湯の華 ~湯小屋の乙女~

岩と氷

1. 序章

「お母さんがぁ、今日は少し遅くなるってぇ!」


 スマートフォンの画面を見ながら夏菜が言う、僕の顔なんて見ようともしない。


 東北地方の南の端、山深い峠道にあるこの店は、あの頃なら窓を開けるだけで夏を凌げたらしいのに、今年は三台の扇風機を最強で回していないと暑くてとても過ごせない。


 これを機にクーラーを入れてはどうかと秋子に言ってみた、彼女は「何を言ってるの?」とでも言いたげな目で僕を見ただけで首を縦には振らなかった。ここのところ彼女だってしょっちゅう汗を拭いているのにこんなに頑ななのは、たぶんそれを僕が言ったからだろう。


 カウンターの上にある古い冷水機から出てくる水は、クリスタルが液体になったと思えるほど透明だ。裏山の小さな沢からパイプで引いているこの水は、去年まで麦茶にしてお客さんに出していた。それをこの夏に入る前に、水のままのほうが美味いのではないかと言ったのは僕だ。


 そのときは夏菜が「そうそう、あたしもそう思う」と話にのってくれたおかげで、秋子は一瞬虚を突かれたような顔はしたものの「いいんじゃない? でもお掃除はお願いしますね」と言って許してくれた。ただ店の掃除は今も僕がやっている、おかしな事を言うなとは思った。


 次の休み明けに店に出ると、裏山の取水枡の落ち葉を剥がしてきてくれと秋子に頼まれた。掃除ってこれの事だったのかと思いながら裏山に登り仕事を終えて帰ってくると、秋子はまだ長靴も脱いでいない僕に向かって「毎週お願いしますね」と、愛想笑いの一つも無しに言ってのけた。自分が放った不用意な言葉のおかげで、また一つ僕の仕事が増えた。

 言葉に出す前によく考えない癖は今も治っていない。この歳までこうなのだから、もう一生治らないのかもしれない。


 近頃流行っているらしいメッセンジャーアプリとかいうものをスマホに入れろと、最近夏菜がしつこく言ってくる。いい歳をしたおじさん宛のメッセージが自分のスマホに届くのが、中学生の彼女には我慢ならないらしい。だが仮に僕がそのアプリを入れたとしても、秋子から僕へのメッセージは今まで通り君のスマホに届くだろう、賭けてもいい。


 そんな現代っ子の夏菜だが、店に居るときはいつも昭和の食堂のウェイトレスみたいな、白い三角巾を頭に巻いている。膝下まである長いエプロンも時代を感じさせる地味な臙脂色えんじいろで、胸のひよこの柄までなんとなく古くさい。


 でもこの古めかしい格好が常連の男どもにすこぶる評判がいい、一年中浅黒く日焼けしている彼らの生業はおしなべて農業か土木で、里が雪に閉ざされる冬の間はスキー場の係員に化けたりもする。

 不思議な事に夏菜と釣り合いそうな若い男は、湿原に咲く高山植物でも見るように彼女を遠巻きに眺めているのに、僕と変わらないいい歳をした男たちは彼女に遠慮無くちょっかいを出してくる。


 夏菜がエプロンの下に着ている白の開襟シャツは、学校が始まるとセーラー服に替わる。秋子の頃から変わらない制服をそっくりな顔をした夏菜が着ると、見ている僕はまるであの頃にタイムスリップしたような気分になって、スカートがやけに短い事に気づくまで、気持ちはなかなか現代に戻れない。

 もしかしたら同年代の彼らも、夏菜を見るたびにあの頃に戻って、好きだった同級生の姿でも追っているのかもしれない。


下会津しもあいず小町」などと、時代がかったおだて方で自分の娘の気を引こうとする男たちを、母親の秋子はいつもただ黙ってみている。そしてしばらくすると店中の誰もが気づくような大きなため息をついてみせる。

 巷で小町と呼ばれるような娘は、どこかにしとやかな雰囲気があるものだが、若い頃の自分にそっくりな顔をした娘が、それをかけらも持ち合わせていないことを、彼女は心の底から嘆いているようだ。


