第17話 破滅
かくして公爵の恋人となったサロメは、公爵の屋敷に住むこととなった。サロメの使用人であるリザも迎え入れられる。二人はまともな生活を確保したのだ。
リザはほっと胸をなでおろした。ひとまず第一段階は乗り越えたのだ。
安心しきっているリザだったが、サロメと言えばは思いのほか冷静だった。彼女は窓のすぐそばに置いかれた肘掛椅子に深々と腰かけている。眉間にはわずかに皺が寄っていた。
「案外時間をかけてしまったわ。ここまで丸三カ月だなんて、私の名が廃るわね」
「でも無事に恋人になれましたね。問題は結婚できるかですけど……」
「できるわ。それも今月中に片が付く」
サロメは片肘をついた。しかし表情は明るくなかった。
もし彼女の言葉が本当なら、計画は狂うことなく進む。サロメは結婚とともに爵位を得るだろう。だと言うのにサロメはどこか不満げだ。リザは彼女のすぐそばに両膝をついた。
「だったら、何が駄目なんですか」
リザは彼女を見上げた。逆光になったサロメは瞼をぴくりと動かした。
「……あなたなら分かるはずでしょう? この部屋、どう思うの?」
「部屋?」
リザは膝をついたまま、部屋中をぐるりと見渡した。
サロメに与えられたのは二階のとある一室だった。柔らかな日差しの差し込む部屋で、窓からは木々の生い茂る中庭が見えていた。部屋の広さも十分で、高い天井でより広々と感じる。この部屋ならば駆けまわることさえできるはずだ。リザはきょとんとしたまま返した。
「昨日までの部屋を思えばずいぶん躍進したな、と」
「あなた、部屋を広さでしか判断していないの?」
サロメからの返答は棘だらけだった。
「調度品! サイモンが買ってくれたアパルトマンと比べてみて!」
与えられたヒントを元に、リザはもう一度部屋を見回した。口を閉ざして視線だけを巡らせる。そして気が付いた。言われてみればこの部屋はこざっぱりとしていて、閑静な印象だ。絵画がなければ花瓶もろうそく立ても、洒落た置物一つもない。
貴族の美意識がエレガンスであることはリザでもよく分かっていた。エレガンスとは華やかさから生み出される美しさであり、派手で優美でなければならないのだ。だというのにこの部屋には華やかさはまるでなかった。
サロメは目を伏せた。
「貴族がエレガンスであることはほとんど義務のようなもの。それができていないということは――」
最後まで言い切らなくとも分かる。リザは顔を上げる。
「お金がない?」
サロメは神妙に頷いた。
夕食の時間には、サロメの予想は確信へと変わっていた。
花も飾られていない食堂で、公爵とサロメは静かに食事をしていた。閑散とした広間に、カトラリーのたてる音だけがやけに響いているようだった。
サロメは笑みこそたたえているが、その瞳は探るように細められている。彼女の視線に気付いているのかいないのか、公爵はぽつりぽつりと言葉を発するだけだった。
二人の食事中、用のないリザは食堂を出た。この屋敷のことは大抵公爵の使用人が終わらせてしまうため、特にすることがないのだ。今までより自由な時間が増えたのは良いことだ。
広い屋敷で一人きりになった。人の気配はしない。リザは薄暗い廊下を歩きながら、少しずつ考えを巡らせ始めた。
「爵位は手に入る。でも公爵はお金を持っていない……」
コツコツと足音が大きく響いている。
「そういえば使用人も少ない……。こんなに広いお屋敷なら倍はいてもいいはずなのに。使用人にもロシア人が多いのは、故郷の人たちを連れてきたってこと? フランス語もたどたどしい人が多かった」
リザの歩みは次第に遅くなってくる。
「パリで新しく雇う余裕がないから? それとも、パリの人じゃ何か都合が悪いから……?」
ぶつぶつと呟く。
「……そもそも、お金がないのにいろんな国を旅行しながら劇場を巡るなんて、変だ」
ついにリザは両足を揃えて立ち止まった。
「何かおかしい」
ひとり言が反響する。リザはゆっくりと足元に視線を移した。たどり着いた答えにわずかに鼓動が早まって、呼吸が止まる。何かが足元からせり上がってくるような感覚に身震いした。
月明りに照らされて、リザの影が長く伸びている。
サロメに着いて行くだけでここまで来てしまった。使用人として主人に付き従うことは当然だからだ。それでも今回は駄目だと直感が叫んでいる。
「――だからサロメ様、公爵からは手を引くべきだと思います」
真夜中、リザはしどろもどろになりながらも、自分の考えをすべて伝えた。
すでに寝巻に着替えているサロメは背もたれに体重をかけた。ギシっと木の軋む音がした。サロメは遮ることなく最後まで黙って聞いていた。リザが結論を口にしてからも、彼女はしばらくの間何も言わずにいた。それだけリザの言葉について真剣に考えているようだった。
「それがどうしたというのよ」
しかしサロメから返ってきたのはいつも通りの言葉だ。
