第3話 へいわなオークのくに③

 ―――軍学上、学ぶべきことも多かった。

 ディネルースたちダークエルフ族はそれ自体が立派な戦士たちであり、魔術力があって、射撃や馬術にも優れた立派な兵である。

 また彼女たちのうち多くの者はエルフィンド軍の士官学校で将校教育も受けていたが、オルクセンの最新戦術や兵器には幾らか戸惑う場面ばかりだったのだ。

 三月の第二週、国王官邸の副官部からオーク族のミュフリング少佐という、生来いささか情けない顔つきの使いが来て、

「近く、我が陸軍の師団対抗演習を視察できる機会がございますが、如何なさいますか?」

 と、参加の是非を尋ねる態で誇り高きダークエルフ族に気遣ってはいるが、これは言ってみればグスタフ王の実質的な命令が来た。

 実地見学教育の機会があるから、来い。

 そう命じられているのだ。

 演習実施予定期間は三日―――

「感謝に堪えません。参りましょう」

 ディネルースは即座に応じ、その日のうちに彼女の旅団で幹部将校となる予定の者たちから随行者を選抜した。


 イアヴァスリル・アイナリンド

 アルディス・ファロスリエン

 エレンウェ・リンディール

 アーウェン・カレナリエン

 エラノール・フィンドリル

 フレダ・メレスギル

 リア・エフィルディス

 ラエルノア・ケレブリン


 いずれも氏族長クラスで、来るべき新編成の旅団において参謀長や参謀、騎兵連隊や猟兵連隊の長、砲兵大隊や工兵中隊、段列の指揮官となるべき気鋭たちである。

 ちなみに、ダークエルフ族の名と姓もまた、オルクセン側の言語習慣からするとほんの少しばかり違和感がある。

 彼女たちは、名も姓も、いってみれば形容詞でできていた。全体で一つの述語になる。

 例えばディネルースの場合、「静かな猛りの、ディネルース・丈高き娘アンダリエル」といった意味だ。

 で、実は名に名が重なっているとでも表現するほうが正確である。

 しかもその殆どは、現代アールブ語ではなく古代アールブ語から来ていて、文字で表わすことは出来ても意味はまるで通じない(ただしこれには言葉の流行り廃りというものもあり、若い世代のダークエルフたちのなかには現代アールブ語を重ねた名を持つ者もたくさんいた)。

 ディネルースの名を無理やり意訳するなら、おばあちゃん言葉で、

「あんた生まれたときはなぁ、もう背も大きくて、泣きはせぇへんかったけど暴れる子やったんやで」

 というような具合になる。

 重ね名はオルクセンにも存在するが、基本的には名に生まれの地の地名や職業などを冠した姓を、父祖から引き継いでいるオルクセンの者からすれば、確かに違和感がある。

 ただし、ダークエルフ族の名が持つ言葉の響きの美しさは彼らにも感じ取れた。

 彼女たちが部隊の編制を始めたとき、実は最初に起こった異文化摩擦はこの氏名姓名に起因するものであって、陸軍省人事部が任官や任命の書類を作成するとき、いままで見たことも聞いたこともない名を書くために、本当に綴りが合っているのかと各部署で何度も確認が生じた。

 摩擦というより殆ど幕間喜劇に近いような話で、いまでは笑い話になっているが、何事も実際にやってみねばわからないこともあると、これはオルクセン側にもダークエルフ側にも一つの教訓となっていた。

 ディネルースとその麾下将校たちは、翌週の後半になってからヴィルトシュヴァイン西方郊外の更に少しばかり行ったところにある、オルクセン陸軍首都大演習場を訪れた。

 演習開始は早朝を予定されていたから、まだ深夜未明のうちに、各自常装軍衣着用のうえ携行装具を帯び、ヴァルダーベルクから騎乗にて出発した。

 料峭がある。

 三月とはいえ、早朝の気温は零度に近かった。

 ディネルースたちも、馬も、呼気が白い。

 騎乗には、既に仮称ダークエルフ旅団用の乗用馬が駐屯地へと届き始めており、これを使った。オルクセンではたいへん珍しい、輓用馬種ではない、本物の乗馬種。

 血統的にはベレリアンド半島原産で、いまでは星欧大陸各地に軍馬として広がっているメラアス種だ。

 実は―――

 このメラアス種馬の調達に、やや支障が出ている。

 オルクセンでは、軍用も民需用も重量馬のペルシュロン種などばかり馬産地で育成しているため、メラアス種を育てているところはあまりない。

 ごくわずか、ドワーフ族及びコボルト族の騎乗用や観賞用に産しているところがあったが、そこからの調達量だけでは兵力八〇〇〇名、ましてや騎兵を中心にしたダークエルフ旅団の編成を賄えない。

 旅団の騎兵は最終的には三個連隊編成、一個中隊一五九頭で一八個中隊となる予定になっていたから、これへ各連隊本部の必要馬数も加えると―――騎兵だけで、三〇〇〇頭近いメラアス種が必要になる計算だ。

 猟兵連隊や山砲大隊などを含めた旅団全体となると、気が遠くなりそうだ。

 必要馬数の大半を、国交のある人間族の国々から輸入しようということになり、まだ実態としては「馬のいない騎兵旅団」である。

 細かなところを言い出せば、輓用馬と乗用馬では馬具のサイズは違う、蹄鉄は合わない、銜は大きすぎるなどと問題は噴出。それらは急いで造兵廠や民間業者を使い製造、購入し、当座取り急ぎのぶんは旅団内の蹄鉄工や鞍工で自作するということにもなり―――

 下手をすると、今後の軍におけるメラアス種の馬産もダークエルフ旅団の担当ということになりそうな気配すらあった。

 正直なところ、ここしばらくそのような「実行に移してみなければわからないこと」ばかり起こっているので、ディネルースはいささか疲労を覚えていた。

 演習視察参加前夜となる昨夜は流石に早く眠ることにし、しかも薄めたエリクシエル剤を混ぜた強い火酒を煽ってから、無理やり眠りについたのだ。

 配下の者たちも同様。

 それぞれ各職域で成すこともあった上に、手分けして民業部分も差配しつつ、軍学校が派遣してくれた教官連から教えを請い、おまけに各自でオルクセン陸軍の歩兵操典や騎兵操典、将校必携書、兵書などを連日深夜まで読みふけっているので、いかな基礎体力と魔術力のあるダークエルフ族といえども眠くて仕方がない。

 オルクセンの軍隊にはやたらとそういった教本類が多く、しかも指揮官たるものはそれを読み込んでいて当然とされていたから、即席の辞書を片手に苦労している。

 それでも種族の誇りもあり、遅れてはならぬと未明に出発したわけだ。

 彼女たちの涙ぐましいまでの努力の結果、参集予定時刻前に首都大演習場に無事到着できた。

 営門から、たいへん立派な演習地兵舎や食堂などの並ぶ箇所を抜け、各所に配された兵たちの案内を受けつつ、視察将校参集地に到着。そのころには夜空が白んできた。

 実に広大な場所で、多くは草原。

 なだらかな起伏の丘も幾つかあれば、東方端は森林地帯に入ってくるので樹々も多く、河川もあれば湖沼も点在。軍の手により故意に作られた耕地や、農村を模した無人の村まであった。つまり、おおよそこの地方で想定される戦場環境の多くが試せる場所。

 オルクセンには、規模の差こそあれ、このような演習場がたくさんある。

 連隊規模以上の部隊の衛戍地には、専属のそれが必ず付随しているほど。

 師団規模でも年に二度ほどは実施する野外演習を行いたくなったとき、農地との区別をつけて、その生産量を阻害しないためだ。

 また、それほど広大な土地が無駄にならぬよう、たいていの場合、普段は近在の畜産家たちのための牧草用地として、あるいは軍の手によるささやかな副業的農業耕地として活用されている。

