+グリーンローズ 10

 痛みはまったく感じなかった。火箸を突き刺されたような激痛も、また唐突な視界の暗転もない。それもそのはず、モローが撃った弾丸はすべて的を外していたのだ。


 この時、射手と標的との距離は一〇メートルと離れていなかった。これといって遮蔽物もない。これではお世辞にも射撃の名手とは呼べない。


 ザックとしては呆気にとられるしかなかったが、しかしこの銃撃は、一人の女性を動揺させるには充分な迫力を備えていた。


 ローズは発砲と同時に悲鳴をあげた。


 なんと言っているのかは聞き取れなかった。ただ、彼女がモローを止めようとしていたのは明らかだ。無理もあるまい。目の前で知人が別の知人を撃ち殺そうとしたならば、誰でも叫び声くらいはあげるだろう。


 不可解なのはその次だった。直前までにらみ合いを繰り広げていた二人のうちの一方が、突如として地に倒れ伏したのだ。


 彼はやにわに大地に膝を突き、天を仰ぐように身体をのけぞらせると、ほどなく地面に横たわった。


 この瞬間にモローがどれほどの苦痛に苛まれていたのかは、ザックには知る由もない。このとき彼にできたのは引き続き呆気にとられることだけだった。


 そうして間抜けづらを晒すザックとは対照にローズの対応は速かった。彼女はうずくまって震えるモローに手を差し伸べると、即座に介抱しはじめた。


 はたから見るぶんには羨ましいと言えなくもない光景だが、よくよく見ると様子がおかしい。見間違いでなければ、ローズはどこから取り出したのか医療用の注射器を用いて、モローの左手の甲から何らかの薬剤を注入しているらしいのだ。慣れているのか訓練を積んだのか、思わず見とれるほどの手際の良さだ。


 ここに至ってザックの混乱は頂点に達した。


 自身でも驚くほど事態が飲み込めない。興奮と困惑と疲労とのために、彼の思考能力は麻痺していた。こうなるとすべきことはただ一つ。ともあれ現状の把握だ。


 彼はローズに歩み寄った。いったい何がどうなっているのか、と問うために。


 すると彼女は何を思ったか、モローの手から拳銃をもぎとり、その銃口をザックに対して向けた。


(またか……勘弁してくれ、どうしてたった五分で三人から銃を向けられなきゃならんのだ!)


 無意味な文句を頭のなかで片づけつつ、ザックはこれから自身が要求されるだろう事柄を率先して実行した。その場で直ちに足を止め、両手を上げたのだ。


 その彼にしかしローズは命ずる。


「動かないで!」


「それはすでにやっています」


「あ、そう……そうですね、たしかに……」


 それから沈黙が訪れた。なんとも気まずい沈黙が。


 察するに、この状況はローズにとっても想定外なのだろう。彼女は今まさに不測の事態に見舞われている。


 ところが彼女の仕草には、慌てたり怯えたりするところは少しも表れていなかった。目線は鋭く、背筋もしっかり伸びている。銃把を握る手にも震えはない。むしろ「冷や汗ひとつかいていない」という調子でさえある。


 ローズが口を閉ざしたのは狼狽からではない。彼女は単に、何事かを躊躇しているのだ。


「少しいいですか、シェリーさん」


 とザックは切り出した。


「あなたが何をするつもりなのかはともかく、時間はかけないほうがいい。騒ぎが起きてからもうかなり経っています。すぐにでも武装した警官が駆けつけるでしょう。決断は早いに越したことはありませんよ」


「存じています。ここはやはり……お頼みするしかありませんわね」


 ローズは銃を構えたまま、にこりともせず言葉を続けた。


「マクブライドさん、お手間を取らせてもうしわけないのですが、少し手伝っていただけませんか?」


 言葉遣いこそ丁寧ではあるが、その口調には有無を言わせぬ冷たい迫力が含まれていた。


    七


 何より手間取ったのはモローをクーペの後部座席に押し込むことだった。幸いにして彼は中肉中背だが、さりとて重さ七五キログラムの肉塊、それも意識のない人間の身体を、狭苦しい2ドアスポーツカーの中に運び込むのは実際重労働だ。片手を傷めていれば尚更である。


