序章
不意に見上げた先の空は思わず目を細めてしまうほどの快晴で、本当に変わってしまったのだと改めて思う。あるいは終わってしまったのだとも思うが、これは一つの区切りに過ぎないことを彼は正しく理解していた。
隣へと目線を遣れば、肩を並べるのは女。みやびの肩より下の位置にある彼女の横顔を伺うと、そこには欠片ほどの濁りすら見受けられない凪だけが浮かんでいる。
たおやかに吹く風が柔らかな銀灰色の髪を撫でる度に、燦々と降り注ぐ陽射しが反射した。光の機嫌一つで白にも黒にも見えるその髪色は、彼女だけが持ち得る特別な色彩だ。
文字通りの唯一無二である事実を誰よりも自覚している彼女が今この瞬間に何を思うのか、みやびにはその全てを見通すことは叶わない。きっと聞けば教えてくれるのだろうが、なんとなく、それでは格好つかない気がして躊躇う。
みやびは探していたのだ、何処かに必ずあるはずの影を。自分と肩を並べながら人々の様子を見守り続ける銀灰の女へ彼が掛けられる言葉の影を、ただひらすらに。
だが、どれだけ自分の内側を駆け回り引っくり返してみたところで簡単には見つからないから無言を貫いていた。その間に流れた時間は10分も経っていない。それどころか5分も経っていないだろう。
正確に測ったわけではないが、みやびは左手首を覆う腕時計を見下ろさずともそう思う。彼に内臓された体内時計は正しく動いていたし、言い換えればそれだけ彼は落ち着いていた。
何処かにあるはずの言葉を探しながらも一向に見つからない事実に生じる焦りは無く、それが彼の気性でもある。決して無感動ではないが昔から過ぎるほどに落ち着いているのだ。張り合いのない奴だと最初に言ったのは誰だったか。どうせ従妹か親戚の男に違いないから、考えるのを止めた。
あるはずの影も誘い掛けるような尻尾も見つけられないまま、無言を貫くみやびが再び多端な人々の姿へ目線を向けると、女が口を開く。
「良かったのだと思います」
小さくとも凛とした声を、みやびの耳は拾う。その言葉の意味を問おうと向けた目線の先には、先ほどと変わらず銀灰の彼女が居た。
「……良かった?」
みやびの小さな問い掛けなど、彼女なら何処へ居ようとも簡単に拾ってしまうのだろう。例えば目の前に広がる大きな人波の更に向こう側に居たとしても、応えてくれるはずだ。みやびの問いに頷く彼女は、呼吸をするのと同じようにそれが出来てしまう。
「これで良かったのだと思います」
視線は交わらない。彼女は忙しなく動き続ける人々へと目線を向けたまま、唇の端を持ち上げて緩やかな弧を描く。
探し求めていた影をとうとう見つけられないまま、お前がそう思うなら、と溜息交じりに呟くみやびへ向けられるのは随分とすっきりした笑みだ。
「はい。だって、
誰がどう望んだって、神に相応しいとは思えません。
柔らかな笑みを浮かべながら紡ぐ言葉は妙にはっきりとしていた。
「私たちみたいなものは、昼よりも夜の方がずっと過ごしやすい。光よりも闇の方がよく見えますから」
狼の本能はさて置き、そういう風にできているんですよ。
顎のラインの辺りで切り揃えられた髪と同じ色の長い睫毛が影を落とす大きな瞳も、同じ銀灰色。みやびは、穏やかな声色で胸中を吐露する彼女の瞳を覗くように見つめた。
「
「だから、これで良かったって?」
「はい。人々の関心が薄れ、存在を忘れ、概念としての死が訪れた時に初めて縛りが解ける。他の誰のためでもなく自分のために、私たちは忍ぶべきなんだと思います」
今日に至るまでに起こったこと、消えてしまったものの顔や言葉。不意に浮かんだそれらを振り返りながら、みやびはぽつりと呟く。
「自分のために忍ぶ、か」
そんな彼を見上げる銀灰色の女はやんわりと目を細めると、一度だけゆっくり瞬いた。
「何もしないという選択をした仲間の胸の内が、ようやく分かりました。だからこれで良かったし、雨森さんに出会えたことだって良かったことの一つですよ」