 ヴィルトシュヴァイン演習場には、軍専用の鉄道引込線まで二本も走っていると聞かされ、ディネルースたちは舌を巻いたものだ。

 その演習場の一端。

 周囲よりも少し高さもあり、多少平坦な頂部を持つ丘の上に、いくつかの司令部用天幕が繋げ合わせるかたちで設けられていた。

 風が巻き起こるようなこともあるだろうから、四周から紐を張って天幕を支える木杭は、かなり入念に打ち込まれている。

 折り畳み式の大きな机が天幕中央を占めており、それには赤い天鵞絨の覆いがすっぽりと被せられていた。黒板があり、幾つもの椅子もある。

 天幕周囲には三脚の上に据えられた巨大な双眼鏡といった見かけの砲隊鏡や、野戦電信の柱や、電信機用の小天幕があり、伝令用の騎兵中隊も丘の下に。

 何頭かの巨狼も野戦憲兵に連れられていた。巨狼たちは、彼らの種族たちのうち軍務についている者であることを示す、真鍮製の半月状の金属板を首から鎖で下げている。

 ディネルースも読み込みつつある軍の将官用の必携書―――「高級指揮官教令」によれば、演習統制部と呼ばれるものだ。

 いってみれば対抗試合の審判役を務める場所だ。

 味方役と敵役となった部隊や、演習地のあちこちに配された審判役参謀将校たちから連絡を受け、ここで攻守の結果や、行動の是非を吟味、判定。演習終了後には試合結果発表と解説や論評に相当する「講評」という作業を行うためのもの。

 そして今回の場合、視察に訪れた王グスタフ・ファルケンハインの仮在所でもある。

 演習の準備段階自体は昨日から始まっていて、彼は演習地の宿舎に泊まり込んでいたのだという。

 王より遅参してしまったようにも思えるが、この場合は正式に告知された視察参加将校の集合時間に従っているから、何も問題になることではない。

 天幕内の上座についたグスタフの背後には、あの巨狼アドヴィンも当然いた。彼の首にも金属板。そちらは寝そべっている。

「やあ、来たな少将」

 ディネルースたちの姿に気づくと、若干よそ行きの口調であの常装軍服姿のグスタフは手を上げた。たくさんの一般将兵や、個人的親交上は側近とはいえない軍幹部もいるので、多少は礼式を気にしているらしい。

 ただし相変わらず過剰な装飾には興味がないようで、彼の椅子は豪華な玉座などではない。

 まったく通常の、ただしオーク族向けにサイズばかりは大きい、軍用の背もたれつき折り畳み椅子だった。

 あれこれ何か考えていたようで、火の点いていないパイプを咥え、手帳と鉛筆を携えてもいる。

「我が王」

 ディネルースもまた礼式に合わせて、さっと敬礼した。

 通常、オルクセンを含む殆どの国では多少掌や肘の伸ばし具合や角度は変わっても、敬礼には指の全てを伸ばす。

 だがディネルースたちのそれは、しなやかな人差し指と中指だけを伸ばしたもの。親指と薬指、そして小指は握ったかたちにする。エルフ族式の伝統ある敬礼だった。

 オルクセン陸軍において彼女たちの部隊がどちらのやり方でやっていくかは多少議論があったが、「そのままでいいんじゃないか。格好いい。気にいった」のグスタフの一声で、こちらの独特な方式を使い続けていた。

 この時代、オルクセンや人間族各国の軍隊では、しかつめらしく軍服を統一するのではなく、基本となる装具や兵器類は軍制式のもので揃えつつも、内外の民族衣装風の意匠を部隊規模で取り入れてみたり、各部隊で色彩や衣装を変えてみるなどといった真似が、一種の伊達っぷりや洒落っ気を示すものとして流行していたから、意外とすんなりと両者の形式差は融合したのだ(ディネルースの部隊の軍服が独自のものであるのも、そのためだ)。

「少将。ゼーベックのじいは、今日は素面だからちょっと警戒したほうがいいよ」

「いえいえ、そんな、陛下・・・」

 返答に困るようなことをいう。若干弱ったディネルースの視線の先。

 グスタフの側には、彼より年嵩で、他者からは少し苦み走った顔つきに見えるオークがいた。彼はちらりと顔を上げ、敬礼したままのディネルースに鷹揚に頷いて見せる。

 あの山荘で、グスタフから「じい」と呼ばれていた側近。

 襟には、赤地に金絨で椎の枝を模した将官襟章。ズボンにはやはり将官を示す太く赤い側線帯。肩の階級章は上級大将だ。勲章やその略綬も幾つか。

 カール・ヘルムート・ゼーベック。

 オルクセン国軍参謀グローサー・本部参謀総長ゲネラルスタブ

 グスタフとは彼が王になる前からの付き合いだという、側近中の側近、最側近だ。

 ディネルースも、あの脱出行以降何度か会っていた。

 グスタフの相伴に授かるかたちで、食事を共にしたこともある。

 彼女一個の感想としては「初対面では嫌になるほど生真面目に見えるが、打ち解けると意外と面白い性格」。好みだという重い味わいのオルクセン西部産赤ワインが入ると特にそう。静かに飲むが酒量はかなりのもので、洒落っ気というか茶目っ気があり、ちょっと辛口の冗談を口にすることもある。

 外套の袖に演習統制官を示す緑色の腕章を巻いていて、どうやら今日の統制部責任者―――演習統制監らしい。

 珍しいことだ。

 今日の演習は、師団と師団が仮想対抗上争うものでそれなりの規模だが、それでも互いに全部隊投入というほどではなく、通常ならゼーベック上級大将ほどの位にある者が統制監を務めるものではない。師団の上級部署、軍団司令部辺りが行うレベルだ。

 大机の周囲には、他にも軍の高官たちがいた。

 参謀本部作戦局長エーリッヒ・グレーベン少将。オーク族。

 参謀本部兵站局長ギリム・カイト少将。ドワーフ族。

 参謀本部通信局長ヘルムート・シュタウピッツ少将。コボルト族、ダックス種。

 参謀本部兵要地誌局長カール・ローテンベルガー少将。オーク族。

 彼ら配下の参謀や副官たちも天幕内や別天幕にもいて、また、オルクセン国軍参謀本部の要職のうち次長職はグレーベン少将の兼任だったから、この天幕はまるで「移動してきた参謀本部」である。

 軍記物語風に言えば「将軍たちの丘」だった。

 ―――何かそれなりの、手の込んだことをやる演習ということか。

 ディネルースは察した。

 そもそも、この参謀本部という制度。

 彼女からすれば、たいへん奇妙な代物だ。

 元々は軍の兵站業務を差配監督するための組織だったというが、いまではそれに加えて軍の作戦全般を立案、グスタフに献策するためのものになっている。軍令組織として装備や兵器体系を考査、軍政部門や技術部門に要求し、各部隊に運用させるといったことまでやっている。

 あの朝市が毎週開かれるヴァルターガーデンの北隣に、王宮官邸にも比肩する大理石作りの巨大な専用の庁舎を持っていて、つまりそれほど規模が大きい。

 他国には、それほど大規模な同種組織は存在しない。

 翻訳すれば参謀本部と名のつく組織を持っている国はあるにはあるが、それは平時における参謀将校たちの、いってみれば無任所にしないための待機場所で、それ以上の意味を持たないものだ。

