最終話 ドゥミモンデーヌと使用人


 夕方、仕立て屋を出た二人はまた馬車に乗って移動する。


 リザは荷物を膝に乗せていた。馬車がぐらつくたびに押さえつけた。荷物を持たされることには慣れていたから何ということはない。


 サロメは頬杖をつきながら外を眺めていた。瞬きのたびに睫毛が揺れた。美しいラインを描く横顔がオレンジ色に照り輝いている。


 彼女がそうすることも珍しくないから見慣れているはずだが、何度見ても初恋のように綺麗だと息を呑んでしまう。


 到着を知らせる御者の声に、リザが反応した。


 ドレスの裾を押さえながら馬車から降りる。エスコートするように手を差し出せば、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 靴がカツンと音を立てた。軽やかに降り立った彼女はくいっと顎を上げた。


 シャルル・ド・ゴール広場――。目の前にそびえたってるのはナポレオンの凱旋門だ。完成してまだ間もない建築物を、彼女は満足げに眺めていた。


「高さは十分。人の数も十分。さあ、行きましょう」


 サロメは颯爽と歩き出した。迷いのない足取りにリザはピタリと後ろに続いた。


 凱旋門は観光名所になっている。あたりでは多くの人々が足を止めて見上げていた。散歩がてらにやって来た人もいるのか、何気なく目をやっている人もいた。遠くからでも分かるほど石の彫刻は見事だったし、描かれたアーチは芸術品のようだ。


 しかし二人は立ち止まることなく、誰もを抜き去った。


 地下道を通って、凱旋門の中へと足を踏み入れる。


 興味があったわけではないが、リザは思わず真上を見上げてぼうっとしてしまった。細長い螺旋階段が延々と続いていて、目が回りそうだったのだ。


「驚いた?」


 先を歩くサロメは、階段に足をかけている。


「あんなに大きいのに、中はとても狭いのよ。見た目じゃ分からないものよね」


 あとは黙々と上るだけだった。ドレスの裾を踏みつけそうになりながらも、ひたすら上っていった。急な階段に息が荒くなる。鞄を持っているから腕が痛い。


 気づけば会話はなくなっていて、リザは前を歩く彼女の背中ばかりを見つめていた。揺れる柔らかな赤毛と、時々見える白い肌が煽情的だった。


 二百段以上あるそれを上り終えると、開けた部屋に出た。何もない、だだっ広いだけの場所だ。サロメは靴音を鳴らしながら通り抜けて外へ向かう。


 外は展望台になっていた。


 低い柵が張り巡らされたテラスからは、パリの街並みが一望できた。凱旋門をぐるりと取り囲むように広がる広場と、放射状に伸びる十二本の通りが見えている。人工的で、しかし好ましく整った街だ。


 サロメは柵の目の前で足を止めて、吹き抜ける風を浴びて目を閉じた。静かに、ゆっくりと深呼吸する。


 そして街を見下ろしてふっと微笑んだ。


「リザ」


 名前を呼ばれて、リザは頷いた。サロメはゆるりと首を回した。


「ちっぽけな、けれどこれは反撃よ」


 リザは持っていた鞄を足元に下ろした。手早くボタンをはずして鞄を開く。中には大量の紙が束ねられていた。同じ印刷をされたものが何百枚と。何フランかかったのかは想像したくもない。


 リザは両手で掴んで、持てる分だけを一気に持ち上げた。ずしりと重い。


 リザは腕を振って、反動をつけて――柵の外へと放り投げた。


「……っ!」


 紙がばらばらになって、宙を舞った。


 夕日が輝く空に舞い散っていく。


 風が吹いた。


 風に乗ってどこまででも飛ぶ。


 豆粒くらいにしか見えない群衆が、腕を上に伸ばしていた。紙を手に取って、そして顔を見合わせるように歩み寄る。紙はまだ降り続けている。次から次へと人が集まってくる。


「なんというか、圧巻ですね」


 パリの夕暮れに漂う紙を二人は眺めていた。


「っと」


 舞い戻ってきてしまった一枚を、リザは上手く掴み取った。端がくしゃりとよれている。ここに来る前に読んだ文章を、もう一度読見返す。


 ――フランス軍には隠された部隊がある。彼らはバラノフ公爵を誘拐し、公爵夫人をつけ狙い――。


「私はドゥミモンデーヌで、あなたはその使用人。私たちには私たちのやり方があるのよ」


 彼女はふっと息を吐いた。


「剣がすべてじゃないの」

「こんな紙だけで、信じる人がいるんでしょうか」


 分かりやすい告発文だ。リザが目を伏せると、彼女はぐっと伸びをした。


「嘘か真実か、そんなものはどうでもいいのよ」


 腕をぐーっと伸ばすと、身体のラインがあらわになった。くっきりとした鎖骨、豊かな胸元、細い身体。彼女は見せつけるように身体を伸ばした。見惚れてしまうほどのそれを、今見ているのはリザだけだ。


「この私が言った。みんなが知った。それだけでいいの」

「でも、オリヴィエさんも見ますよね。そうしたらまた狙われませんか?」

「できるはずがないわ」


 サロメは全身の力を抜いた。


「……だって、もし明日にでも私が行方不明になってみなさい。紙に書かれたことが、たとえ嘘だったとしても真実になるんだから!」


 サロメは大きく両手を広げた。髪がなびく。長く伸びた前髪が流れて小さな額があらわになった。彼女は「あはは」と機嫌よく笑った。


「あの男は詰みよ。もう私たちを殺せなければ、ただの噂話を否定もできない。しばらくはろくに動けもしないでしょうね。出来ることといいばこの光景を見ていることくらい。そうだわ、これをネタにして後で恐喝しにいこうかしら! それもすごくいい考えよね」

「やっと終わりですか」

「ええ、終わりよ。この勝負はもうおしまい」


 サロメは振り向いた。


「ねえ、リザ。列車で私に聞いたわよね。私が幸せかって」

「はい」

「そんなの決まっているじゃない。幸せよ」


 彼女は笑う。


 高らかに、何もかもを振り切るように声を上げて笑った。


「私は欲しいものは全部手に入れる。たてつく人間は全員潰す。奪われたものは奪い返す。自由に生きていく! これが――これが幸せじゃないって言うなら何だって言うのよ!」


 地平線の向こうでいまだ沈まない夕日が輝いていた。街を燃やし尽くしそうなほど眩しくて、目の奥がかすかに痛んだ。


 なのに目が離せない。いつまでも見ていたいと思うほど鮮やかだったのだ。 


「……あなたはどうなの、リザ」


 彼女は問いかけた。リザは唇に笑みを浮かべる。


「それこそ、決まっていますよ」


 愚問です、と付け加えるとサロメはわざとらしく首を動かした。リザは顔を上げた。


「誰よりも憧れたあなたを、この私が望んで救ったんです。だからこそ今もあなたの隣に立っていられる。考えただけでも身体がぞわぞわします」


 彼女が教えてくれた感情をさらけ出して、リザはめいいっぱい笑ってみせた。


「最高の日々です」


 ドゥミモンデーヌとその使用人――きっと遠くない日に消えてしまう幸せだ。


 たくさんのものを燃やしながら生きていく二人に、穏やかな未来などあるはずがない。だがそれでもいい、とリザは迷いなく肯定した。それなら必死にもがくだけだ。


 一秒でも、一生でも、永遠でも。


「だから、最高の気分なんです」


 リザは夕空に腕を広げた。

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