知識の連鎖、時間の累積

 もう少し。

 もう少し。

 あと少し。

 あと少し。

 未来は変わる。きっと変わる。

 未来は今まで変えてきたし、変わらない未来はない。

 だが、それは途中だけ。

 本当に変わってほしい未来は、延々と変わらない。

 望まない未来へと、延々と続いていき、そしてたどり着く。

 きっかけは些細なこと。

 だけど、それは確実に起こる。確実に収束する。

 望まない未来へ。

 望まない現実いまとなる。

 時間は有限だ。

 やらなければならないことは山のようにある。

 できることはすべてやる。

 できないことは、もうないはずだ。

 いくつも積み重ねてきた、自分の過去がそれを肯定してくれる。

 何度も。

 何度も、何度も。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 一瞬。

 たった一瞬でいい。

 その刹那の瞬間が、彼女を救う唯一の時間。

 彼女を救うために繰り返してきた、ぼく自身の、救われる未来のために。




「……聞いてます? 先輩」

 目の前の彼女の声に我に返る。ずっと彼女の顔を見たまま動かなくなっていたぼくに、彼女は怪訝な表情で問いかけてきた。

「もちろん。無重力下においての光粒子加速が意味をもつかどうか、だろう?」

 会話の内容は、いつもゼミの話だ。

 だが、そんな会話が心地いい。

 選ぶ言葉の端々に、彼女がいかに素直で、さとく、情熱的かを表している。

「可能だと思います? 私はそうは思えません」

 最初に出会った頃よりもよく話すようになった彼女は、最近ますます変わっていった。

 化粧っ気すらなかった一回生。めったに人の目を見て話さなかった。ゼミに顔を出し始めた頃、いつの間にか表情に生気が宿っていくのを感じた。それまではどこか他人に比べて頭一つぬけていて、人生の終わりみたいな顔しかしていなかったはずなのに。

 二回生になるころには不思議なことに、どこにでもいる他の学生と同じくらいによく笑うようになった。理由は何となくが、今はまだその時期ではない。ゆっくりと今の彼女を知れればいい。

 同じようで同じでない、毎回新しい出会いと、新しい世界を、彼女と共に歩み続けること。そのために。

「現実世界における、光粒子の観測条件には限界があるからね。人間が五感を越えた感覚器官が組み込まれないと、なかなか難しいと思うよ」

 彼女は、ぴくっと眉を歪める。

「例えば、人は光を認識するために目があり、音を聴くために耳がある。感覚器官がその刺激に必要な分だけ存在するなら、新たな世界の認識には新たな感覚器官が必要じゃないかな」

「……教授の表現を用いるなら、平行世界を認識できる器官、とかですか?」

 今回はそのパターンか。

「それは器官じゃない。まだ言語化は難しいけど、記憶の不可逆連続性を否定しないと」

 今はこんな言い方しかできない。

「過去の記憶と、未来の記憶、そして平行世界の記憶がそれらを越えても同じ記憶として存在する証明のことですよね」

「そう。それができなければ平行世界の改竄かいざんが行われたことが認識できない。そして本来、人間はそれを認識できないように作られている。膨大な情報を処理しなくてはならなくなるからね。単一の時間軸を時間通りに記憶してさえ、『忘れる』機能のおかげで損失が起きるほど、脳は複雑に作られているんだ。きっと、過去に獲得したが失われた能力なんだろうね」

 ありのまま否定するのでは、彼女の信頼を得られない。しかし、情報の与えすぎもまた、悲劇を呼ぶ。

 彼女が自分なら。他人をもっと自由にコントロールできれば。

 重ねた時間の分だけ、焦燥感で胸が一杯になる。




 別の日の午後。

 ふっと、揺らぎを感じ観測した。

 時間軸が、平行世界が複製分岐されている。恐らく、彼女だろう。

 ぼく自身も細分化されていく世界の隙間にその意識を委ねる。徐々に世界から色が失われていき、ただただ青い色に周囲が蹂躙されていく。

 いつもならこの状況は数刻もしないうちに解除され、また普段通りの世界へと戻るのだが、今回はこの状態がなかなか終わる様子がない。

「何か、あったか?」

 ぼくは自身の体を狭間の世界に馴染ませ、ゆっくりとPCデスクから立ち上がる。廊下へ続く扉に手をかけ、慣性のままに開かせる訳にはいかないので静かに力を込める。抵抗はないが、勢いをつけすぎると扉がので注意が必要だ。

 研究室の外はひんやりとしている。温度を伝えるものがないため外の気温が体に触れないからだ。逆を言うと、自分の体温が外に逃げないので暖かい、とも言える。

 目を閉じて、周囲を探る。自分と同じ波長を発している存在がいるはずだ。

「……いた」

 あとはその方向へと向かう。

 今回は中央広場の中庭に気配を感じた。いつも彼女と昼食を摂る時に使う場所だ。ふと、過去の自分の言動に疑問を持った、ということだろう。いつものことだ。

 重くなった水中をかき分けるような動きで前へと進む。急激な運動は周囲に負担をかけるうえ、もとの時間軸に戻ったときに影響が大きい。じっくりと移動しながら今度の彼女のストレスをリサーチする。

 特に最近は慎重にことを進めていたはずである。大きなストレスになるような情報もなければ、障害になるような行動も起こしていないはず。たまに発生していた癇癪のようなものならそれでいい。そんなことを考えながら、いつものベンチで淡く光っている彼女を見つけた。

「何をしてるんだい?」

 なるべく優しく声をかける。

「……やっぱり、来てくれた」

 この狭間の世界では、彼女の輪郭は少しぼやけている。体全体はやはり青白く輝き、ぼくを見つめる瞳からは真っ白な輝きが溢れて止まらない。これは泣いているわけではなく、眼球の中にある水晶体が、残留した光の粒子の乱反射によって発光しているように見えているからだ。彼女も、ぼくの瞳がそう見えているだろうことは想像に難くない。それは、ぼく自身も彼女と同じ観測能力をもっていることを彼女に示している。

「この、並行世界の外側にいるとき。最初はすごく不安でした」

 彼女のクリアな声が鼓膜を直接振動させる。喉の振動が直接、ぼくの骨を振動させているからだ。

「私の声は誰にも届かず、周りの人も全然動かない、ただ時が過ぎるのを待っても進まず、ずっと一人でただこの状況が過ぎ去っていくのをベッドの上で待ってた時が一番つらかった」

「……ああ。わかるよ」

 その孤独は、君だけに訪れた奇跡。世界を変えることができるかもしれない力。

 それゆえに。

「先輩は、私がどこにいても分かるんですね」

 視線が合う。彼女の表情までが伝わるようだ。

「ぼくはね。君を助けたいんだ」

 急に立ち上がろうとしてバランスを崩した彼女を、ぼくは正面から抱きしめて支える。

「……今なら、この瞬間がずっと続けばいいな、って思っちゃいます」

「ぼくもだよ、九重さん」

 だけど、それはできない。

 回避不可能な並行世界の唯一の交点。――約束の日。

 だけど今は、この刹那の時間わずかなやすらぎに身を委ねていたい。そう思った。

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