 二人がかりでも苦労するこの作業を単身実行するつもりだったあたり、ローズも意外と腕力には自身があるのかもしれない。


 彼女は苦労して座らせたモローの真横に陣取ると、続けてザックに運転席に着くよう求めた。


 この手の高級車のハンドルを握るのは人生で何度あるかという体験だ。が、とてもではないが喜ぶ気分にはなれない。なんといっても誘拐の片棒を担いでいるのだ。


 どうあれザックに選択権はない。彼は耳を弄する激しいエンジン音を響かせつつ流線形の車体を走らせた。アクセルの踏み心地がよく、加速のレスポンスも軽い。ギアチェンジも滑らかだ。くわえて、優しく身体を包み込むドライバーシートに、最新式の高画質バックモニター。どこをとっても最高の一言だ。


(思い返せば、今日はいろいろといい経験をしているはずなんだがな……)


 自身の真後ろに重い緊張感を覚え、ザックは小さく身震いした。




 とはいえそうしたちぐはぐさも長くは続かなかった。三人でのドライブを三十分ほど堪能したところで車両を変えることになったからだ。


 替えの車両は古い駐車場跡地に用意してあった。場所は工業地帯の近くで人通りはない。目撃者の心配はせずに済みそうだ。車は何の変哲もないシルバーのSUV車だった。(おそらく盗難車だろうな)とザックは直感したが、口にするのはやめておいた。それこそ言っても仕方がない。


 モローの乗せ換え作業を含め、乗り換えは意外とすんなり終わった。先ほどの積み込みで慣れたのもあるだろうが、やはり車種の違いが大きかった。


 そこからはまた移動時間である。今度のドライブは長引きそうな気配だった。三人を乗せたSUV車はロス市街を抜け、そのまま東へ東へと幹線道路を進んで行った。なんとなくサン・バーナディーノ国有林あたりを目指すような足取りだ。




 それからまた一時間が経過し、フロントガラスの一面に乾いたフリーウェイの景色が広がりはじめたころ。


「シェリーさん」


 ザックはようやく口火を切った。とにかく事情は説明してもらわねばなるまい。


「そろそろ聞かせてもらってもいいでしょう。これはいったい何です?」


「そうですね……これだけ良くしてくださっているんですもの。それくらいの要求には私も応じなければいけませんね……それでは、ミスター・マクブライド。あなたは何をお聞きになりたくて?」


 ザックは曇ったバックミラー越しにローズの様子をあらためた。リラックスしているようには見えない。内面の緊張が乱れたドレスの端々に表れていた。あるいは、まばらな街灯と星明りとが頼りという暗澹たる荒野の情景が、その表情を一層に険しく見せていたのかもしれない。思わず目を奪われるほどの精悍さだ。


 やがて前方の地平線に視線を戻すと、ザックはこう返事をした。


「一言で言えば『これ』です。つまり今現在、私が携わっている『これ』が、いったいどういう種類の企てなのかということです。まあ誘拐だとか拉致だとかには違いないのでしょうが」


「おっしゃるとおりです。ほかにも『略取』という言い方もできますね」


「はあ……」


 モローは最前からずっと眠りこけたままだ。ふいに意識を取り戻すことがないよう、ローズが度々に薬剤を追加しているのだ。


「では確認しますが、私はこの一週間、あなたの計画を成功させるために利用され続けてきた――と、そういうことで間違いありませんね?」


「それも答えはイエスです。そのことについては今この場で正式に謝罪させていただきます。ごめんなさいマクブライドさん。あなたには本当に――」


「いえ、それはもういいんです……あいや、いいということはありませんが、私はあなたを責めたり恨んだりする前に知っておきたいんです。あなたがここまでするその理由と、それからこの計画の全容がどんなものであるのか、ということを」


「……そう、ですね。こうなったからにはちゃんとお話しするのが礼儀でしょう。それに私も、本当は聞いてもらいたいと感じていたのかもしれません……あなたやノーランさんのような方に……ですからどうか知ってください。私とこの人とにまつわる、古いふるい話を――」


 その後もしばし言い淀んだあと、彼女はおもむろに語りはじめた。

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