 世界の多くの国は、戦時、軍を指揮する王なり将軍なり、各級指揮官なりに補佐役の参謀長や参謀といった幕僚をつけ、それで良しとしているのだ。

 王直轄の、平時から存在する、それでいて陸軍省といった中央官衙に匹敵するほどの組織とは何なのか。

 大袈裟に過ぎるように思えた。

 成り立ちだったという、兵站を行うために専用の組織を作るという真似も、ちょっと理解できないところがあった。

 兵站なぞは現地調達に任せ、部隊単位で担当将校を配し、実施はそのへんの会計将校にやらせておけばいいことだ、などと思っていたのだ。そうでないと、機動力が維持できない―――

 乱暴な考え方のようだが、これはほぼ全ての国の軍隊でも同様に思われている、格別珍しい考え方ではなかった。

 兵站について煩瑣にすればするほど軍の機動力は低下するため、上古の昔から現地調達式のほうが主流なのだ。

 例えば、指揮官たるもの、兵一名一名が携えていく非常食―――携行糧食は、よほどのことがない限り口をつけさせてはいけないもの、とされていた。現地で調達した食糧から消費する。

 そのほうが新鮮でもあるからだが、兵を気遣っているのではない。

 携行糧食に手をつけてしまっては、食事のたびに消費分を後方から補充してやらなければならなくなるからだ。前へ、進めなくなってしまう。

 そのように後方兵站が軍の行動を妨げてしまう本末転倒な現象を、エルフィンドの兵諺で表現すれば「軍が枝に絡まる」という。

 オルクセンのように真面目に兵站についてあれこれ考えまわすほうが異常も異常、こういっては何だが頭がおかしいのではないか、などと思えた。

 だが、移住してこの国の民となったいまでは、彼らの考えも理解できる。

 オークの軍を大規模に動かすと、実に大量の、膨大に思えるほどの食糧を消費する。

 他国のように、軍司令部に担当将校と資金を与えて出征先から現地買い上げなどという調達方法を採ったとしたら、たちまちその地方が干上がってしまうほど。

 つまり後方策源地から食糧を送る、あるいは事前に前線近くに食糧集積場を作っておくといった兵站行動が不可欠なのだ。

 理解はできる、理解はできるが。

 その作業は当然ながら膨大なものになるだろう。

 物資の調達、荷馬車の差配や、輸送線全体の総監督。

 その他諸々。

 雑事としては諸々のほうが多いくらいだ。

 後方から前線へと送らねばならぬものの中には、軍隊としての必須の存在、大小様々な弾薬や兵器や装具の予備品、軍馬の飼秣、更には補充兵といったものも当然含まれるから、書類の処理を想像しただけでも頭が痛くなるほど。

 参謀本部はそのための組織として、いまから六〇年ほど前、オルクセンの西隣にある人間族の国、グロワールに攻め込まれ、諸種族統一オルクセン初の大規模戦争となった際に出来た、という。

 オルクセンにとっては全くの国土防衛戦争で、ならばなおのこと戦場となった国内と国民を荒らすわけにはいかず、後方策源地から前線へと食糧や武器弾薬を届ける業務、その全般を立案指揮したのだそうだ。

 因みに、この戦争。

 グロワール人に現れて一砲兵将校から王にまで昇りつめ国を纏め、強力な軍を作り、周囲を侵略した人間族の傑物英雄の名をとって、各国では「デュートネ戦争」と呼ばれているが。

 世捨て人のように、ベレリアンド半島シルヴァン川流域以北に閉じこもってばかりいるエルフ族たちにさえ当時噂が聞こえてきたほど大規模なもので、全体として約二五年、オルクセンが関わった年数だけでも五年続いた。

 以前グスタフにせがんで話を聞き、参謀本部編纂の公刊戦史も少し見せてもらったが、オルクセンとしては多くの戦場で勝ち、戦争にも勝ったものの、兵站線の維持という点では大失敗だったらしい。

 国内にいるうちはまだよかったが、戦争後半、グロワールまで逆に攻め込んだところで当時の参謀本部が力尽きてしまった。

 彼らが、ゼーベックたちが無能だったわけではない。

 鉄道はおろか、石畳の舗装路さえ珍しかった当時の技術では、もっとも輸送量を大きくできる存在は内陸河川による水運のみで、兵站組織のどのような努力をしても補給線が伸びきり、出征軍を支えきれなくなったのだそうだ。

 調達と兵站線維持の実務の大半を、軍指定の商人たちが行うという当時の制度もよくなかった。肝心要、実務の部分を丸投げしているに等しかったからだ。

 結局のところ、オルクセン軍は外征先のグロワール東部で不本意ながら現地調達をやり、更には占領地で自ら麦を刈り取り、畑を耕し種を蒔くという真似までして、人間族の別の国とも同盟して共同戦線を展開しながらグロワール首都までへとへとになりつつ辿り着き、デュートネを降伏させ戦争を終わらせた。

 終戦後、占領地を放棄して人間族たちの警戒を買わないようにするという涙ぐましい努力をやりつつ、講和条約で莫大な賠償金を分捕れていなければ、いまのオルクセンの繁栄はもっと遅れていただろうと、グスタフは語っていたものだ。

 国軍参謀本部は、同戦争の反省もあって巨大化した。

 二度と「枝に絡まない」ように。

 他国にはない制度を更に国軍内部に生み出しつつ、だ。

 現在のオルクセン軍には、参謀科という兵科がある。他国では、歩兵科や砲兵科といった各兵科将校が参謀になるが、最初から参謀になるための将校を育てるという制度だ。

 優秀な将校候補者ほどこの科に入れて、各部隊に属しめ、兵站と作戦立案などを行い、また上級者へと昇進した者は参謀本部に配する(一般兵科将校が参謀になれないわけではない)。

 通信科。

 これもまた、まだ他の国にはない。他国では野戦電信敷設は工兵科が監督まで請負い、部隊間通信は各兵科将兵が担当していたりする。

 電信線の敷設計画立案や電信の操作、魔術通信の構築や実施、監督を行うための兵科だ。

 こちらも上級者は参謀本部に専門の一部局まで与えられて、配属される。軍の通信は、兵站業務にも作戦立案やその実施にも濃厚にかかわってくるからである。

 むしろそのような業務を円滑に処理し、成功ならしめるための最たるものだと見なされていた。

 輜重しちょう科。

 これは兵站の実務を担うためのもの。

 軍用馬車や水運、ちかごろでは急速に発展した鉄道をも用い、後方根拠地から物資を前線へと届ける役割を担う。ただ輸送するだけではなく、物資の管理、貯蔵といったことも彼らの担当。

 この作業と予算金銭面で関わることになる会計科や、各部隊に届けられた食糧を実際に調理することになる調理科などとは、緊密に連絡をとりあうことにもなる。

 オルクセンの国有食糧貯蔵庫や軍用食糧貯蔵庫の多くは、彼らが仕事をやりやすいよう、港湾施設の倉庫区や、鉄道駅に併設されるかたちで作り上げられていた。

 国軍測地測量部というものも存在した。

 参謀本部の部局でいえば、兵要地誌局の下部組織。

 これは、軍用地図を作製するための専門部署で、測地測量に関する技術を持った各兵科将兵選抜者を専属で要し、各地の兵要地誌にもまとめる。

 兵要地誌にはその場所その場所の気候風土や住民気質、地域経済の様子などといったものまで記されるから、そんなものも調査する。

 作戦を立てるにも兵站を実施するにも、その対象地域の地勢地理といった情報が極めて重要なのは言うまでもなく、似たような組織を持つ他国軍もあるが、参謀本部に属していることはオルクセン独特だった。