「ちゃんと返事をするぅ、大人なんだからぁ」


 最近、夏菜は僕にこんな口まできくようになった。慣れてくれるのは嬉しいが、他の大人にもこういう言葉遣いをしてやいないかと少し心配になる。声色はおどけているのに目が笑っていないから、冗談めかしても実は本気なのだろう。眉がキツく曲がると顔が整っている分、僕は般若のお面に睨まれているような気分になる。


 居所が悪くなって「美人は黙ってニコッとしている時が一番綺麗なんだよ」と前に一度言ってやったら、古いだセクハラだと今風に散々言い返された。


 顔の造りが整った人は、表情のバランスが崩れたときに寒気がするほど怖い顔になることがある。最初に気づいたのは中学の頃に僕があまりに英語に不真面目で、担当の女教師が怒った時だったけれど、確信したのは秋子と付き合い始めてからだった気がする。


 あの頃時々秋子もこんな顔をした。僕はすでにあの頃から秋子を苛立たせていたのかもしれない。


 そろそろ般若が牙を剥きそうだ。後が怖いから頭の上で軽く手を振っておこう、ひらひらっと。


「ごっそうさーん」


「あーりがとうございまーっす!」


「ありがとうございますぅ!」


 ランチタイムの最後の客を夏菜と二人で見送って、僕はコップ一杯の清水を体に染み込ませた。二十数年前に秋子と初めて出会った時、秋子は僕が頼みもしないのに、この辺りの水のおいしさの理由を教えてくれた。

 この先の山里にある温泉の素晴らしさから始まったその話は、草花の名前の由来を経て、小屋の脇の沢に住む蛙の珍しい生態に移った頃には、僕は意識を失う寸前まで追い込まれていたのだけど、この事も夏菜は知らない。


 冷蔵庫の脇から古いパイプ椅子を引っ張り出した。緑の背当てが破れてスポンジが出た椅子は、座ると毎回ギィィと気持ち悪い音をたてる。


「買換えれば?」とめずらしく秋子も言ってくれるのだが、僕は親父さんが長い間座り続けてきたこの椅子を、座れなくなるまで使い続けるつもりでいる。でもそれはこの椅子がバラバラに壊れた時なのか、それとも僕がここから出て行く時なのか。いったいどちらになるのだろう。


 フランスのタイヤメーカーのキャラクターみたいな大きな入道雲が、今日も厨房の窓から店を覗いている。夏になってから育ち盛りの子供のように毎日ぶくぶくと育つ彼は、今日も無邪気な笑顔のまま夕立が降る頃合いを教えてくれた。


「なっちゃーん! 洗濯物取り込んだぁ?」


「さっき、取り込んだぁー!」


 学校の成績も性格もずいぶん違うのに、こういうところだけは母親に似てよく気がつく。


 キン! 店の中に鋭い金属音が響いた。


「中西打ったー! センターとった、とったぁ、がぁ、落とした。落としたぁぁあ!」


 ラジオの向こうでアナウンサーがわざとらしく絶叫する、東北の山の上がこんなに暑いのに、ずっと南の平地にある甲子園で昼間から子供に運動をさせるなんて、大人は何て惨いことをするのだろう。


 一九八○年代、サッカーのJリーグなんて影も形も無かった頃の事だ、僕は高校生でサッカー部に所属していた。その頃のサッカー部は卓球部と双璧を為す不動のマイナー運動部で、学校から露骨にエコヒイキされていた野球部には最後まで頭が上がらなかった。おかげで僕は今でも相手が野球をやっていたと聞くだけで、最低三ヶ月は好きになる事が出来ない。ただ彼らが振る金属バットの甲高い音は、そんな僕にさえ強いノスタルジーを感じさせる。


 その高校では一年生は全員野球部の地方大会の応援に行くのが決まりだった。メガホンを渡されても、僕は奴らのために声を枯らすのが馬鹿馬鹿しくて、「音を出しゃいいんだろ」とばかりに目の前の手すりをただバンバンと叩いていた。


 隣がたまたま可愛い女の子で、気になってちらちらと見ていたら、その娘が急にすがるような目で僕の顔を見上げた。


 真っ赤な顔で上目遣いをする少女――。


 もしかして? と思って一生に一度ぐらい勇気を出してみようかともじもじしていたら、彼女は突然その場に崩れ落ちた。


 最初は失神するほど好きなのかと思ったけれど、僕をよけるように倒れたので違うと分かった。それから試合が終わるまで、スタンドのあちこちで誰かしらが倒れ続けた。今で言う熱中症だったがその頃はまだ日射病と呼んでいた。それでも応援をやめようと言う教師は一人もいなかった。


