第10話

 

 矢神に避けられている。…多分原因はわかる、と思う。


  


 夕食の準備中のことだった。自分は副菜のうちのきんぴらごぼうを任されていたのでニンジンとごぼうを切る。


 子供のころ、料理を教えてくれたのは母親ではなく姉だった。そのころから既に姉は自由奔放で天才だった。あまり家にいるほうではなくて、誰かと一緒にいるわけでもなくて帰ってきたな、と思えば種類のわからない虫や花を持っていたりした。

 

 そんな天才の李央だが初めて料理をしているのを見たときは、すごく下手だった。だけど、しばらく経ってから料理を教えてと頼んだ時に教えてくれた料理はすごく上手だった。天才とは一度練習さえすれば上手く出来るようになるものなのだろうか。     

 羨ましいばかりだ。


 姉に教えられたとおりに猫の手でニンジンを切る。猫の手で野菜を切るのは言葉で言っているよりも難しいことだった。猫の手で押さえたら野菜がぐらぐらして帰ってけがをしそうだな、と小さい頃は思っていたがその心配も今ではなくなった。それでも相変わらず猫の手というのは難しくて、今でも最後のほうは猫の手をやめかけている。


  小さい頃は野菜をどう切るかもわからなくてよく姉には笑われた。料理には料理に合った野菜の切り方というものがあって短冊切りやら、乱切りやら違いもよくわからなかったのだ。だから、このきんぴらごぼうの「ささがき」なんてもってのほかだった。シャッシャッと包丁を動かすのはすごく怖くて結局いつも李央が切ってくれた。


 切り終わった野菜をごま油を敷いたフライパンに入れて、しなしなするまで炒める。フライパンの前で手を動かす私の後ろを知念さんと冬見さんとシエルちゃんが動き回っている。それをぼんやり眺めながら箸を動かしていると、矢神が布巾を持ってやってきた。

 コンロのすぐ隣の流しで布巾を洗い始めた。すぐ隣に矢神がいるということを過剰に意識してしまって、私は何となく落ち着かない気分で先ほどよりいっそう忙しなく手を動かした。



その時だった。


 





 ドンという少し重い音がして矢神はふらりとよろめいて倒れかけた。正直言って何が何だかわからなかったが、このまま転んだら彼女のことだから常人よりもひどいけがをしそうだ。

 慌てて右腕をつかんで背中に手をやり、引き寄せる。


 「…あ。」


 それはまるで抱きしめるような体勢だった。思わず声が漏れる。緊張していたが無事を確かめるという建前のもと、腕や顔に触れた。


 


 



 「…ありがと。だが…。」


 いつまでこうしてるつもりか。暗にそう言っているとわかった。そりゃあいつまでもこうしていたいですが、そう思ったがそんなことを言ったら怒られそうだ。


 「ああ、ごめん。」


とつぶやいてパッと放し


 「怪我はない?」


と聞く。よく見ると矢神は顔を真っ赤にしていてそれが何だかかわいらしい。

 

 「あ…いや…ありがとう。」


…それは良かった。周りを見ると、冬見さんがすごく申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。


 「ごめん!今ぶつかっちゃって…。ほんとにごめん。」


いつものひょうひょうとした感じから一転ひどく慌てた様子。それもそうか。この寮の人は彼女の体が弱いことを知っているのだから。


 「いえ…。私もぼーっとしてましたし…。」


まあでも、転ばずに済んだし人が狭い場所にたくさんいるのだからこれは仕方ないことだ。ということでこの件は落着したのだが、矢神の中ではそうとも言えないようだった。


 冬見さんには普通に話しかけるくせに私のことは明らかに避けてくる。


 どうして避けられているのか。その答えは案外簡単に察することができるものだった。だって私は過去に何度か似たような経験をしたことがあるのだから。


 多分矢神は私以上に意識している。倒れかけそうになった彼女を私が抱き寄せたことを。もっと正確に言うならば、不可抗力とはいえハグのような状態になったことを意識している。

 そんなに意識するようなことなのか、私にはよくわからないけれど自分からしてみれば、不可抗力とはいえハグできたことには嬉しさしかない。

 でも、まだ彼女の中で整理ができていないのならば私がずけずけ話しかけに行くことは最善策とは言えないだろう。




 そういうわけだから、夕飯を食べ始めても私は、不用意に彼女に話しかけることはせず、知念さんや冬見さんと話しながらさりげなく矢神のほうをうかがっている。

そのことに気付いているのかいないのか楽し気に話している。

 



「そういえばさ、柊ちゃんと恋ちゃんはどういう経緯で仲良くなったの?」


知念さんはニコニコと笑いながら私に話を振った。私は口に入っていたハンバーグを咀嚼して、飲み込んでから


「そうですね…。すっごい綺麗な子だな、と思って自分が話しかけました。」


実際そうだ。噂の彼女として知っていたし、何度か近くで見たこともあったけど同じクラスだと更にその美しさが分かる。と、いうか何をしていても絵になるのだ。姿勢を正して本を読んでいるときも目にかかった髪を耳にかける仕草も、隣の席の子が落とした消しゴムを拾い上げるときでさえ彼女は綺麗だ。なんていうか所作が洗練されていて、育ちの良さがうかがえた。


「確かに、容姿だけじゃなくて恋ちゃんは何ていうか、そのものが綺麗なんだよね。」


 矢神を満面の笑みで褒める知念さんも充分に綺麗だ。他人のことを手放しでほめたり、その人の良さをまっすぐに語れる心が綺麗だと思う。


 不意に自分の心に浮かんだ感想は客観的にも、主観的にもかなり恥ずかしいセリフだったから、口には出さなかった。







 「それじゃ、今日はありがとうございました。」


 ご飯を食べ終わって少し雑談をしてから、壁にかかる時計を見上げるともういい時間だった。ここは私にとってとても居心地のいい場所ではあるけれど、私のいるべき場所ではない。夜が来たら私は私の家に帰るのだ。


 「あ、そっか…。もうそんな時間だね。」


知念さんはへにょりと眉を下げた。彼女はたぶん、別れ際が苦手なタイプだと思う。楽しかった遊園地から帰るときとか、おばあちゃんの家から帰るときとかのお別れがすごく苦手なタイプ。

 きっと寂しくて、悲しくなるからだと思う。それが分かるのはそういうタイプの子とも関わりがあるからということもあるし、何より小さい頃の自分がそうだったというのもある。


 

 「…もう夜も遅いし、車出そうか?今日はお酒入れてないし。」


ソファに座っていたマコトさんが車のカギがついたキーチェーンの輪っかに指を通してくるくると回す。


 「それに…少し、話がしたいかな。」


そう言って、マコトさんは少し笑う。

 きっとマコトさんは勘づいているのだろう。まぁでも、夕飯の時はほとんど一言も矢神と話さなかったから不自然に思うのも当然なのかもしれない。

 昨日の今日で申し訳ないが、正直話したいかどうかは微妙だ。でも、ここで断るのは彼女の気遣いを無駄にする気がする。



 「…お願いします。」


私がそう返すと、マコトさんは


 「りょーかい。」


と言って寂しそうな知念さんの頭を軽く撫で、玄関の方へ歩き出した。

 

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懐かない猫の体温。 t-sino @t-sino

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