 そして―――

 ディネルースの魔術力が、何かの気配を捉えた。

 周囲の地上ではなく、空から。

 見上げる。

 あれは。

 やがて巨大な影が、天幕上を通りすぎ、弧を描くように舞った。

 本能からか、丘下の巨狼たちの何頭かが長吠えを上げて、ちらりとアドヴィンに睨まれ小さくなる。

 翼がはためく、大きな羽根音。

 演習統制部の丘から下ったところに、工兵たちの手により白石灰で描かれていた巨大な二重の真円の中心に、巨大極まる翼鳥が降り立った。 

 ―――大鷲だ。

 全身は黒っぽい茶色。

 翼の前半と尾羽、脚の羽毛は艶やかな白。

 嘴は橙黄。

 その色合いが見惚れるほど美しく、凛乎としていて、気高くさえあった。

 翼を目一杯広げたときの端から端までの長さは、六メートル半はあるという、おそらく間違いなく世界最大の飛翔性生物種。

 ディネルースにしてみれば、久方ぶりに、実に久方ぶりに見る。ベレリアンド半島からは駆逐されてしまって久しい種族だ。

 大鷲はその精悍な顔つきを首ごと前後させつつ、意外に器用な足取りで天幕の丘へと登ってきた。オルクセン軍の天幕は、オークたちの体格に合わせてずいぶんと作りが大きいが、それでも手狭になってしまう。

「我が王」

 鋭い嘴に相応しい、切り裂くような質の声音。

「やあ、ラインダース。今日の天気はどうだい?」

 グスタフが、あの軽く手を挙げる仕草で応じた。どうもこの王、よほどの式典でもない限り、誰にでも答礼ではなくその仕草で返すらしい。

「見事な春晴れです。多少雲はありますが、よい日和になることを請け合いますな」

「そうか。アンダリエル少将、君は初対面だったな。紹介しよう。大鷲族のヴェルナー・ラインダースだ。彼らの現族長の、ご子息にあたる」

 大鷲が首を巡らせ、こちらに向き合うと、黄色い嘴を下へ傾けた。お辞儀のように見える。

 どうやらそれが彼らの種族なりの敬礼の仕草なのだと気づいて、ディネルースは少しばかり慌てて答礼と挨拶をする。

 首からは、巨狼のものと同じ意匠の金属板があって、つまり軍に所属している。それに刻まれた階級章を眺めると―――

 なんと、少将だ。

 ディネルースと同じ階級だが、何処の国の軍隊にも先任順序と呼ばれている慣例があり、同階級同士なら先に任じられた者のほうが上官にあたる。金属板の経年の具合から、どうみてもラインダースのほうが先任だった。

 この場合、あとから敬礼してしまったディネルースは失敬な真似をやってしまったことになるが、ラインダースと呼ばれる大鷲に咎める気は無いようだ。

 初対面ならどちらが先任かわからなくて当然、相手は移住してきたばかりの者、ましてや王による紹介対面の場ということで、見逃してくれたらしい―――

 そのように安堵していたのだが。

「ラインダースと申す。国軍大鷲軍団アドラー・コープス、その長を拝命している。以降お見知り置きを・・・そう言いたいところだが―――」

 ラインダースは、奇妙に棘のある言い回しをし、言葉を区切り、彼女を見つめた。

 その瞳。

 猛禽類特有の鋭い眼光の他に、何かを漂わせた光。

 ディネルースには、彼の目に漂うものに、既視感があった。

「私は、貴公と以前遭ったことがある。遠い遠い、あまりにも昔のことだ。おそらく覚えてはおられまい。積もる話もあるが、それはまたいずれ、場を改めて成そう」

「・・・・・・」

 これは。

 この大鷲は。

 思い出すものがあり、言葉に詰まる。

 ふたりの異様な空気を察してか、それまであれこれ騒がしかった天幕内に、沈黙が満ちた。

 グスタフが咳払いをし、

「まぁ、ラインダース。座れ」

 場をとりなした。

 彼は兵たちに予め用意してあった丸太を持ってこさせた。

 天幕の一隅に横倒しにしたそれを、ラインダースが掴む。大鷲は生物としての構造上、座ることが出来ず、これが彼にとってのいちばん楽な姿勢―――着座ということになる。

 ドワーフのカイト少将が何がおかしかったのか下卑た響きの笑い声をあげて、コボルトのシュタウピッツ少将がくすくすと含み笑いでそれに続き、これを合図にようやく天幕内に職務的喧噪が戻った。

 ディネルースは、そっと静かに震える吐息をついた。

 カイト少将とシュタウピッツ少将の笑い声は。

 ―――いい気味だ。ダークエルフ。

 そのように聞こえたのだ。

 ここのところの疲労もあって生じた、気の病み過ぎかもしれない。

 だが、そうではあるまい。

 巨狼、ドワーフ、大鷲、コボルト。

 彼らは間違いなく、ディネルースを―――ダークエルフ族を好意的には思っていないのだ。



 怒りに体が震えそうで、後ろめたさに心臓を鷲掴みにされそうで、悲しみに押し倒されそうで。しかもそれらが混交して己自身にも訳が分からなくなり、ディネルースは部下たちとの連絡にでも立ったという態でそっと天幕を出た。上手く演技できたかどうかの自信すらなかった。

 あの大鷲。

 たしかに記憶にあった。

 七〇年ほど前、エルフィンドが「害獣駆除」を奨励したことがある。

 エルフ族に仇名す魔獣たちを、半島から追い出してしまう政策。

 ダークエルフ族はその政策により、あちらで巨狼を、こちらで大鷲をという具合に狩りをした。

 彼女たちの種族はそれを得意としていたし、倒せば毛皮や羽根が売れ、一頭いくらで国から報奨金も出て、貴重な現金収入を氏族にもたらしたからだ。

 巨狼は、エルフ族の赤ん坊を攫って襲う「恐ろしい顎」。

 大鷲は、国内の他の野生動物を襲う「巨大なる翼」。

 そういうわけだった。

 国の政策がどうであれ、ディネルース自身としては、後者についてはさほど脅威に感じていなかった。

 既にそのころ、生息地の減少や気候の変化により、大鷲はその種族数を減らしてきていて、狩猟を糧とするダークエルフ族にさえ獲物の競合は目を瞑れる程度のものになっていたのだ。

 むしろ極めて稀に大空を舞うその姿を見つければ、美しいさえと感じていた。

 だから―――

 ある日の狩猟行で、若い大鷲が大樹の枝に止まっているのを山道の岩陰から見つけたとき。

 ディネルースは、携えていた弓に矢をかけることさえしなかった。

 そっと魔術力を消し、気取られぬように距離をとりつつ、視覚上の偽装のためにあの民族衣装のフードを被って、その大鷲の朝陽を浴び輝く翼の美しさにただ見惚れ、狩りの対象としては見逃すことにしたのだ。

 それでも、大鷲は賢い生き物だ。魔術力もある。

 やがて彼女に気づくと、じっと見つめ返してきた。

 ずいぶんと長い間、対峙していたように思う。

(我を狩りに来たのか、ダークエルフデックアールブ

 躊躇うような響きを含ませつつ、彼のほうから、魔術を使って話かけてきた。

 大鷲が言葉までを解するのだと知ったのは、そのときが初めてだった。

(いいえ。貴方の姿に見惚れていただけ。この辺りはもう貴方にとっては危険な場所だ。何処か遠くにお逃げなさい)

(・・・そうか。わかった) 

