29. 母親

 それから一週間が経ち、俊彦はもう一度アトランティスを訪れた。この間と同じように秋子の車が出ていくのを確認してから駐車場に車を入れた。秋子の母親は、意外そうな表情と怪訝そうな表情の、両方が混ざったような顔で俊彦を迎えた。


「あの次の日に秋子さんに会いました、もちろん偶然です」


 俊彦がそう切り出すと、母親は驚く様子もなく片方の眉を少しだけ動かした。


「やはり恨まれていました。逃げたと言われました。でも僕は……僕は償いをしたいんです。僕はあの頃、会えなくて苦しんでいるのは自分だけだと思い込んでいました。あっちゃんには僕がいなくても言い寄ってくる男が大勢いる。最初は辛くても、そのうち僕の事なんか忘れるんだって、勝手に思っていた気がします。……いや、たぶんそう思うように自分に仕向けていた」


 秋子の母親は俊彦の目を覗き込むように見た。そして言った。


「どうして、ですか?」


「……彼女の言う通り、僕は逃げたのかもしれません。確かに僕は秋子さんが都会で変わってしまう事が怖かった。でもそれ以上に……あの頃の僕は何もかもが未熟で、工場のみんなを捨てて自分の力で生きることがどんな事かもわからない、まして二人で生きるのがどんな事かなんてまったく想像もできないような男でした。たぶん僕は、そんな自分の未熟さを彼女に知られる事が怖かったんだと思います。将来に脅えて何も決められない弱い自分を。

 あのときもし僕が秋子さんを選んでいれば、僕はきっと彼女以外のすべてを捨てていたと思います。でもそれでどうやって生きるのか、捨ててしまった人たちの事を考えながら、僕はそのまま生きて行けただろうか。あの頃の僕は押しつぶされてしまったかもしれません、そして彼女を責任から逃れるための言い訳に使ったかもしれない。それでもし『彼女のせいでこんなことになったんだ』そんな事を一瞬でも考えたら、僕はそれっきり壊れてしまったと思います。絶対にそう思わないと言い切る自信があの時の僕には無かった。子供だったんです、未熟でずるい男だったんです。僕はそんな自分の本当の姿を秋子さんに知られる事が、知られて心の底から幻滅される事が、たぶん怖くて仕方がなかったんだと思います。だから、だから……」


 母親は俊彦に椅子を勧めた。二人は隣り合った別々のテーブルの椅子に座った。母親はしばらくじっと入り口の鈴を見つめていた、そしてひとつ、大きなため息をつくと俊彦に言った。


「波多野さん、その年頃の人なんて私たちから見たらみんな子供ですよ。子供が未熟なのは辺り前です、狡いのだって人間ならいくつでもみんな同じです。でもやってしまったことは取り返せないんですよ、いくら反省しても、こんなに時間が経ってしまったら、もうどうしようも無いんです。遅かったんです、今になってあなたがどんなにあの時の事を謝ったとしても、秋子がそれを受け入れるとは私には思えません」


「わかっています。僕はもう秋子さんとどうにかなろうなんて考えてはいません。ただ秋子さんと会って、僕がどれほど彼女を深く傷つけていたかを知って、何で今までこんな当たり前の事に気づかなかったんだろうと思いました。消えてしまいたいとも思ったけれど、それはきっとあの頃の僕と同じで、彼女から逃げた僕と同じで、僕はまた同じ事をするのかって……。無理かもしれない、いまさら虫のいい事かもしれない。でも出来る事ならいつかは許されたいんです。彼女が他の誰かと再婚したとしても、それはいいんです。僕はただそれまで彼女を見守っていたい。どうにもならないことでも、せめて精いっぱいの誠意だけは見せたい。そして出来るなら僕があの頃彼女を心から愛していたことを、いま僕が心から後悔していることを、彼女に分かって欲しいんです」


 母親は俊彦の言葉を遮らず最後まで聞いていた。彼女はテーブルの上に置いた自分の手をじっと見つめて、何かを考えているようだった。しばらく経って母親は言った。


「それがあの娘をもう一度傷つけるとしてもですか? 思い出したくもない辛い想い出を思い出させる事になっても……ですか?」


 俊彦は顔を伏せたまま、何も言えなかった。


「あの娘はわかっていると思いますよ、あなたが昔、あの娘を本当に愛していた事は」


 そう言った母親は、一旦厨房に入って琥珀色の液体が入った二人分のグラスを手に戻ってきた。俊彦はテーブルに置かれたそれを一息で飲んだ、よく冷えた麦茶だった。麦の香りの合間に、あの頃秋子が自慢した山の水の味がした。


 母親は自分の分を半分ほど飲んで、「ふうっ」と息をつくと、俊彦に言った。


「私は親として、あなたにあの娘の人生をかき乱して欲しくないんです。あんなことがあって、お父さんも倒れて……。最近やっと生活が落ち着いてきたところなんです。だからいいですか波多野さん、今のあなたがあのにしてやれる事は、何もないんです」

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