第21話 永遠


 耳に届いたのは控えめなピアノの音だった。我に返ったリザは反射的に左右を見回した。


「サロメ様……」


 彼女の名前を呟きながら、リザはふらりと足を踏みだす。


 一人、二人と立ち去っていった。彼女らを取り囲んでいた人々は、気が付けば散り散りになっていた。サロメの姿もすでになく、中央にはダンスを楽しむ人たちがいるだけだ。


音楽に乗った軽やかなステップに、華麗なターン。そんな彼らを、サロメは壁際で眺めていた。


「どうして壁の花になんかなっているんですか?」

「……リザ」


 ドレスの裾がふわりと揺れる。サロメはゆっくりと首を回した。それさえもひどく億劫そうで、先ほどまで見せていた笑みはない。どこかぼんやりとした顔だった。


「ダンスに誘われないなんて、ドゥミモンデーヌの名折れじゃないんですか?」


 リザはわざとらしく首をすくめた。不躾でしかない言葉だったが、彼女も今さら怒りはしない。「酷いことを言うわね」と仕方がなさそうに笑い、小さく手招きした。


 リザは彼女の隣に並んだ。視線だけでサロメを伺う。彼女は静かに呼吸しているだけだった。


 あの爛々としていた目は見る影もなく、熱は消え失せていた。むしろ目を離したら消えてしまいそうで――リザは一歩分距離を詰めた。サロメはちらりと視線を遣っただけで、特に何も言わなかった。沈黙を破ろうと、リザは広間の中央を見たまま話しかける。


「さすがにあの後じゃ、誰も誘いには来ませんか」


 リザは小声で尋ねる。サロメは苦笑いした。


「意気地なしばっかりね」

「それでもサロメ様から声をかければ、断る人なんていないでしょう」

「気分じゃないから今日はいいわ」


 会話はあっさりと途切れてしまう。リザは指を絡めた。


 気まずそうなリザの顔を見たサロメは、今さらのようにふっと笑みを零した。やっと彼女らしい顔が見られたと思って、リザは頬の緊張を和らげた。またどちらともなく視線を前にやって口を閉ざした。ピアノの演奏は止まらない。時間はゆったりと流れている。


「……でも、ああ、いい気分だわ。久しぶりに何も考えずにいられる」


 サロメはシャンデリアの明かりを見つめていた。


 一曲が終わっても、サロメに声をかけようとする人はいなかった。いつものサロメだったらむすっと唇を曲げているはずだが、今日の彼女はどこか嬉しそうだ。


「他人の愛を受け入れるのってとても疲れることよ。愛するより、愛される方が疲れる。……私、あなたがいるだけでもう十分だわ。隣に立つのはあなただけでいい」

「え?」


 リザが素っ頓狂な声で聞き返したとき、靴音が響いた。二人は同時に身体をひねる。にこりと笑みを浮かべながら歩いてきたのは、軍服をまとった男性だ。


「こんばんは。そちらの女性は、あなたのお付きですか?」


 軍服には似合わない朗らかな笑みだった。声も落ち着いていて、周囲の人々とはどこか違った印象を与える。どこかで見たことがあるような、とリザは首をひねったが、寸前のところまでしか出てこなかった。どこかで会ったことがあるような気がするのに思いだせない。


 サロメは見覚えもなかったらしく、ほんの少し目元を動かした。


「あなたは?」

「俺はオリヴィエ・アランと申します。以前そちらの女性に助けていただいたことがあるので、そのお礼を申し上げたいと思いまして」


 オリヴィエと名乗った男は、胸に手を当てて一礼する。それからリザの方へ愛想よく笑ってみせた。


「……あの時の!」


 ピンときて、リザは思わず声をあげた。


「道に迷っていた軍人さん!」

「その節はどうも。あれからちゃんとたどり着けましたよ」


 オリヴィエは優しく目を細めた。


 彼は三カ月ほど前、まだリザたちが元のアパルトマンに住んでいたころ、道の途中でぶつかった男だ。リザは真後ろに倒れそうになったが、彼が助けてくれたのだった。それから道を聞かれて答えた覚えがある。