 彼は羽ばたいて飛び上がり、高い空を南の方角に消えた。

 それが、彼女自身にとってはエルフィンドの地で最後に観た、大鷲族の姿である。

 あのときの大鷲だ。

 きっと、そうに違いない―――

 私は彼を助けた。

 だが種族としては恨まれていても、これは致し方のないことだ・・・

「・・・ダークエルフデックアールブ

 背後から、あのときのままに、声がした。

 振り向くと、いつ天幕から這い出てきたのか、ヴェルナー・ラインダースが立っていた。

 種族特有の声音は鋭いものの、何処か戸惑っているような気配がある。

「・・・すまない。あんなつもりではなかったのだ。あとで、かつての礼を言いたいという意味だったのだが。斃された仲間たちのこともあり、棘のある言い方になってしまった」

「・・・いいんだ。大丈夫だ」

 軍の階級を抜きに、個々の付き合いとして話かけられているのだとわかり、ふだんの言葉使いで答える。

「貴方、生きていたのだな? あのときの大鷲だな、貴方?」

「ああ。覚えていてくれたのか」

「もちろんだ」

「そうか」

 大鷲はくっくと喉をならした。笑っているつもりらしい。嬉し気だ。

 ディネルースも、落涙しそうになった。

「あのときはすまなかった。あの場で礼を述べられればよかったのだが。私もまだ当時は若くてな。まだ成獣になりたてだった」

「とてもそんな風には見えないほど、荘厳だったが」

 さきほどの仕返しというように、ディネルースはちょっと意地悪な言葉の響きで返した。

 ただし、ちゃんと意図が伝わるよう、目元や口元、片眉を上げた仕草に諧謔を滲ませている。

「それは光栄至極」

 ラインダースも笑みを大きくした。

「いまではこの国に?」

「ああ。とてもよくしてもらっている。軍では、種族の者たちとともに、王曰く空中偵察と呼ばれるものを担当しようと、その試験部隊の運用をしている」

「・・・・・・空中偵察ルフトアウフクラング?」

「ああ。これもまた、さきごろ参謀本部の考え出したことだ。まったく、彼らは様々なことを思いつく。一言でいえば、貴公ら騎兵がやるような斥候を、空から行う。空は高い。飛べば何でも遠くまで見える。行軍してくる敵など、すぐに見つけることが出来る。そして我らには魔術力がある。例え敵が森のなかに伏し隠れていようが、注意さえしていれば相手を見つけられる」

 ディネルースは愕然とした。

 その効果の高さのほどを想像し、理解し、言葉を失う。

 なるほど。

 なるほど、なるほど・・・!

 ―――なぜ、エルフ族は誰もいままで思いつかなかったのか。

 理由についてはすぐに思い当たる。

 誰も彼らの種族と、まともに交流できなかったからだ。

 ディネルース自身でさえ、彼らが言葉まで解するなど、あのときまで知らなかった。氏族のなかにはそんな伝承もあったが、神話の類だと思い込んでいた。

「いままでは作物の種蒔き時期や収穫時期に空へと上がり、天候を見て、舞い戻って知らせるという生活をしていた。それはそれで、この国の役に立ってきたという自負はあるがね。ちかごろでは、人間族の生み出した気圧計や風向計という技術と組み合わせれば、ほぼ間違いのない、正確な天候を予測できる」

「それは・・・間違いなくそうだな。凄いことだ」

 農家は大助かりだ。市井生活も。

 それでグスタフはまず彼に天候を尋ねたのだ。そういえば、以前そのようなことを口にしてもいた。

 軍隊としても、正確な天候予測を立てられるというのは、たいへんなことだ。

 天候は軍の行動に大きく影響する。

「だが軍にコボルトの魔術通信兵が配属されるようになって、彼らが魔術の使いようによっては遠方の気配を感じ取れることがオークたちにわかるようになると―――では我らの能力も軍に使えないのかと、誰かが思いついたのだ」

「なるほど・・・」

「種族の能力は、それぞれは当たり前のことだと思っている。格別珍しいことだなどとは、思っていないものだ。一緒に暮らしてみて、始めて差異がわかる。やってみないとわからない事ばかりなのだ。私は、彼らがそれほどまでに遠くのことがわからない生き物なのだとは、思ってもみなかった」

 まさしく。

 そう。その通りだ。

 ―――やってみないとわからないことばかり。

 ここのところのディネルースは、それに苦労してばかりいる。

「今日は、我らのうち若い者が飛ぶ。魔術を使える貴公らには理解してもらえると思うが、魔術による通信や探知には、個々の力の差や経験値が大きい。うっかりすると、まるで見つけられなかったり、下手をすると明後日の方向にウェーブを飛ばす者すらいる」

 これもまた然り。

 ディネルースは、魔術とは、人間族たちが絵物語に想像するような万能のものではなく、彼らの言うところの「五感」の、鋭くなったようなものだと思っている。「見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐ」。第六のものとして、「感じる」。

 そんなものが、魔族種はその備わった魔術力によって、より強く使える。

 ところがこれには人間族たちがそうであるように、同じ種族内でも個体差がある。

 近くを見ることが得意な者もいれば、遠くを見ることが得意なものもいる。そんな具合だ。

 言い換えてみれば、魔術とはその程度のもの。

 受動的に使えるものばかりで、他者に直接的に影響力まで及ぼせる魔術は治癒術くらいのもの。

 それとて「元気を分ける」という感覚だ。

 あまりやりすぎると術者当事者がぶっ倒れてしまうため、通常はエリクシエル剤の使用や医学的治療をまず行うようにされている。

 人間族が夢物語に想像するような、「火炎の魔法」だの「氷結の魔法」だのは、ディネルースでさえ見たことがない。神話伝承の時代にはそんなことが出来る者もいたというが、僅かに刻印式魔術にその名残を見出せるくらいである。

 生まれ備わった元々の能力に加えて、経験による補正差も大きい。

 経験を重ねることで、それまで不得意だと本人が思い込んでいた部分が得意なことに変わることもあれば、得意な部分が更に伸ばされ、長所になるという具合に(当然というべきか、悲しいかな、いくらやっても駄目な場合もある)。

 ダークエルフ族の魔術力が高いのは、長年種族として行ってきた狩猟生活に補正された部分が大きいのではないか、ちかごろではそう思っているのだ。若い者を狩りにつれていけば何かヘマをしでかすものだが、やがてそのなかから老練巧緻な狩人が育つとように。

 ラインダースの隊は、その経験値を若い者たちに積ませようと試行錯誤するところまで行っている、ということだ。

 羨ましい。

 まだ我らには、そこまでの余裕はない。だがいずれ、必ず必要になってくることだ。

 我らが狩猟を糧とすることはもう無いかもしれない。

 だが、軍事行動という、もっと物騒で無慈悲で、非情な狩りをやることになる。

「こう言っては何だが―――」

 ラインダースは最後に、やや躊躇うように告げた。

「貴公の御立場には、同情申し上げている。心から。この国にやってくることになった理由も、いま成されようとしていることも。我らとよく似ている」

「・・・・・・」

「私のような若造が申し上げることではないかもしれないが、ドワーフもコボルトも、あるいは巨狼も、ああ見えて物分かりはいい種族だ。だが生き物とは誰しも、頭でわかっていても、心はそれに追いつかないものなのだ。貴公に―――命の恩人である貴女にあんな態度を取ってしまった、いまの私にはそれがわかる」

 彼は、誤解を招かぬよう、慎重に言葉を編んでいた。

 その態度、高潔さ。

 まるで伝説の騎士のようだ。

 これもまた、成そうと思っていてもなかなか実践できることではない。

 羨ましい。

 本当に羨ましい。

 そうして、ラインダースは嘴を巡らせ、その左翼へと寄せ、先の近くから一尾の羽根を啄んだ。

「これを詫びに受け取ってほしい。その美しい軍帽の端にでも刺して頂けるなら、これほどうれしいことはない。誇り高き貴女方には余計な配慮かもしれぬが、その羽根を見れば、彼らの態度も少しは和らぐはずだ」

