交わす言葉

「…ル……さん……エルナさん!」

 引き戻された意識に、目の前が白く塗りたくられる。チカチカする目が太陽に慣れると、心配そうに覗き込む碧眼があった。

「エルナさん、大丈夫?」

 それはまるで宝石みたいで、うっかり吸い込まれるように見つめてしまっていると、視界の左端から真っ白な少女の細い腕が伸びてきて額を覆う。

 その冷たい感触にびっくりして、エルナはようやく思考を取り戻した。

「あっ…ご、ごめんなさい…アーベルさま…」

 彼女がそう謝ると、エメラルドの瞳が薄く細められて、それが彼の極上の微笑みだと気付く。

「ニナさんも…ありがとう」

 優しい笑顔から視線を左に移せば、少し恥ずかしそうに手を引っ込める少女もそこに居た。薄い水色の瞳でエルナの様子を窺う。大丈夫?とその表情が語っている。

「大丈夫よ、少しうたた寝しただけ」

 エルナが笑うとつられるようにはにかむ少女は、決して言葉は発さない。生まれつき話すことが出来ないらしいのだが、それでもエルナを心配している様子が全身から受け取れてそれだけで素直なやさしい少女だと判る。

「バルコニーの手すりだよりのうたた寝は、危ないですね?」

 アーベルが少しからかったように言う。

「あら、もうこんな時間だわ」

 それをわざと遮るように、部屋の時計を振り返りながらエルナは白々しくつぶやいた。不自然だったかしらとちらりとアーベルを盗み見るが、しかし何もなかったかのように彼も時計を確認していた。

「そういえばもう日が暮れる時間だ」

「いけない、そろそろおいとまさせていただきますね、肌寒くなってきましたし」

「そうだね、なら玄関までお見送りしよう。……おいで、ニナ」

 そう言ってアーベルは、そっとバルコニーの端に佇んでいた少女に手を伸ばした。

 ニナは弾かれたように近寄って、嬉しそうにその手を取る。

 まるで恋人のような振る舞いを目にしながら、エルナは二人に聞こえない程度の溜息を吐いた。

 …まったく、婚約者は私の方だというのに。

 エルナの目の前で、二人は手を繋いだまま応接室に戻っていく。ゆっくり立ち上がり、その後ろを少し離れてついていくエルナ。

 こんなのはいつものことだった。

 三人がホールロビーに辿り着くと、エルナは振り返ることなくドアを開けた。すでに迎えに馳せていた我が家の馬車を確認すると、そのまま振り返ることなく乗り込む。

 そっと窓から玄関の方を覗くとニナが必死に馬車に向かって手を振っていたが、振らない方の手はアーベルと繋がっていて呆れて物も言えない気持ちになる。

 それもいつものことだった。

「お嬢様、お気を落とさずに」

 何に気を遣ったのか侍女のノーラに慰めのようにそう言われたけれど、気を落とすなんてとんでもない。だってあの2人はあれが普通なんだから。

 滑り出すように帰路へつく馬車の中、エルナは潜り込むように座席に体重を預けた。



 エルナが初めてアーベルに会ったのは、丁度3ヶ月前のとても暖かい日だった。

 それなりに裕福ではあったが、フライヘア(男爵)であるブリクセン家は、王族と婚姻に至れるような歴史も格式もあるような家柄ではない。しかしエルナの父親はある日、一体何をどうした訳か、デンマーク王家第三王子と娘の婚約をもぎとって来たのだ。

 あの日の衝撃は今でも鮮明に覚えている。

 一体王家にとってどんなメリットがあるのかも分からなかったが、あくまでも自分は政略的な生け贄だとエルナは理解し、即座に首肯した。

 初謁見のその日、すっかり王宮に向かうものだと思っていた彼女は、あれよあれよと船に乗せられ長旅を越え、王宮と真反対の都市エスビャウに到着した時にようやく違和感を覚えた。仮にも第三王子が、王都コペンハーゲンからこんなにも離れた都市に邸宅を構えているなんて。これは、訳ありだ、と。