サロメはゆっくりと瞬きをしてリザを真正面に見据えていた。彼女はいつになく重々しい声で続きを口にした。
「私だってさすがに予想外だったわよ、これは。半分失敗だったと言ってもいい。でも、だからと言って、今更引き返せないのよ」
「どうして……」
「ここを出れば、私たち住む場所もないわ」
リザは「あ」と声を漏らした。
なけなしの財産はほぼすべて使い切り、なのに公爵からは高価なプレゼントがない。ここにいる限り問題はないが、自立するための金目のものが手元にないのだ。
リザは肩を力ませた。これでは八方ふさがりだ。そう感じているのはサロメは同じようで、彼女は唇を曲げた。
「第一、公爵に財産がなければ目的すら達成できないわ。こうなったらせめて、目的だけでも遂げなくちゃ割に合わないわよ」
サロメは指先に髪をまきつけた。
「私はこの賭けからは下りないわ。……財産がないなら搾り取るまでよ」
リザはぴくりと身体を動かした。
「それって、どういう」
「有り金をすべて巻き上げるの。公爵を破産させてでも私はすべて手に入れるわよ」
サロメは両手をぐっと握りしめた。
破産。その言葉にリザは首を傾けた。
「冗談ですよね……?」
リザは頬を強張らせたまま、かろうじて笑みを張り付けた。
「破産って。さすがにそれは」
「私の目が、冗談を言っているように見えるの?」
そう言ったサロメは瞬きもせずにリザを見つめていた。彼女の灰色の瞳はリザだけを映していた。思わず目を逸らそうとしてしまう。だが負けじと全身を力ませて、彼女を見つめ返した。
「公爵は私たちの都合に巻き込まれただけです。なのに破産させてでもって、そんなのはあんまりです。……誠実さがこれっぽっちもないじゃないですか」
「だって私、誠実な女ではないんだもの」
「それでも許されることと、許されないことがあります。きっと」
リザはぎゅっと唇を結んだ。閉じた手のひらにじわりと汗がにじむのが分かった。リザはせわしなく指先を動かしていた。だが退かない。ここで退くようでは今までの自分と同じだ。
わずかな間の沈黙でさえ広い部屋では痛々しい。二人は唇を閉ざしたままだ。先に口を開いたのはサロメだった。
「……何度でも言うけれど、誠実な女はいい妻にはなれても、いい愛人にはなれないの」
サロメは低く落ち着いた声で呟いた。
「そして私はドゥミモンデーヌだから、いい愛人でいなければならないわ」
サロメはわずかに目を伏せ、それから数秒目を閉じてまた前を見た。そしてサロメは自分に言い聞かせるかのように、一音ずつはっきりと口にした。
「ドゥミモンデーヌの仕事はたった一つ。男を破滅させることよ」
彼女の瞳は鮮やかなまでに輝いていた。サロメの赤く彩られた唇が動く。
「みんな恋をして、狂いたいの。誰だって頭がおかしくなってしまうくらい誰かを好きになりたいの。それって本当はとても幸せなことだから。でも決して口には出せない。言ってはいけない。みんな明日も明後日も生きていかなくちゃいけないんだもの。……けれど私は、私たちだけはそんな馬鹿げた願いを叶えられる女よ」
「そんなはず、ありません。破滅したいなんて思う人はいません」
「嘘よ」
短く遮られる。サロメは薄く笑った。
「狂って、落ちていくのってとても幸せよ。あなたはそれを知らないだけ」
「……恋や愛をくだらない熱情だって言い切ったあなたが言うんですか」
「ええ、そうよ。破滅は時に快楽に変わるのよ。だから私はこんな危ない橋だって渡るし、勝ち目がない賭けにでものれるの」
こんな人は今まで見たことがない。リザの背中を冷や汗が伝っていった。かろうじて表情だけは殺しているが、本当は今すぐにでも彼女の肩を揺さぶってやりたい気分だった。
自分の感性では測れない人を目の前にすることは、怖くて、気味が悪い。
窓の外から差し込んでいた月明りが途絶えた。
リザは抑揚のない声で尋ねた。声は少しだけ震えていた。
「正気ですか?」
あはっ、と彼女は笑った。
「正気なわけがないでしょう?」
サロメの唇は三日月を描いた。
「いい? ドゥミモンデーヌは狂っていなくちゃいけないの。破滅を恐れては駄目よ。だって私たちは、いつか破滅するために生きているんだから。行く先はみんな地獄なの!」
サロメはふふっと笑い声を零した。
目の前の女を傲慢で横暴だと思ったことは数えきれない。だが、彼女を心底恐ろしいと思ったのは今この時が初めてだった。
身がすくみそうになるなかで、リザは両足を踏ん張った。
「……私は地獄へ行くつもりはありません」
「だったらこの私を救ってみせなさい。それがあなたを救うことに繋がるのだから」
リザは首を曲げた。手首をゆるく掴んで、自分がここに立っていることを確かめた。止まっていた息を恐る恐る吐きだす。そして目を開いた。
「望むところです」
無理やり口角を引き上げる。リザは乾ききった喉を湿らせた。
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