「・・・・・・・ありがとう」

 ディネルースは心から感謝しつつ、彼の心遣い通りに熊毛帽の左側面、ダークエルフ族部隊の象徴とした金属製の白銀樹葉の飾りに、彼の羽根をつけた。

 天幕に戻ると―――

 それに真っ先に気づいたのはグスタフで、彼はちょっと驚いた顔をしたあと彼女に頷き、そしてあの茶目っ気のある仕草で片目を閉じてみせた。



 「将軍の丘」には、まだやってくる者があった。

 視察参加としては、最後の到着者。

 彼らは午前七時ごろに到着した。

 どこどこと蹄の音と地響きを立て、幾騎ものペルシュロン種が“駆けて”きて丘の下で止まり、野戦厩に馬を預け、付き従えた部下たちとがいがいわやわやと笑声を含む騒がしい声を立てながら、そのオークは丘を登ってきた。

「我が王! 我が王よ!」

「おお、おお! 来たな!」

 驚くべきことに、グスタフはその牡が幕下に到着せぬうちから実に嬉しそうに自ら立ち上がり、彼自身のほうから天幕外へ駆け寄って、固い握手と抱擁を交わして、出迎えた。

 王が立ち上がった以上、必然的に天幕内の全員が従う。

「シュヴェーリン、シュヴェーリン、シュヴェーリン! この悪党! 我が牙! 蹄の音でもう誰かわかったぞ!」

「ふふふふ、誰が悪党ですか! また転びますぞ! 我が王、ご健勝のようで何よりであります!」

「シュヴェーリン、お前も元気そうで良かった!」

 オーク族にしても大きな声、大きな体躯だ。

 声音は銅鑼の音のよう。

 ディネルースがさっと階級章を読み取ったところ、上級大将。

 この国では、元帥位は戦場で要塞を陥落させたものだけに与えられる階級で、現在は誰もいないと聞いているから、つまり現役軍人としては最上位級。その上級大将とて三名しかおらず、そのうちの一頭。

 右眉の眉尻から唇の端まで傷跡があり、そちらの牙が折れていることから、明らかに歴戦の士。

 ―――まさか。

 などと思う。

 まさか、あの・・・

「北部軍司令官アロイジウス・シュヴェーリン、ただいま到着致しました」

 ざっと敬礼をして名乗る名に、やはりかと、得心する。

 周囲と揃って出迎えの敬礼をしつつ、ディネルースは驚きもし、運命の悪戯に面白みを感じてもいた。

 おやおや。

 おやおや、おや。

 今日はまるで昔日の回顧会だな、そう思っている。

 彼女にさえ、名や風体に聞き覚えがあった。

 歴戦も歴戦。

 ディネルースは、オーク族の軍勢のなかで絶対に一対一で立ち向かってはならない闘将、もし戦場で相まみえた日には脱兎のごとく逃げろ、そう聞かされた。一二〇年前の、ロザリンド谷で。つまり、もうそんなころから一軍を率いていたオーク。

 生きていたとは・・・

 なにしろ、ロザリンド谷の会戦のころは、グスタフなどまだ一兵士だったと彼自身も言っていた。

 ふたりの間にいったいどのような一二〇年があったのか、まるで実の親子のように親しそうで―――そして、そのような闘将が、いまでは心の底からグスタフを王として敬しているらしい。

「よう、ゼーベック。まだくたばっておらなんだか、お主」

「残念ながら、な。お主より先に死んでは、悔やんでも悔やみきれん」

「ふふふふ、いい加減、貴様秘蔵のワインを全部寄越せ! ちゃんと遺言してあるんだろうな?」

「誰がそんな遺言残すか・・・!」

 そういえば。

 ―――参謀総長殿も、なのよね。

 続く軽妙な挨拶の様子に笑いを堪えつつ、ディネルースは往時を思う。

 今更ながら、妙な気分になる。

 この牡たちと、かつて戦場で相まみえていたのだ。

 火打石銃と、銃剣。

 まだ槍を携えている者さえいた。

 当時の戦の、なんと単純だったことか!

 いまでは現代兵学とやらを、彼らから学ばなければならない身になっている。本当に今更ながら、何とも奇妙な立場になってしまったものだ。

 シュヴェーリンと各将が挨拶を交わした、その最後。

 グスタフは、ディネルースと彼を引き合わせてくれた。 

「ほう、貴公がな! 話は聞いておるぞ。うん、うん。たいへんだったな」

「少将。シュヴェーリンは、あのとき君たちを助けた第一七山岳猟兵師団の、平時編成としてはそのずっと上のほうの親玉ということになる。今日は彼の別の隷下部隊が、師団対抗演習の一隊だ」

「我が王。親玉はありゃせんでしょう? 私は山賊か何かですかな?」

「山賊みたいなものじゃないか、この悪党!」

「ふふふふふ!」

 なるほど、北部軍といっていた。

 オルクセンの北方といえば、エルフィンドの方角だ。

 ディネルースは、丁寧に礼を述べた。

 いやいやなになに、儂は何もしとりゃあせん、などと応じる将軍の屈託のなさに、好感も抱く。

「少将。もし差支えなければ、だが―――」

「はい、閣下・・・?」

「閑なときでよい、ロザリンド谷のころを聞かせてくれまいか。あのころの貴公らに何故敗れたのか、細かなところが気になって気になって、この一二〇年、昼と夜しか寝れなんだわい!」

「・・・ふふふ、ふふふ! はい、小官などで宜しければ。喜んで」

「そうか、そうか! いやはや、この年になってかような経験を得られようとは。ありがたいことじゃて!」

 実に楽しい気分だ。

 同時に、この老将にして闘将が、彼なりの方法でディネルースの身を気遣ってくれているのだと気づき、舌を巻く。どれほど用兵術や兵器が進化しようとも、他者の心を掴み、盛り立てる術というものは変わらないものだ、そう感嘆する。

 ちかごろでは、あれほど見分けさえつかなかった彼らの性格や感情、個性といったものが、少しづつだがわかりかけてもいた。

 ようするに、彼らの目を見ればいい。

 グスタフ王は、子供のようで。

 ゼーベック上級大将は、まるで哲学者。

 シュヴェーリン上級大将は、豪放磊落な親父殿。

 そんなところだ。

 楽しい。本当に楽しい。

 振り向くと。

 カイト少将とシュタウピッツ少将が、つとめてそうしているかのように部下たちと環を作ってこちら背を向け、生真面目にあれこれ話し合っているような真似をしていた。

 演技だというのは、いささか焦りの色を隠しきれていないのですぐにわかった。

 ―――そういえば、あのふたり。おそらく軍歴からいって、実戦経験はなかったな。

 階級章の線の数より、経験の数。

 確かにそういった価値観も、軍隊には存在する。

 ディネルースは、ますますよい気分になった。

 自席である末席へと戻りつつ、だがふと今更ながら、いままでの会話にひっかかる箇所があったことに気づく。

 第一七山岳猟兵師団。ベレリアンド半島への、エルフィンドへの直近部隊。

 上部組織の北部軍。

 その隷下部隊が、師団対抗演習の参加部隊?

 ヴィルトシュヴァインから北部まで、ここから二五〇キロある。それも直線距離で。

 演習の実働開始は昨日。

 この闘将、その配下部隊。いったい、どうやって到着したというのだ、この場に?