 運よくブリクセン家の別荘がエスビャウにあったのも白羽の矢が当たった理由のひとつだったのだろうか。

 覚悟を決めて第三王子・アーベルの邸宅へ赴くと、しかしそこには既にニナの存在があったのだった。


「海岸に倒れてたんですって」

「海で溺れたんでしょう?」

「あら、入水だって聞いたわよ」

「ショックで記憶と声を失ったとか」

「いえ、声は生まれつきらしいわよ」

「アーベル様、なんだかご執心で」

「まぁ…あの美しさですものね」

 可憐な少女の情報は、案外すぐに手に入った。

 一言で言うならば不可思議な少女。

 メイドというものは何処の家でも噂好きでお喋り好きらしい。おかげで第三王子とその少女について、エルナが情報を集めるのはとても簡単だった。



「お嬢様、あとひと月ですね」

 十五分程馬車を走らせたあたりで、ノーラが感慨深げにそう漏らした。

「そうね…私が王子妃だなんて、変な話」

「お父様はさぞお喜びでしょうに」

「…まぁ、そうでしょうね」

 ノーラはアーベルの邸宅内には初謁見の日以来足を踏み入れていない。エルナが必要ないと付き添いを固辞しているからだ。あの邸宅の中の光景を知らないノーラに、エルナの気持ちは到底解らなかった。