「あえて最後の部分だけを取り上げるが、こちらこそってやつだな」
みやびの声を聞いた女は、なんだかくすぐったそうに笑った。
顔を合わせていた彼女は再び人波へと目線を向ける。その大きな銀灰の瞳が何を見つめているのか、みやびには分からない。だが、名前を呼ばれ促されるままに示される方へと目線を遣ると、隅に山が出来ていた。
その山はこうして見つめている間にもあちらこちらからやってきた人々の手で背を伸ばし、裾を広げている。よくよく見れば山の正体は紙だ。方々から剥がされたポスターやコピー用紙の山。それは政府や企業が作成したものであったり、地域に住む子供たちが手掛けたものであった。
「ポスターはともかく、あのイラストたちはどうなるんですか?」
「少なくとも、都内に貼られているものは全て職員が回収して、廃棄するらしい」
その合間にも、どこからともなく人がやってきては筒状に丸めたものを乱雑に放ったり、ぐしゃぐしゃになったものをぱんぱんに膨らんだ袋から取り出している。確かにあちらこちらで見掛けるとは思ったが、一体どれだけのポスターが印刷され、大人も子供も関係なしにイラストを描いたのだろう。
始まりはSNSに投稿された、たった一枚のイラストだったはずだ。それが誰というわけでもなく広がり、作られたハッシュタグを使う人も必然と増えていく。ついこの間までツイッターでは関連するワードが連日のようにトレンドが賑わせていた。
そんな話題が政府の人間の耳にも入り、最初に投稿されたイラストをモチーフとした啓発目的のキャラクター採用にまで至るわけだが。
「そうですか。子供たちが早く忘れてくれると良いですね」
みやびが見つめる彼女は、それが本心であるとでもいうような声色を出し、目を細めている。本人がこれで良いと言うのだから、みやびが何かを言うのは野暮というものだ。
だが、丁寧に貼られたはずのそれらが乱雑に剥がされ、もう用はないとばかりに地面へと打ち捨てられる様を見るのは、なんとも形容しがたい感情を生み出していく。まるで、と無意識のままに呟いた言葉の続きは空気に乗っていかなかったが、女は僅かに目を伏せながらそうですねと頷いた。
銀灰の狼が描かれた紙の山へと目線を向けたみやびは、
「俺、この仕事を辞めることにした」
そう口にした瞬間、音でもしそうな勢いで見上げられて。大きな瞳を更に大きく見開いたかと思えば眉を下げて笑う柊の銀灰色の髪を、無骨な手がぐしゃぐしゃと撫でた。
◇◇◇
世界で唯一、東京都だけで蔓延した疫病は収束の宣言が出されたとはいえ、約1年の延期を余儀なくされた世界選手権大会は無観客で行われた。各国の要人たちの周辺関係者や研究者たちが様々な憶測を立てる中、その裏で動いていたみやびと柊の言葉の意味を知るものは決して多くない。
全ては柊が言う通り、人々から忘れ去られるべきものだった。
2021年7月に開催された世界選手権大会が無事に閉幕すると、その翌年にあたる2022年4月末日をもって『
主に企業から改元時期についての意見が寄せられるものの、有識者会議で決定された案は覆らなかった。政府の人間の殆どが現代人の生活習慣に合わせた企業側の意見に賛同していたにも関わらず、だ。首相はこの理由を国民の生活習慣に寄り添った結果だと説明しているが、内情は様々にある。
とはいえ最も影響を与えた理由を挙げるとすれば、有識者会議に召集された揚ノ宮敦康の存在に他ならない。表向きには民俗学の研究者である彼は、最初から大晦日はもちろん立春や立夏は避けなければならないと強く主張していたのだった。
平成34年4月末日、平成天皇が退位。
翌日の5月1日、『
狼の敗残 鴇雨らる @tokisame_lalala
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