静寂に包まれた青い世界で

 脳が痺れている。

 頭の周りだけ気圧が高くなり、大きな手のひらで握られているような感覚だ。

 見開いているはずの視界は薄暗く真っ青で、周りのどこを見ても夜の世界に放り込まれた感覚だ。

 夜なのか、と言われると違うと感じるのは、壁の時計が朝の七時頃を指しているからだ。

 朝の七時だ。

 なぜ、こんなに暗いのか。

 夏が終わったくらいではあるが、夜はまだまだ短い。六時半には朝日が昇る時期だ。いったい、どうなっているのか理解が追い付かず、布団の中から出られない。

(金縛り……?)

 体は動かそうと思うと動かせるかもしれない。布団が異様に重い。眠くはない。むしろ脳が痺れている以外は視界も良好で、なんなら空中の埃すら綺麗に映る。

 と、ここでより異様な雰囲気を感じ取った。

(この埃、動いていない……?)

 じっと空中に舞う埃に焦点を当てる。

 いつもなら、周囲の風に舞わされてふわふわと動く埃は、今は縫い付けられたように静止して動かない。目がおかしくなったのか。

 そう思って、今度は耳の感覚を推し量るべく周囲の音を拾わんと耳をそばだてる。

(おかしい…… なにも聞こえない!)

 まるで狭い車内でじっとしているときのように、カン高い耳鳴りが響いていた。夜の静寂のせいと深く考えていなかったせいで、気づくのが遅れたようだ。

 意を決して、布団を剥ぐ。が、思うように動かない。鉄、あるいは鉛入りの布を動かしているような感覚だ。

 なんとか出られるようになるまで五分はかかっただろうが、時計は相変わらず七時のまま。ここでふと、妙な結論を導き出した。

「時間が、止まっている?」

 教授が、ある仮説を語っていたのを思いだした。


「もしも、平行世界パラレルワールドを観測できるとするなら、第一段階として観測者は現世界の時間軸から切り離される現象に遭遇する」

「教授、今日はシュレディンガー実験の、収束する事象の選択権がどちらにあるか、が議題では?」

「似たようなものだ。我々が観測できる事象の内容は、あくまで起こったことの確認であって、どちらを望んだとしても収束する事象に対して干渉する術はない」

 我々の目の前には、ミカンと氷が入っているクーラーボックスがある。いや、入っていたと言っていい。何故なら、入れたのは一週間前なので氷は融けているだろうからだ。

「氷が融け切ったのがいつなのか。そしてそれを観測していないなら融け切って箱の中身が冷えなくなったのがいつなのか分からないなら、箱を開けた瞬間に結果がどちらかに収束する。ミカンが腐っているか腐っていないか、だ」

 一週間前だから、そりゃ腐ってるだろうというのが他のゼミ生の意見だが、教授は続ける。

「もしこの中に平行世界観測者がいれば、腐っていた収束結果を並行世界へ押し付けてくれ。そうすれば、こちらのミカンは腐らなかった世界へと収束する。確率変動ではなく、収束結果のすりかえだ。少なくともここにいる全員が「腐るな!」と強く思えば、観測時間がわずか一瞬であっても思い通りの結果になるはずだ」

 んな馬鹿な。

 と思っていたが、実際は……

「教授…… ミカン、無事です」

「観測者は誰だ!?」

 教授は全員を見渡す。だが、誰も自覚症状はない。

「ちなみに、その第一段階に突入した人は、どんな環境下に置かれるんですか?」

「分からん。私自身が観測者になれた自覚がないからどんな現象に遭遇するかは分からん。分からんが……」

 うんうんと唸った後で、トンデモ理論が教授の口から飛び出した。

「恐らく、世界は青く染まるだろう。昼間だというのに、夜になったような世界に」


 ――『時間軸から切り離された』

 つまり、自分は今この世界の時間の流れから隔離され、あらゆる時間束縛から解放されていることになる。

 代わりに、様々な干渉からも解除されてしまっている。

 まずは体重だ。異様に体が軽い。月面だと言われても違和感はない。だが、必要以上に浮き上がらないのは逆に周囲の空気がとんでもなく重いからだ。透明な鉛の中を、拘束具を付けて泳いでいるような感覚が肌を支配している。気圧が働いていないからか動かした体の部分が瞬間むくんでしまうが、それを周囲の空気が空いた空間を時間差で埋めて、結果元に戻る。時間が止まっているのに時間差があることに違和感を覚えるが。

 布団が重かったのはそのせいもあるのだろう。再度時計を見ると、気が付かなかったが秒針が仕事をしていない。それで確信した。

 自分は、こ《元》の世界の時間軸から解放され、平行世界を観測する権利を得たのだ。

 そして、あの後の話をもっと聞いておけばよかったと後悔した。

 教授の思い付きの、机上の空論の、行き当たりばったりの理論が、今の自分を元の世界へ戻すための唯一の知恵だ。

 止まった世界。青く見える理由、不自由に自由な体……

 あることを思いだした。

『量子テレポート』

 今自分が見ている世界は、もう一人の自分、この平行世界の自分が存在している世界ではないか。

 なら、量子的に同素体である自分とこの世界の自分はと考えていいはずではないだろうか。

 なら、自分が受けている感覚は相手にも伝わり、相手が受けている感覚は自分でもわかるはず。

 目を閉じる。『この世界の自分』が受けているはずの『網膜の刺激』に集中する。青いだけだった自分の網膜に、まるで映画館のスクリーンに映像が映るように眼前に景色が広がっていく。閉じた世界に、別の世界が広がる。

 そこは、あの『ミカン鑑賞会』だ。自分がいて、自分以外のゼミ生がいて、教授がいる。

 聞いたことのある会話がされ、そして、ほどなくして箱が開けられる。


――『腐れ! 氷はもっと早くに融けて、温度は上がってしまえ!』


「教授、やっぱり駄目でした。腐ってますよ」

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