 あの頃の教師は体育の授業中も「水を飲むな」と生徒に命令していた。僕たちが頭を冷やすとか、うがいだと嘘をついて水を飲んでいなければ、彼らの何人かは殺人者になっていたはずだ。


 あの頃だって夏になるとテレビや新聞では正しい日射病の知識を繰り返し教えていた。それなのにあんな迷信がまかり通っていたのは、偉い奴が聞く耳を持たなかったか、自分たちが習った古い知識を捨てられなかったせいだろう。


 もしかして僕も、のちにそんな一人になってはいなかったろうか? あれからこれまでの人生を思い返すと急に自信が無くなる。いったいいつ変わったのだろう、あの少年はもうすっかり大人になってしまった。


「遠回りしたもんだな……」


 頭の後ろに両手をまわしてつぶやいた、パイプ椅子がまたギィィと音を立てた。


 通りの向こうに見える山々は若葉の頃をとうに過ぎて、濃い緑色に湿っていた。日を浴びた草の香りがする風が厨房の暖簾を揺らして、すっかりおじさんに姿を変えた僕の汗を文句も言わずにさらってゆく。


 夏菜ならきっと加齢臭だなんだと文句を言うんだろうな、あの頃の秋子ならどうだったろうか……。思い起こせばいろんな事があったはずなのに、今はすべてがあっという間だった気がする。


「遠回りか、いやそんな一言で……」


 自分の人生に巻き込んでしまった女性の顔が頭に浮かんだ、その人の記憶を丁寧に折り畳んで記憶の箪笥の奥に押し戻した。引き出しを押し込むときは、いつも胸に鈍い痛みが走る。こんな事をもう一年近くも続けている。


 野球中継が急に音楽に変わった、音も大きくなった。お客がいなくなったのをいいことに夏菜がチャンネルを変えたのだ。秋子がいたらやらないのに僕だけなら彼女は気にしない。


 舐められたものだと思いながら首を伸ばしたら、夏菜はテーブルの間でまだ少し小ぶりなお尻を振ってよく分からない踊りを踊っていた。たぶんあれが”よさこい”なのだろう、あの頃は確か高知県かどこかのローカルなお祭りだったのに、いつの間にこんな所にまで広がったのか。


「歌舞伎の練習はいいの?」


 疑問に思って声を掛けると夏菜は言った。


「そっちは学校でやってるからー!」


 本当に大丈夫なんだろうか? 普段の彼女を知っていれば当然の疑問だ。夏休みに入ってからもう大分経つのに、夏菜が宿題を気にしている様子を僕はまだ一度も見ていない。


「歌舞伎は家で教えて貰えるから、ママもやった役だもん」


 あんな昔の事をまだ憶えているのか、秋子は――。


 毎年夏の終わりの満月の日に、この先にある古い山里で農村歌舞伎が催される。中学三年生の夏菜には今年が最後の舞台になるはずだ。この辺りに高校は二つあるけれど、どちらも山里からは遠くて、高校生になると歌舞伎の練習には出られなくなる。


「ずっとあれだけだと飽きちゃうんだもん」


 江戸時代からの歴史があって、遠くからも見物客が来るほど本格的な歌舞伎舞台。綺麗な装束は今でも里の女の子たちの憧れの的で、今年の夏菜の役は毎年選ばれた一人の女の子しかできないのに、この娘はずいぶんと罰当たりなことを言うものだ。


 言った夏菜も少しは悪いと思っているのか小さく舌を出して見せる。その顔に僕は見覚えがあった、あれはいつのことだったろうか……。


 日を浴びた草の香りがもう一度鼻先をかすめた、汗が乾くときのひんやりとした肌触り。目をつぶると耳障りだった音楽が耳の奥でぼやけはじめ、心地良さについ頬が緩んだ。


「んもぅ。その癖、キモいってば!」


 遠くで夏菜の声が聞こえた。……いや、これは本当に夏菜だろうか?


 ひんやりとした感覚は長くは続かなかった、代わりに体が覚えのある温かさに包まれた。草の香りがする風が僕を誘っている、遠く時の果てに過ぎ去った、あの山里に。

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