 

「赤軍担当、第一擲弾兵師団長マントイフェルであります。本日はよろしくお願い致します」

「青軍担当、第七擲弾兵師団長グロスタールであります。こちらこそお手柔らかに」

 二名の中将が握手を交わして、それぞれ随行していた幕僚や副官たちとともに、演習場の南部と北部に散っていく。

 第一擲弾兵師団、師団愛称グロース・ヴィルトシュヴァイン。

 この首都ヴィルトシュヴァインに衛戍する、言ってみれば首都防衛師団。つまり陸軍最精鋭とされている部隊。この演習では仮想状況として防禦側の赤軍を担当する。

 第七擲弾兵師団、師団愛称ノルデン・イーバー。

 北部軍隷下。オルクセン国軍が創設されたとき、同時に作られた最古参師団の一つ。この演習では、赤軍が守るべきとされた地域に進攻してきたという想定の、青軍を担当する。

 擲弾兵というのは歩兵に対するオルクセン国軍独特の呼称で、つまり両者は軍の主兵たる歩兵師団。  

 それぞれその全力がこの場に展開しているわけではなく、双方とも擲弾兵一個旅団に砲兵大隊一個、騎兵中隊一個、工兵中隊一個、師団輜重段列半隊の抽出部隊。  

 ただし、平時編成ではなく、戦時編成―――

 現代軍隊には、そんな区別がある。

 軍隊を常備しておくことは国防上必須のことだし、理想から言えばいつでも戦えるようにしておくことは望ましいに違いない。

 だが兵員数や編成単位が膨大なものとなってしまった現代の軍隊でそんなことをしていたら、国防予算はあっという間に干上がってしまうし、軍隊に採られる頭数が他の産業を圧迫して、やがては国家そのものの屋台骨を食いつくしてしまう。

 そこでちかごろでは多くの軍隊で、戦時に部隊の中核となることができる将校たちと、基幹の兵数を最低限だけ―――おおよそ戦時の半分ほどだけを平時は維持しておいて、いざ事が起きれば兵を動員、補充して完全な状態にする、というやり方が生まれた。

 軍事用語で「充足」という(当然というべきか、戦時動員制を採っている国の軍隊でも、国境警護の兵など緊張度の高い隊などには、ふだんから完全充足状態の部隊もまた存在する)。

 オルクセンの場合、これに国民皆兵主義による徴兵制という仕組みがのっかっている。

 まず、成獣のうち牡の国民は誰でも等しく国家への崇高な義務として徴兵され、四年間軍隊に所属して兵隊の訓練を受ける。  

 そして徴兵期間を終えると社会に戻るが、そこから更に四年間は予備役兵というものに登録される。

 戦時になるとまずこの予備役兵が動員され、軍隊を完全な状態―――戦時編成に仕立てあげるというわけだ。

 これはデュートネ戦争以降生まれたもので、似たような制度をとっている国は他にもあるが、オルクセンの場合はより詳細で、精緻で、考え抜かれた制度を作り上げている。

 志願による義勇兵を中心にした常備軍制を採っている国も多いが、オルクセンはそのような仕組みをあてにならない制度だと見なしていた。

 志願制は国民の教育水準と国への忠誠心が高い国ならやれ、オルクセンも充分にその対象になりえたが、平時においては兵の数にばらつきが起こりやすく、軍に食い詰め者やならず者といった層が集まりやすくなるという悪弊もあり、徴兵制を採っている。

 オルクセンの徴兵制は、如何にして質の高い兵を用意し、また戦時においてこれを動員するか、という制度だ―――

 まず、徴兵はまさしく国民誰もが負う国家への義務にして権利であると考えられていて、他国では当たり前の兵役回避行為―――金を払うであるとか、代理を立てるであるとかいった方法で逃れることは出来ない。

 このために、オルクセン国民なら誰もが持っている、現在住まう場所の行政州に登録されている戸籍簿を活用する。

 成獣の牡はみな徴兵検査という、国家による一種の身体測定を受けていて、これにより体力体格、視力や聴覚、更には魔術力の有無などの項目から、軍隊へ属することへの向き不向きを診断測定される。

 この段階で、明確に定められた基準のもと、不向きだと判断された者は軍隊にはとらないことになる。

 やはり同様に定められた基準により、既に社会に対して大きく責任を果たしていると思われている国家公務員の特別職者や高度教育関係者、また医学科などの学生も対象外。不平等感を生まないための処置だ。

 元々徴兵検査で合格とされた者も、国内総頭数に比して軍の総員はそう大した割合ではないから、その全員は引っ張られない。適正の高い者から軍に入る。

 そうした上で兵役を受け、郷土を根拠地とする持つ部隊に入り、兵役を終え、予備役兵になると、今度は所属連隊のある場所から移動連絡に二日以上かかる場所には居住してはならない。その範囲内なら居住地を移すことは構わないが、その場合は戸籍簿の現住所項目を必ず変更しなければならなかった。

 長期間在所を離れることになる旅行などもご法度。

 戦時にはもちろんのこと、予備役兵訓練をやる場合などに軍が出す、戻って来いという命令書―――予備役兵召集令状に素早く応じるためだ。

 徴兵制のなかでも、郷土部隊方式という。

 ここ三〇年ほどの間に確立された仕組みで、すでに予備役兵たちの更に予備、五年間の後備役兵というものに登録されている者も珍しくない。

 戦時には自ら軍に志願しようと、退役軍人や兵役経験者が半ば自主的に作り出した、国民義勇兵に所属している者までいる。

 上手い制度だ。

 毎年毎年、社会には軍隊経験を積んだ者たち―――不幸にも戦時となったときの兵隊候補が増え続けるうえに、予備役兵や後備役兵は軍が行う定期的な訓練召集に応じることで、最新の兵術や兵器の知識技能を会得できるよう、鍛え直すことも出来る。

 今回の演習でいえば、第一擲弾兵師団も第七擲弾兵師団も、演習参加予定隷下部隊に属する予備役兵の動員を、一週間ほど前に実施した。

 そうして彼らに被服や装備を与え直し、兵士としての勘を取り戻させるための初歩的錬成をやり、戦時編成状態でこの演習地へとやってきたのである(演習が開かれるからといって、必ずしも予備役兵動員が行われるわけではない。平時における予備役動員は年に二度までと定められていた)。

 これだけでも舌をまくほど上手く出来た制度だったが、ディネルースを驚かせたのはその点ではなかった。

 そのように動員された第七擲弾兵師団が、衛戍地であるオルクセン最北部のメルトメア州を出発したのは、昨日だというのだ。

 鉄道を用いていた。

 非常に精密に運用され、鉄道網も国土に縦横に整備されたオルクセン国有鉄道社が二二両編成の軍隊輸送特別列車を何編成も仕立て、参謀本部兵站局鉄道部と協議しつつ、分単位でこれを運航する時刻表を組み、演習場北部の、複線プラットホームの兵站駅まで持つ引込線へと第七擲弾兵師団抽出部隊を輸送した。

 もちろんそこはオルクセンのやることであって抜かりなく、途上各地の駅に併設している食糧保存庫と停車時間とを活用して輸送中の兵に配食を整えるといった、微に入り細を穿った真似までおこなっている。食わせなければ、オークは耐えられない。

 オルクセン国軍は、もう二〇年も前から鉄道による軍隊輸送について研究してきた。

 国軍参謀本部兵站局局長のカイト少将は、元々は鉄道の専門家で、また彼の下でいま兵站局鉄道部を預かっているヴァレステレーベン大佐も同様だった。

 いまでは、研究結果も広範な実績値としてまとめられている。

 例えば、だが。

 現制度における完全充足の一個擲弾兵師団一万六〇〇〇名を、その保有馬匹四五〇〇頭、輜重馬車四〇〇両、火砲七二門ごと二五〇キロ移動させるには、八両貨車編成の鉄道で四二列車、二二両特別編成貨車で一五編成、最短二日で全部隊移動出来ることが可能であるとわかっていた。

