第16話 恋慕


 アパルトマンを出たのは数日後だった。サロメの指示で、追い出される前に新しい住居を見つけ、ドレスをいくつか移し、金目の物を換金して生活費を貯めておいた。


 おかげでしばらくの生活は成り立ちそうだ。すっかり狭くなってしまった部屋の中でリザは肩を回した。磨かれた窓はようやく輝きを取り戻した。


「サロメ様、何しているんですか?」

「計算をしていたの。今終わったわ」


 古びた机の上で書き物をしていたサロメは顔を上げた。目にかかった長い前髪を流すと、ペンを置いた。コトリと音が鳴る。


「この生活だけれど、もって二カ月ね。その間にかたをつけなければまずいわ」


 突然の宣告にリザは目を丸くした。


「二カ月!? あれだけのお金があってそんなはずは……っ」


 リザはサロメの机へと近づくと、ひったくるように紙を掴んだ。書かれた文字を見るが、しかし教養のないリザは計算が不得意だった。案の定よく分からなかったので、そっと紙を机の上に戻す。


 だが細かな計算は分からないにしろ金銭感覚は身についている。あれだけの額があれば一年は生活できるはずだ。


「サロメ様、計算ってすごく難しいんですよ? 分かってます?」

「私を馬鹿にしているのかしら!?」


 サロメはふんっとそっぽを向いた。隙間風に赤毛の先がかすかに揺れていた。


 調度品のなくなった狭い部屋の中でも、サロメはきちんとドレスを身にまとい、丁寧に化粧を施していた。彼女の美貌は泥の中でも損なわれることはないのだろう、とリザはぼんやりと思う。彼女さえいればここが美しい場所のように錯覚してしまうのだ。


 リザは腕まくりしていた袖を戻した。ベッドのそばから椅子を引きずってくると、サロメのすぐそばで腰かけた。


「それで、一体どんな計算をしたんですか」

「やっぱり私を馬鹿にしているでしょ」


 サロメは口角を下げたが、紙を指でつまんだ。


「劇場のチケット代、ドレス代、装飾品代、カフェでの食費、あと旅費――もろもろ含めるとこうなるわね」

「待ってください、半分以上聞き捨てならないことがあったんですけど」

「半分以上も?」

「というか、チケット代以外全部いらないと思います!」


 リザは片手を高々と上げて主張した。


 リザの頭の中はこの非常事態をいかに乗り切るかでいっぱいだ。食費も削れるところは削っていこうと決意したところなのに、努力も水の泡になる。リザは猛然と反対した。


「大体、旅費ってなんですか!? こんな時にどこへ旅行をしようと!?」

「違うわよ。公爵は各国を旅行しながら劇場を巡るから、それを追いかけまわすの」

「ぐ……っ。だったらカフェの食費は削りましょう!」

「出会いの場は多いに越したことはないじゃない」

「な、ならドレス代は? それこそ今だって三着あるじゃないですか!」

「あなたねえ」


 サロメはふーっとため息を吐いた。そして目を吊り上げた。


「毎回同じドレスを身にまとっているような女が魅力的なわけがないでしょう。私はドゥミモンデーヌなの。たとえ借金をしてでも綺麗でいなくちゃいけないのよ。だからこそみんな私に惹かれるの。わかる?」


 サロメはゆるく腕を組んだ。まるで聞き分けのない子どもに言い聞かせるかのような口調だ。彼女が言わんとしていることは分かるのでリザは口をつぐんだ。


 しかし先の見えない生活には不安だらけだ。リザがわずかに身体を縮こまらせると、サロメは眉を下げた。


「大丈夫。私に篭絡できない男はいないわ」


 いたずらっぽい笑みで言い切る彼女に、つられて「はは……」と笑ってしまった。サロメが言うことには不可能がないように思えてきたのだ。


「ここまで来たからには掛け金の五倍……いっそ十倍は巻き上げてくださいね」

「言うようになったじゃない。この私に任せておきなさい」


 サロメは頬に手を添えると、ニヤリと笑った。


 ――そして彼女は約束通り、公爵を落としてみせたのだった。






 サロメが公爵に見初められるために取った行動は、思えば単純なものだった。


 まずサロメは着飾った。ギリギリの生活費を湯水のように使ってドレスを買い、装飾品を買い、化粧をし、髪を彩った。それがどれだけ常軌を逸した行動であったかは見るまでもない。古びたアパルトマンからは金が一瞬にして消えた。


 未来さえ賭けて美しさに磨きをかけたサロメは、劇場を訪れた。パリの劇場はもちろん、公爵が旅行をしたなら迷わず追いかけた。この三ヵ月で訪れた場所はイギリス、イタリア、オランダ、プロイセン―――この旅費が貯金の目減りに拍車をかけたと言えるだろう。


 そこまで金をかけて公爵を追いかけまわしたサロメだったが、したことと言えば、ただ公爵の傍に座っていることだけだ。


 ただ、傍に座っているだけ――。


 声をかけることもなく、サロメは執念深く繰り返した。一度、二度、三度、四度。


 ふと気づけば隣にサロメは座っていた。時々視線が交わるだけで、何か特別なことが起こったわけではない。手が触れたことすらない。ただ、隣を見れば美しい女がそこにいたのだ。


「……あなたのお名前を伺っても?」


 公爵が声をかけてきたのは、何度目の出会いだっただろうか。


 上演終わり、幕が下りて拍手が巻き起こっていた。

 

 気弱そうな彼の瞳の奥に宿っていたのは、好奇心と恋情だった。


 サロメは驚くこともなく微笑を浮かべると、薄明りの中で囁いた。


「今夜には公爵の恋人となる女ですわ」


 かき消されそうな甘い声に、公爵はわずかに身を乗り出していた。



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