第22話 来訪

 サロンから帰ってきて数日が経った。


 激動の日々は終わったが、何かが大きく変わったわけではなかった。


 届く恋文の数は増えたので郵便受けはいっぱいだが、サロメは目を通しただけで、ほとんどを机の隅に放ってしまう。時たま目を細めているときもあるが、返事を書くことはほとんどなかった。手紙の処理はリザの仕事だった。


 今も公爵から譲られた屋敷に住んでいるサロメだが、ようやく慣れてきたのか夜もよく眠れるようになっていた。家具を買い足し、今までの部屋に近づけたのが功を為したらしい。


 それでも眠れない日は今でもあって、サロメはきまって紅茶が飲みたいと言い出すのだ。


「こんな真夜中に一階まで行きたくないんですけど」

「主人が困っているのよ。走っていきなさいよ」

「分かりましたけど、一杯飲んだらすぐに寝てくださいね。私も早く寝たいので……」


 リザはあくびを堪えながら言った。サロメが急かすように手をひらひらと振るので、リザはしぶしぶ部屋を出た。


 サロメの寝室は二階だ。家の真ん中にある大階段を下りて、一階の厨房へと向かう。手すりを持ちながらリザはゆっくりと降りていった。埃が指先に着いたので拭う。物音一つしない屋敷を進むことにも、やっと慣れてきたところだ。ランプがちかちかと点滅して目に眩しかった。


 リザは階段を降りきったところで足を止めた。手すりに取り付けらているのはライオンの彫刻だ。リザは数秒間見つめた。かつて公爵がそうしていたように。足元に視線を遣って、それから我に返ったかのようにまた歩き出した。


 サロメの前では言葉にはしないが、名前だけを残して去ってしまった公爵のことを、ふとした時に思い出してしまうのだ。


「……公爵、今はどこにいるんだろう」


 無意識だったはずの声が広間に響き渡ったので、リザは誤魔化すように首を振った。


 高い天井を見上げる。


 公爵は不思議な人だった、と思う。


 彼は気弱そうで、口数も多い方ではなかった。華やかでもなかった。貴族らしいプライドの高さも感じさせず、植物のようにたたずんでいるだけだった。なのに彼の目はどこか遠くを見通しているようだったのだ。常に何かを考え続けているような――そう意味ではサロメに似ていただろう。


「あの人は、公爵を聡明だって言っていたけれど……」


 厨房までやって来たリザは、棚から鍋やポット、茶葉を取りだした。手早く湯を沸かしながら他のものも準備してしまった。ポットに湯を注いだあとは、隣にひっくり返した砂時計を置く。椅子を引いて腰かけた。机の上に両腕を乗せて、砂が一筋落ちていくのをじっと見つめた。


 部屋は静かだ。リザはゆっくりと息を吸いこんで吐き出した。このまま目を閉じてしまったら眠ってしまいそうで、瞼をぴくりと動かした。


「すごく、眠い」


 目を開けていることがつらくなってくる。眠れない、眠れない、と寂しそうな顔で言うサロメが今でも信じられない。目をつむれば、どこかへ攫われるかのように眠りへ落ちていくのに。


 砂が落ちきったころにリザは顔を上げた。虚空を見つめながら瞬きを繰り返してから、仕方がないと立ち上がった。二階でサロメが待っている。早く戻らなければ、彼女は拗ねたように唇を曲げてしまうのだ。


 リザはポットを片手に厨房を出た。


 一歩踏み出すたびにコツコツと足音が反響した。ポットの中で熱い紅茶が波打った。


 広間に出れば、あとは階段を上って奥の寝室へ戻るだけである。ポットに気を付けながら歩いたとしても時間はかからないだろう。リザが眠りにつけるまでもうすぐだ。


 だというのにリザが立ち止まったのは、玄関の方から物音がしたからだった。


「……ノック?」


 それはリズムカルに、扉を叩く音だった。


 リザは半分振り返った態勢のまま固まっていた。遅れて、眉をしかめた。いつものリザならポットを持ったまま小走りで向かっただろうが、今はそういう気持ちにはなれない。


 月が真上に浮かんでいるような、真夜中なのだ。


 普通の客はこんな時間にやって来ない。


「誰……?」


 リザはそろりと足を前に出した。音を立てないようにしながら扉へと近づいていく。気配を殺しながらたどり着いたリザは、扉の覗き穴を片目で覗きこんだ。もし少しでも怪しければ、石の彫刻を探しに戻らなければならないからだ。


