第2話 

 「落ち着いた?」


 その問いかけに私はおとなしく頷いた。彼女のおかげで咳は収まった。そのお礼をしなくてはならない。だからこれは必要なことなのだと、自分を納得させて彼女の顔を見る努力をした。


 「ありがとう。」


と礼を言った。素直に礼を言った私に対して驚いたのか彼女は少しの間フリーズしてから少し顔を赤くして


 「うん。」


と言った。その反応を意外に思い、ふと我に返ってあたりを見回し、周囲の視線を浴びていることに気づいた。視線を浴びるのは苦手だから、この場を離れたいという気持ちがわずかに芽生えた。


 それでも食べ終わってはいさよならとこの場を後にするのも悪い気がして、食べ終わったサンドイッチの包みを鞄にしまい、先ほど彼女が鞄から出してくれた水を飲んでいると、今度は式波さんのほうがこちらを真直ぐに見つめて口を開いた。


「あのさ…。嫌なら別にいいんだけど、」


「え?」


口ごもり、言うことをためらっているように見えるところを見るとあまりいい話ではないのだろうか。身構えた私に対して彼女が放った言葉はおよそ私の想像を超えたものだった。


「これからも矢神さんが体調が悪かったり怪我をしたりしたときに、そばにいてもいいかな。」


彼女の言っていることがよく理解できない。


「えと、その…。あ、同情じゃないよっ。いきなりこんなことを言うのもおかしいと分かってはいるんだ。ただ矢神さんが怪我をしたりしたときに隣にいて少しでも助けになりたいと思うんだよ…。」


別にそれを同情だとかどうとかいうつもりもない。純粋に言ってくれているのだろうということは彼女の眼を見ていれば分かることだ。だが、いきなりすぎる申し出に少し動揺した。


「……別に隣にいなくったっていい。…がその気持ちは嬉しいから受け取らせてもらう。」


それでも、素直にうれしい。けど、別に彼女が自分なんかに煩わされる必要はないと思う。人気者な彼女であるということを差し置いても自分のようなただひたすら厄介さの塊のような人間のそばにいることが誰かの幸せになるとはとても思えないのだ。


 


 




 他者を愛するためにはまず自分を愛せなくてはならないそうだ。

 いつも自分に振り回されてばかりで余裕のない私は自分のことですら好きになれない。こんな気持ちで他者にまで気が回せるはずもないことは自分が一番よくわかっている。

 私の返答に彼女は悲しいというわけでも落ち込むというわけでもない複雑な表情を見せた。



「私からも一つ聞いていいか?」


周囲に人がいるので多少声を潜めつつ、ずっと気になっていたことを聞かせてもらった。


 「うん?」


 「式波さんは、いつもその口調で話しているのか?」


私の質問を聞いた式波さんはぱぁっと嬉しそうな表情を浮かべた。


 「ううん。学校外では少し砕けてるかも。」


口調が違うから彼女ではないのかもしれないと少し思ったが、やはり式波さんがあの時の彼女だった。式波さんが、なぜそんなことを聞くのかとも何も言わずに笑顔を浮かべたことは不思議だったがひとまず疑問は解決した。


「そうか。ありがとう。それじゃ。」


 とりあえず聞きたかったことは聞けたもののまだ軽く動揺していた私は、水をもって早急に落ち着きを得られる場所に行こうと席を立った。式波さんはにこりと笑って片手をあげた。


「うん。きょうはありがと。」



 廊下にある1組のロッカーのうち自分のロッカーの扉を開けて靴袋を取り出した。

 廊下を歩くと自分の周りには人があまり寄り付かない。だから歩きやすいのはいいのだが少し居心地が悪い。周囲の目を気にしなくて済むことには少し安堵しながら見知った道をたどっていつも昼休みを過ごす場所に向かった。





ギィ。


軽く音を立ててドアが開く。すがすがしい木のにおいを吸い込む。それからチラリと壁にかかるボードに目をやると七つの名札のうち五つが裏返っていた。その五つのうちの一つをひっくり返して、ほかの二人はどこにいるのかと見まわすが自室に閉じこもっているようだった。

 

 正直に言うと少しホッとした。今はだれかと顔を合わせる気分ではない。一人で頭を整理したいのだ。


 



 ここは元々は北棟と呼ばれる、学校の施設のうちの一つだった。今の本校舎からは徒歩10分くらいで少し離れている。これは取り壊された元の本校舎の近くにあった施設だからなんだそうだ。まあ、今も一応学内の施設ではあるけど。

 当時は一階にはいくつか教室が並んでいて、二階は図書館だった。しかし、今ではすっかり古くなってしまったので、風見ハイツという名前の寮に建て替えられたのだ。

 そして、私もここの住人の一人なのでここに出入りする権利があるというわけである。


 我が校は少し変わっているので昼休みは二時間ある。なのでいつも私はご飯を食べた後ここで寝ることにしている。


 庭に出て、二つ並んで揺れる無人のハンモックのうちの一つに横たわる。目をつむると木のいい香りがして気分が落ち着く。耳を澄ませていると鳥の鳴く声がかすかに聞こえた。それを聞いているとすっと意識が遠のいて、深く深くどこまでも落ちていく気がした。



 



 

 気づけば私はいつもの場所にいた。

 あまりにも代わり映えがなくて、いつもの夢だと私は気づく。殺風景な黒い空間の中に、目の前にはいつもと同じようにどこまでも続く一本道が広がっている。

 自分の意志とは無縁に夢の強制力で歩き続けて私はT字路に立った。そこの周りだけ、どこか見覚えのある懐かしい気持ちにさせられる風景が広がっている。そこにはいつも、顔に黒い何かがかかっていてよく見えないが一人の子供がいる。

 

 だが、今日は少し違った。いつもの子供の、顔が、見える。少年のような顔立ちで黒いショートヘア。前髪は長く、目にかなりかかっているけど、隙間から青い目が見える。キャップを後ろ向きにかぶっていたずらっぽく笑っている。

 


 この顔は……まるで…。





 「起きてくださーい。」


「起きて!午後の授業に遅刻しますよ。」


何かを思い出しそうな、思い出せなさそうな気持ちは後輩の声によってあっさり霧散した。


「んん…。おはよ、エル。」


エルは後輩で寮の住人だ。今年で中学二年生。


「おはようの時間ではないですけどね。あと15分で5時間目ですよ。」


厳しくも優しいいい子だ。


「有難う。」


私が笑いかけると、彼女は何かをぼそりとつぶやいて顔を少し赤くした。そして、


「では私は先に。」


と言って建物の中に帰っていった。寮から出て自分の教室に戻るのだろう。 

 私も戻ろう、と思い学校指定のネクタイの上から黒いパーカーを着てハンモックを降りた。


 寮を出るときにボードに目をやると、一人住人がいるようだった。大体この人だけはいつも寮にいる。いつ大学に行っているのかは謎だが、彼女は自分でももうどれくらい長いこと大学にいるか分からないくらい大学生をしているらしい。

 部屋に篭りきりであろう彼女に特に声はかけず、玄関で外履きを上履きに履き替えて外に出る。

 ずっと前の方にエルの後ろ姿が小さく見えたが、追うほどの気力もない。まだ時間に余裕はあるのでゆっくりと歩いて本校舎北棟の入口に着いた。入り口で履いていた外履きを脱いで上履きに履き替える。

 そのまま私は午後の授業に向かうことにした。

 

 




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