 この小さな国で、この大きな世界で、数えきれないくらいのときめきと幸せが溢れているというのに、どうして私はその仲間に入れないのだろう。

 いくら嘆いても変わることのない運命。

 そう、変えられないなら、諦めるしかない。

 何度も何度も、そうやって自分に言い聞かせながら、この先も生きていくのだ。

 エルナは頭の中のもやもやを吐き出すように、今日何度目かも解らない溜め息を吐く。

「早く夜になればいいのに」

 そうしたら、夢を見れるのに。

 暮れ行く空を窓越しに見上げて、そっと小さく呟いた。





*****



 また、なのね。

 高速で廻り続ける視界が、白から黒に変わっていく。

 景色はいつのまにか鬱蒼とそびえる森で、エルナはその先の道を歩き出す。


 彼女は、これが夢だということを知っていた。

 結婚が決まってからというもの、何度見たか知れない夢だ。

 夜の月は冷たく光る。

 葉の影に自分の影も混ざる。

 そしていつもと同じように、景色の中にあの人が居た。


 胸を刺す小さな痛みはそれに近付く度に鮮明になって、無性にその場にうずくまりたくなる。

 だけど結局は触れてしまいたくて、エルナはその足を踏み出してしまうのだ。

 いつも夢の中で会えるその人は、エルナがやって来ると嬉しそうに微笑んでくれる。そして彼女の手をとって軽く口づけて。

 この鬱蒼とした森で夜通し行われるのは、静かなワルツだった。


「あなたは誰なの?」

「あなたこそ、誰ですか?」

 この会話も、何度交わしたか解らない。

 所詮夢物語だ。

 お互い、結局いつもはそれ以上の会話もすることなく、ひたすら踊り続けて目が覚める。

 しかし今日は、なんだか彼ともっと話をしたくなった。アーベルとニナの繋がれた手と、自分たちのそれをうっかり重ねてしまったからかもしれない。

「いつまでも『あなた』じゃ不便よね、名前を訊いてもいいかしら」

「……相手に名を訊ねるのでしたら、まずはご自身が名乗るべきなのではないですか?」

 エルナは思わず目を見張った。優しい彼ならば真摯に答えてくれるだろうと踏んでいたのだ。

 けれど、返ってきたのは柔らかな笑顔とうらはらの…棘のある言葉。

 いつもの笑顔から思い起こされていたのは、紳士的で友愛や慈愛に満ちた人物像だった。それだけに、今の切り返しの台詞は違和感を覚える。

「……あ…そうですよね、ごめんなさい」

 エルナは気を取り直してワルツの足を止めた。

「失礼いたしましたわ。わたくし、エルナ・コレット・ブリクセンと申します。もしよろしければ、あなたのお名前も教えていただけないかしら」

 父親によって小さい頃から叩き込まれた社交界の礼儀を披露する。ドレスの裾を少し摘まんで前屈み、囁くように言葉を発した。

 しかし、そうやって上目遣いで見上げたエルナに、彼は

「…40点」

 そう、笑顔で吐き捨てた。

 優しい微笑でそう言う彼に、エルナは何故だか唐突に既視感を覚える。

 誰かに似ている…いや、ここまで刺すような冷ややかな言葉尻ではないけれど、嫌味のような皮肉のような、そしてどこか人をからかうような……

「……アーベル…さま」

 その言葉に彼が眉を寄せたのに気付いて、エルナはしまったと思った。

「あっ…ご、ごめんなさい!…知人に、似てて…」

 うっかり名前を出してしまった。しかも、よりによって我が国の王子の名前を。

 エルナの住むこの小さな国は、宗教などの関係で海を挟んだ隣国とあまり関係が良くない。目の前の人物が単に夢の中の住人だったなら気にする必要はないのだが、もし万が一他国の人間だった場合、何か不都合が生じてしまうかもしれない。

 所詮夢であると判っているのに、男爵家として国を支えるべく教育されてきたエルナは、一瞬でそんな危惧を抱いた。

「わっ忘れて下さい!ごめんなさい…!」

 謝りながら、エルナは先程彼が眉を寄せたことを思い出し、思考を『誤魔化し』の方にスライドさせた。

「そうだワルツ、ワルツ踊りま…」

 自己紹介なんかより、ダンスに集中させよう。

 結論に至ったエルナが彼の顔をもう一度見上げると、しかしその表情が穏やかな笑顔に戻っていたことに驚いた。

「なんだ、あなたにもこんなに美麗な知人が居たのですね」

 そしてその発せられた言葉に驚きが二重に重なる。

「…は…?」

「俺ほどの見目麗しい人間は他にはいないと思っていましたよ。いや、世界は広いですね」

 …お、俺?何この人、何言って…

「あ、あなた…っ」

「おや、もしかして俺にそっくりなその方、あなたの想い人なんですか?」

 その笑顔は最早からかう態勢に完全に移行してしまっている。

 紳士的で友愛と慈愛に満ちた(と思っていた)男性は何処に行ったの?

 呆気に取られてその『美麗な』顔を見つめていると、

「ま、あなたの好きなその方よりは、美しい自信がありますけどね、俺」

 明らかに勘違いのままそう続けた。

 違う、別に想い人なんかじゃない。

 そして似てるのは顔じゃなくて性格だ。

 しかもその知人(アーベル)よりもあなたの方がタチが悪い!

 弁解と抗議が頭の中で膨大に渦を巻くけれど、混乱してしまって何と言い返すべきかが分からない。

 エルナが金魚みたいに口をパクパクさせていると、彼の表情は今までと違う、口を片方だけ上げた意地の悪い笑顔になった。

「失礼いたしましたレディ、私の名前はオトと申します。」

 それはもう丁寧なお辞儀だった。服の衣擦れすら聞こえない程の滑らかさ。

「エルナ嬢、きっとあなたはその想い人なんか忘れて、いつしか私に恋い焦がれることになりますよ」

 そしてエルナにそっと近寄り、彼女の額に優しくキスをした。

「覚悟、しておいて下さいね」

 至近距離に彼の笑顔を見て、エルナの混乱は一気に爆発した。

「なっ何するのよっ!!」

 自分の掌にバシンという音を立てて痛みが走ると同時に、彼女の視界は黒から白へと変わっていた。




*****


 窓の外から鳥のさえずりが聞こえる。

「………朝………」

 太陽の光がカーテンの隙間から差し込んで、部屋全体を真っ白に塗り替える。

「…なんだったのよ、さっきの夢…!」

 エルナにとって真夜中の逢瀬のようなあの夢は、逃れられない運命からの現実逃避だった。

 昨日は少し楽しみにさえ感じていたのに。

「…最悪だわ…」

 リアルに残る額の唇の感触。

 その部分に手を当てて、なんだかとんでもないことになってしまったのではないかと、不安にエルナは項垂れるのだった。


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