 しかしリザが重労働に駆り出されることはなかった。覗き穴の向こうにいたのは見知った人間だったのだ。


「オリヴィエさん!」


 リザは前髪を手櫛で整えてから、扉のノブを回した。扉を半分まで押し開けるとオリヴィエがにこりと笑った。


「こんばんは。夜分遅くに申し訳ありません」


 真夜中だと言うのに軍服をきっちり着こなした彼は、以前と何一つ変わっていなかった。両手を横にそろえてピンと背を伸ばしている。表情は柔らかい。リザはほっと息を吐きながらも首を傾げた。オリヴィエと会うのはこの前のサロン以来だ。


「いえ。その、どうされたんですか?」

「サロメ・アントワーヌ――いえ、バラノフ夫人にお会いしたいんです。火急の用がありまして。取り次いでいただけませんか?」


 オリヴィエはほんの少しだけ背を曲げると、リザの目を覗きこんだ。視線が交わる。瞬きは少ない。優しげだったが、何かを探るかのようにじっと見つめてくるから、リザは身じろぎしたくなってしまった。


その目には見覚えがある――サロメの目だ。


そしてそういう時の彼女は大抵、虎視眈々と何かを企んでいるのだ。


「……すみません、サロメ様はもうお休みになっているので、明日に出直していだけますか?」


 リザはポットの取っ手をぎゅっと握りしめた。不自然ではなかったはずだ。むしろこのような時間にやって来たオリヴィエの方がおかしいのであって、リザはいたって普通の反応をしただけだ。


 リザは唇の端を持ち上げる。精一杯の愛想笑いだった。


 ひとまず帰らせて、後でサロメに相談すればいいだろうと考えていた。だがオリヴィエは困ったように笑うと扉に手をかけた。


「……良い香りがしますね」


 オリヴィエはゆるく首を傾けた。


「そのポット、中身は紅茶ですか? リザさんが入れたんですよね」

「ええ、まあ……」

「いいですねえ。この頃夜は冷えますし。眠る前に飲むと身体が温まりますし」


 のらりくらり、そんな言葉がぴったりだった。オリヴィエはゆっくりと扉を押し開けた。ギギッと金具が音を上げて、扉は開き始める。


 距離が詰められる。リザは無意識のうちに後ずさっていた。しかし彼は追うように足を踏み出す。靴の爪先が玄関へと侵入してきた。


「リザさんは紅茶がお好きなんですか?」

「少しは……」

「茶葉はどこのものがお好みですか? 今度、手土産にしたいので参考にさせてください」

「えっと、それは……特にこだわりは……」


 気が付けば、オリヴィエは扉から身体を滑りこませていた。彼が後ろ手に扉を閉めたので、髪を揺らしていた夜風が途絶えた。


「あの……?」


 リザは口元を強張らせて、絞りだすように尋ねた。


 オリヴィエはとっくに玄関を抜けていた。すぐ目の前にオリヴィエがいた。背の高い彼に見降ろされると全身に影が落ちる。リザは見上げることができなくて、視線を落とした。


 オリヴィエは曖昧に微笑むだけで、返事らしい返事をしなかった。彼がだんまりを決め込むだけでとたんに広間は沈黙を取り戻した。遠くの壁時計だけが規則正しく音を立て続けている。リザはびくりと身体を震わせてしまった。


 静けさに堪えきれなくなったリザは、ついに顔を上げた。


「オリヴィエさん、どうして何も言わな――」


 しかし。リザが最後まで言い切ることはなかった。


「――え、あ」


 一瞬だった。


 オリヴィエは踏みこむと、目にも止まらない速さでリザの背後に回った。振り返るのも間に合わない。オリヴィエは背後を取ると、リザの口元をきつく押さえ込んだのだ。

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