 オリヴィエは柔らかい表情で頷いた。


「こんなところで再会できるとは思いませんでした。バラノフ公爵夫人のお付きだったとは」

「あの時はぶつかってしまってすみません。ぼうっとしていて……」

「いえいえ、こちらこそ避けられなくてすみませんでした。お怪我がなくて何よりです」


 もう一言ずつ言葉を交わしあってから、オリヴィエは身体の向きを変えた。サロメに焦点を合わせると、人のよさそうな笑みを浮かべた。


「ここで再会したのも何かの縁。バラノフ公爵夫人、よろしければ一曲踊っていただいても?」


 突然の誘いにサロメは両眉を上げた。すぐには返事をしない。


 サロメに投げかけられる視線は今も奇異と敬遠だというのに、オリヴィエは気にする様子もなくにこにことしているだけだ。彼の能天気さにやられてしまったのか、サロメはくっと笑い声を漏らした。


「ええ、もちろん。この私が断るはずがないわ。リザのついでというのは癪に障るけれどね」

「それは失礼。思わぬ再会に驚いてしまったもので」


 頬をかきながら、オリヴィエはのらりくらりかわした。苦笑いしているが気分を害したわけではなさそうだ。どうやら嫌味も皮肉も彼には通じないらしかった。


 サロメは首を傾けると、右手を差し出した。


「エスコートしてくださる?」


 あかぎれ一つない、薄い手のひらが光の中に伸ばされた。オリヴィエは優しく手を取った。


「どこへなりとも」

「連れ去っちゃ嫌よ」

「それは困りましたね」


 囁き声で笑いながら、二人は広間の中央へと歩きだした。人にまぎれたはずなのにサロメの青いドレスだけがやけに目に焼き付いていた。首元までレースで覆われたデザインは、肌が隠れているはずなのにいっそ妖艶ですらあった。白いうなじに落ちた髪が揺れた。


 手を引かれたサロメが中央へとたどり着いたころ、ピアノの音が止んだ。


 数秒の静寂が訪れる。


 サロメはドレスの裾を軽くつまんで、たおやかに礼をした。オリヴィエもまた恭しく応えた。二人はどちらからともなく寄り添って、お互いの身体に腕を回した。


「……綺麗」


 ぽーん、と一音だけが響いた。指を慣らすためだけに奏でられた音は、すぐに新しい音と絡み合って曲へと変わる。オリヴィエが一歩を踏み出して、サロメがつられて足を引いた。


 二人はごく自然な動きで、まるで息をするかのように踊った。


 テンポを完璧に保ちながら、無駄のない動きで全身を動かしている。しなやかに背を倒すサロメを支えるようにオリヴィエが身体を近づける。ずいぶん上背のある彼だが、流れるようなステップでそれを感じさせない。


 くるりとターンした。サロメのドレスの裾が浮き上がって、彼女のかかとがわずかに上がったのが見えた。ヒールがカツンと床を叩いたのが分かる。


 あは、とサロメが笑ったような気がした。


 その瞬間、リザの背中にぞくりとした何かが走った。


「破滅するなんて、嘘だ」


 気付けばリザは口角を上げていた。冷や汗が頬を伝っていった。


 リザの想いは確信へと変わっていく。


 あのサロメが失敗するはずがないのだ。彼女は立ちはだかるものすべてを踏み潰し、前へ前へと歩き続けているような人間だ。誰に何を言われても止まることはないし、曲げることもない。自分が何を為すべきか分かっているからだ。


 ――サロメが零落する日なんて、きっと永遠に来ない。


 彼女はいつまでもあの場所で笑い続けてる。絶対に。


 そう思えてしまうくらい、今夜の彼女は誰よりも晴やかに、そして美しく微笑んでいたのだ。

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