第二話


 *


 目を覚ますと、僕はコンクリートの地面に横たわっていました。起き上がって、周りを見ると、どうやらビルの屋上にいるようです。柵から辺りを見渡すと、そこには見たこともない街並みが広がっていました。都会のように立ち並ぶビル、街路樹の木の葉は虹色に光っていましたが、そこからは不自然に赤色だけが抜け落ちていました。水銀のような液体が地面に水たまりを作っています。雨は降っていないのに建物も街路樹もアスファルトもしとどに濡れていて、湿った空気が立ち込めています。僕は錆びて崩れ落ちそうな螺旋階段を降りて通りに出てみました。


大都会とは言えど、人はかなりまばらでした。車に関しては走っているのをまだ一台も見ていない位です。壊れた信号機だけが無意味に点滅しています。彼らの様子を寄って見てみて、僕は思わず苦い顔をしてしまいました。目が正気ではありませんでした。獣のような、喜怒哀楽も無く、揺らぎも無い、確固とした目をしていました。彼らは僕を見つけてふっと目を細めると、口に緩やかな弧を描きました。そして僕に向かって歩みを進めて来ました。意味不明な言葉を発しながら。僕はとっさに逃げました。同じ言語を話しているはずなのに、全く意味が分からないのです。どこか隠れるところはないのでしょうか。

息を切らしながら、街頭の隣を走って横切ると、濃紫色の影が僕の周りをぐるりと回りました。耳からゆっくり這い出てきた触手は、興味を持っているかのように、通り過ぎる彼らの方へなびいていました。


丁度いい路地を見つけたので隠れました。息を潜め辺りを伺いながら進みました。異様な空気が漂っていました。耳をすませば、聞こえてくるささやき声。それは呪詛ではなく、暗くて優しいメロディー。路地裏では、室外機の横にうずくまり自分のほくろをむしゃむしゃ食べている人もいました。どうやらここは無法地帯のようです。ここにいる人はまずもって意思疎通が不可能でした。


路地裏という安全地帯に来て、一旦冷静になりました。よく考えるとここにいる人は前述の通り僕が求めている人たちであったので、僕は彼らに対してごく僅かな精神的な繋がりを感じていました。しかし、さすがにここにいる人は狂いすぎていて、まだ理性を捨てきれない僕には遠い存在に思えました。


大通りをうろつく人を観察しながら、そろりそろりと路地裏を移動していたところ、咀嚼音が後ろから聞こえました。そっと振り返ると、人間が人間を食べていたのです。僕はそれを凝視してしまいました。静かな息遣いで、行われる野生のような光景。臨場感、その雰囲気を浴び、言葉を失いました。頭をガツンと殴られたような衝撃を受けました。勿論それはこんな場面に出くわすのが初めてだったから、というのもありますが、それだけではない気がします。しかし、まだ自分が何に対して衝撃を受けたのかが分かりません。

 

僕は音を立てず、その場から立ち去ることができました。一刻も早く、帰る方法を探さないと。


しばらく街を歩いていると、あることに気付きました。この辺りを歩いている人の表皮についてです。道行く人にはしばしば大きな怪我の跡だったり、大きい痣やほくろのような斑模様がありました。そしてどれも大抵その周りにペイントがされてありました。それはとても自虐的な入れ方をしていたのです。実のところどういう意図でそうなっているのかは分かりませんが、コンプレックスを自虐として捉え、攻撃性に変換して、生きているようでした。


辺りを物色していると、簡単に開くマンホールを見つけました。下水道に繋がっているようです。僕は金属の梯子を降りていきました。見たところここに人間はいないようで、下水道内は静寂に包まれていました。僅かな蛍光灯の明かりを頼りに、下水にくるぶしまで浸りながら歩いて行くと、一段上がった所になにやら屋台のようなものがありました。売り子のような人も一人立っていました。


「ヘイラッシャイ」

 その言葉を聞いて僕は驚きました。この街で初めて出会った言葉が通じる人間だったからです。

「コンペイトウ、持ってくカイ?」

お兄サンは売り物のコンペイトウを見せてくれました。あの、ここはどこですか、外の人は一体どうなってるんです、と訪ねてもお兄サンはまるで聞く耳を持たずにひたすら営業トークをしています。お兄サンの言われるがままに、星形のコンペイトウを手に摘んで蛍光灯にかざしてみると、言う通り確かに煌めいていました。お兄サンは屋台の裏からそそくさと黒い布の掛けられたゲージを取り出し、僕に見せてくれました。中にはびっしりと蛾が閉じ込められていました。コンペイトウにはこの蛾の鱗粉が混ぜ込まれているそうです。蛾の鱗粉って食べれるんですか? それとも食用の……?と聞いても、お兄さんはニコリと笑って何も答えませんでした。

「お客サンは甘い物は好きカイ?」

そう言ってお兄サンはひと瓶金平糖をくれました。甘い物は好きですが、健康に悪いのと、見栄を張っていて最近はあまり食べていませんでした。怪しみながらも、とても断れない雰囲気で、僕は一粒口に含みました。最悪です。断れば良かった。……結果から言うとほんのり甘い味がしました。おいしいです。そう言うとお兄サンは心なしか安堵したようでした。

「コンペイトウは嫌なコトを忘れさせてくれるんダ」

ありがとうございます。ええと、お釣りを渡さないと。

「お代は良いヨ。これはサービスネ。ところで……」

お兄サンは目を細めながら言った。

「お客サン、もしかしてここに来たことないね?」

……僕は頷き、ここは何処なのかと訪ねました。


お兄サンが言うには、実はこの街は座標的には海の中に存在しているとのことでした。水中にいる感覚は無いのですが。ここには社会から排除された人間が多くいること。最近はUFOと遭遇した人もここに来ていること。UFOは、こう……なんというか陰鬱な感じの人を襲う傾向があるということも。


僕はこの辺りで一番近い病院はどこかと訪ねました。

「どうしてカイ?」

僕が僕の耳に触れると、触手は簡単に外に出てきて、空中でゆらゆら揺れました。

「耳から、ヒモが出てるネ。それならイイ所があるヨ。✕✕耳鼻科サ」

病院はここと現世のはざまの近くに位置していて、座標的には海岸線の近くにあり、その近くまで下水道を通って行けるらしいのです。とりあえず病院を目指すことに決めました。僕はお兄サンに改めてお礼を良い、売店を去ろうとしました。

「気をつけてネ」


僕は下水道を歩きながら考えていました。本当にこの耳は治してもらえるのか。治るものなのか。嫌な予感もしました。死んだら一体どうなってしまうのでしょうか。何も満たされることのないまま死んでいくのでしょうか? しかし今日死ぬとしても今更どうすれば良いのか、僕には分かりませんでした。

もしも治療できたら帰ることになるだろうとも思いました。本当にそれで良いのでしょうか。このまま帰ることも拒まれました。

ここにいる人は話が通じないし危ないけれど、ちゃんと真正面から僕の目を見てくれました。存在が認められたという感覚は今まで感じたことのないものでした。底の世界。今までに無い共感と精神的な繋がりを感じながら、僕はそれを、まだどこか一歩引いたところから観察していました。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る