混沌と紺と

無花果りんご

混沌と紺と

 えずいていた。灰が底に沈みこんだブラックコーヒーを、虚ろな目で飲み干したからである。

 朦朧とした頭で昨晩を思い出そうとして、髪の赤い悪友と酒におぼれていたことを思い出した。このワンルームは先週から禁煙にする価値がなくなった。そのため、灰皿なんて便利なものはない。肺が真っ黒に汚染されたあいつは呼吸と喫煙がセットだったので、中途半端に温くなった缶コーヒーを灰皿代わりに利用したのである。あいつは、いつの間に帰ったんだっけ。

 酔いが抜けきれない頭で、肺にダイレクトにニコチンを摂取したことにぼんやりと不安を覚える。だがまあ、死のうが生きようがそんなに重要ではないような気がしてくる。それでも俺は洋式便器にありったけの胃の中を吐き出すと、胃の中を洗い流したい気持ちがしたので冷蔵庫を開く。

 ミネラルウォーターのような気の利いたものはなく、麒麟のラベルがいくつか並んでいるだけだった。まあ、飲み物なんて皆似たようなもんだろ。一つ取り出してプルタブを開けると、おめでたい音がした。 

「もう別れたいな」

 部屋に戻って机に並ぶ山ほどの瓶や缶を見ると、あいつのそんな声が脳内に響いてきた。よく笑う奴だったのに、涙を含んだ震えた声をしていた。俺は自身の器量のなさを十分に理解していたし、引き留めることが出来るほどの執念みたいなものも無かったから、出てきた言葉は「そうか」という一言だけだった。かくしてこの部屋は、喫煙可能になったのである。

 いつもより苦さのある発泡酒を胸に流し込み、缶をつぶしてその死体の山に加えた。俺はしゃがみこんでベッドの下にある引き出しの、俺の下着が入っている方を開ける。奥をまさぐるとしわくちゃになったハイライトの青いパッケージが出てきた。中にはオイル切れ寸前のライターと二、三本の煙草の残りがある。

「心配だから、辞めてね」

「分かったよ」

 付き合う前、そんな会話をしたなあと思いだす。あいつが好きだといった深い青のカーテンを開いて、ベランダへ出る窓を開ける。空はうっすらと白んでいて、寝ぼけた月が薄っすらと出ていた。カチカチと、何度かいじるとライターに火が付いた。しなびた煙草に火を点けて深呼吸。ライターと煙草を乱雑にポケットへ放り込んだ。

 あいつとの約束は、なんも守んなかったなあと思う。部屋の中がいくら禁煙だって、俺はこうして部屋の外で煙草を嗜んでいた。アルコールもニコチンも、お前のことを考えないで済むから楽だったんだよ。ふう、と煙を吐くと風に煽られて顔にかかるのが不快だった。こんなにまずかったかな、と思うが、そういえば肺を直接汚して間もなかった。

 どうしたって上手くいかなかったのだと思う。あいつは俺の横にいるには綺麗すぎる。あいつは俺と違って肺も肝臓も、綺麗なままだったのだ。そんな俺が、俺の思うままに透明な唇や身体をまさぐり、あいつの心まで蝕んでいくのは、悪行が過ぎた。耐えられなかったのは、俺の方だろ。短くなった煙草を地面に落とし、踏みつける。もう二本目を、とジャージのポケットに手を突っ込むと、質の良い小箱が出てきた。

「ん?」

 身に覚えがないような気がするが、俺がこしらえたような気もしてくる。それを取り出すと、ベロア地の小箱だった。

「ああ」

 あいつに渡そうとしていたそれを開くと、小さなダイアモンドがきらりと光った。これを渡していれば、あいつはここに居たのかもしれないな。手に取って左手の薬指に嵌めようとするが、女の指用に作られたそれは当然小さすぎた。月に向かって放り投げる。

 お前はこいつを見習って光る努力をしろよ。思いのほか高く登っていった指輪は月と重なりあう。キラキラと輝いたのはやはりダイヤモンドの方で、いつまでも月は寝ぼけていた。

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混沌と紺と 無花果りんご @raindrop0222_

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