵なのに自宅のものとはいえ大量の古文書燃やしたなんて知られたら大学クビになるな。

 まぁ、地球の歴史とは関係ないものだし……。

 最後の一冊が灰になった頃、炭に火が回り始めた。

 これでもう呪詛に関する資料は残ってない。

 呪詛の依頼が来たとき文献が見つからなくてパニックになってる両親の姿が目に浮かぶ。

 そして榎矢が大事なものを無くしたといってこっぴどく叱られるところも。

 椿矢はその光景を想像して人の悪い笑みを浮かべた。

 呪詛の資料は全て始末した。

 呪詛のムーシカは小夜が普通のムーシカにしてしまったから思い浮かべたくても浮かんでこない。

 呪詛の作り方の資料も全て燃やしたから新しく作ることも出来ない。

 まぁ、小夜ちゃんがムーシカ変成させちゃったから資料があっても作れないけど。

 だがムーシケーはムーシカを悪用出来ることを知られるようなものは残しておきたくないだろう。

 呪詛に限らず嵐や強風など効力を発するムーシカに関する記述がある資料は、治癒や怨霊の浄化のムーシカのように人の役に立つもの以外全て燃やした。

 霍田家など他所よその家のものまで消すのは無理だから処分できたのは雨宮家の資料だけだが。

 今後、雨宮家が受けられる祈祷の依頼は治療と霊の御祓いに関するものだけだ。

 雨乞いや雨鎮あましずめの資料も残してあるが今時の農家や農協が雨乞いや雨鎮を頼んでくるとは思えない。

 しかし親孝行というのはまるきり嘘ではない。

 楸矢の親に対する憧れを聞いていたら多少は両親に感謝しないと彼や小夜に申し訳ない気になったのだ。

 椿矢の両親は、楸矢が羨ましいと言っていたことは全てやってくれていた。

 おそらく他にも羨ましいと思っていたことは沢山あるだろう。

 あまりにも多すぎて全部は話しきれなかっただけだ。

 寝言ばかり言ってる親だが楸矢や小夜からしたらこんな両親でも羨ましいに違いない。

 ムーシカを悪用する資料を始末したから、いつの日か雨宮家の人間がもう一度クレーイス・エコーに選ばれることもあるだろう。

 それが椿矢なりの親孝行だ。

 まぁ、小夜ちゃんは死ぬまでクレーイス・エコーのままだろうから、うちの親が生きている間に雨宮家の人間がクレーイス・エコーになることはないだろうけど。


 そのとき食材を抱えた榎矢が両親を連れて戻ってきた。

 椿矢は榎矢にうちわを渡した。

「炭には着火してるからこれで風送ってればそのうち焼けるようになるよ」

 上手く仰がないと火が消えてしまうかもしれないがどうせここは自宅の庭だ。

 消えてしまったら台所で焼けばいい。

「え? 僕がやるの?」

「僕の用は済んだから」

 椿矢はそう言って後ろ手に手を振ると家を後にした。


       完


椿矢の「別に左の頬を差し出したり敵を愛したりする必要はない」

※マタイによる福音書第五章「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」

※ルカによる福音書「汝の敵を愛せ」

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魂の還る惑星-uta no hurusato 2- 月夜野すみれ @tsukiyonosumire

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