 何度も実験を重ねているので、鉄道そのものはもちろん、周辺で起こる諸問題についても判明、解決を図る努力が払われている。

 ―――なんてこと。

 これほど迅速に、これほどの距離を、しかもこれほどの大兵力を移動させうる軍隊は、おそらく世界中どこにもない。他国でも―――エルフィンドでさえ軍隊の鉄道輸送は試されているが、これほど早くなかった。

 振り返ってみれば、いくらでもそこに思い至るための材料はあったのだ。

 飢餓への恐怖感から、国土各地に配された食糧庫。

 やはり同様の理由から、異常なまでに発達した物流網のうちの一つ、鉄道網。

 これに併設されるかたちで設けられている、電信網。

 軍の魔術通信網。

 練りに練られた、動員制度。

 鉄道など、ディネルース自身もその恩恵を受け、この首都へとやってきたのではないか。あのとき、「ただの一度も乗り換えすらない」と感心していたのは、誰だったのか。

 なによりも、それらのものを作戦と兵站のために活用する方法ばかり考えている、あの参謀本部という常設巨大組織。

 だがそれら一つ一つの事象は、こうやって実際にその成果を目にしなければ、あまりにもエルフィンドや他国と様子が違っていて、てんでばらばらに頭の中に納まっており、実感を持って結合されていなかったのだ。

 グスタフの周囲の側近が、軍人ばかりな理由もようやく理解できた。

 この国は。

 このオルクセンという国は。

 国家が軍隊を動かしているのではない。

 軍隊が国家を動かしているのだ。

 ディネルースはようやくそれに気づき、全身が震えるほどの衝撃を受けていたが―――

 直後、まだ理解が足りなかったのだと、思い知らされ、打ちのめされることになる。

「それでは、演習目的事前説明を開始させていただきます」

 午前九時五〇分。

「ただし、言うまでもなく、これから広げるものは軍機に属します。一切の他言は無用に」

 天幕内に立ち上がったゼーベックが、控えていた兵たちに頷いた。

 彼らの手で、天幕中央の机を覆い隠していた天鵞絨の布が外される。

 大地図。

 歩兵や騎兵、砲兵といった彼我の兵力配置を示す、青と赤に塗り分けられた駒型のもの―――兵駒。

 指揮棒や縮尺。

 演習統制に必要なものばかりだったが、ディネルースは奇妙な箇所に気づいた。

 この演習場の地図などではなかった。

 もっと広範なもので、まるで別の場所が描かれている。

 オルクセンの北部。

 そしてベレリアンド半島の全て。

 ―――これは。

 配置された駒の数と規模もまるで合わない。

 歩兵大隊が旅団に、師団が軍に。そんな具合に規模が拡大され、仮想のものも配置されて、青軍赤軍の彼我ともにシルヴァン川流域で向き合っていた。

 国境部のオルクセン側に配置された兵力は、総じて

 ―――これは。これは・・・

「本日の演習は、師団対抗演習を利用した鉄道機動実験及び最新兵術実験。そしてこれを補正材料として使用する、国軍参謀本部第六号作戦計画の、第五次修正検討図上演習であります。演習の性質上、師団対抗演習参加部隊には目的を知らせておりません。そちらの統制は、当演習地庁舎に別におかれた統制部が行います。また、我らの図上演習対抗指揮は、参謀本部庁舎にて騎兵総監ツィーテン上級大将及び参謀本部作戦局の一部参謀が担当。全体統制もまた別にそちらにございます」

 言葉を切ったゼーベックは、ほんの少しの間、ちらりとディネルースを見つめ、目を伏せる。

 その仕草に、目に浮かんだものに、気遣うような気配があった。

「第六号計画は、皆様ご存知の通り。五年前に策定しました、です。今回は想定戦域において軍要求の鉄道網六本全てが竣工を終え、またため、大幅な修正が必要と判断致しました。ゆえに本作戦が実施されました暁には、主力軍司令官就任予定のシュヴェーリン上級大将にもご参加いただきました」

 ―――対エルフィンド。

 ―――七万。

 それは・・・

「午前一〇時。それでは、状況を開始致します」



「えらいものを見せられてしまったと、思ってるんじゃないか?」

 グスタフが言った。

 演習開始が告げられたあと、自身としては何もやることがなく閑なのか、天幕外に出て砲隊鏡を覗き込んでいる。

 少将付き合えと呼ばれた、ディネルースはこれに従っていた。

 既に彼女の配下たちの殆どは、演習地の各所へと散っている。

 あの師団長同士が南北に分かれたときにだ。

 演習の何処を見るにも自由とされ、希望はあるかと尋ねられ、そのようになっていた。

 手元には、旅団参謀長就任予定のイアヴァスリル・アイナリンド中佐と、作戦参謀就任予定のラエルノア・ケレブリン大尉が残っている。彼女たちとディネルースは、この統制部の丘で見分を広めることを選んだ。

紙の上の戦争クリーク・シュピール、というんだ」

 軍の実戦部隊に経験を重ねさせ、また司令部にその経験を反映させるには、軍隊を実際に動かしてみるのがいちばんだ。それが演習。

 だがそんなことは、頻繁に出来ることではない。

 大規模なものとなると、周辺国の警戒も買う。

 その警戒を解くためには、各国公使館の駐在武官や、新聞記者たちを受け入れることになるのだが、そうなると今度は秘匿したい戦術、兵器の類が隠せない。

 予算もかかる。

 そこで、紙の上で戦争をやる。

 大地図を広げ、軍の将軍たちを集め、それぞれに軍を率いさせ、競わせる。あるいは軍幹部や参謀たちには見分を広めさせるために見学させる。

 机上の空論、現実乖離と成らぬよう、用いられる諸元値は過去及び現在、実地で計測したものを使う。

 これだけの距離を行軍するには何日かかるか。

 一つの戦闘でどれだけ食糧や弾薬を消費するか。

 その命中率は。

 天候がどれだけ影響を及ぼすか。

 その他諸々。

 なんと不確定要素を再現するため、彼らはその方法まで考案していた。

 例えば、射撃戦を展開した場合、その命中率の最大値と最小値の間を六つに区切る。彼我両軍が接触すれば、そこでサイコロを振るう。出た目で選ばれた数値がその仮想戦場での命中率だ―――

 図上での兵棋を並べる行為はどこの国でもやっていたが、それはもっと児戯めいたもので、現実をそのまま再現するためのものに過ぎず、仮想のものをこれほど大規模化し、詳細を極め、精緻なものは他国にはなかった。

 ―――だが、グスタフ王が言いたいのは、そんなことではあるまい。

「衝撃を受けなかったかと聞かれれば、嘘になる」

 周囲に誰もいないのを確認していたから、そっと平素の言葉使いでディネルースは答えた。

 彼女は、グスタフ王が何を見せたかったのか、正確に理解していた。

 参謀本部とは何たるか。

 オルクセン国軍がどれほど周到な組織なのか。

 そして、

「少なくとも、もう五年も前から、貴方たちはエルフィンドを討つつもりだった。用意周到にその計画を練り続けてきた。そして―――その対象には私たちも含まれていた、と」

「そうだ」

 砲隊鏡を覗き込む姿勢から起き上がり、まっすぐにディネルースを見つめ、グスタフは頷く。

「私の臣下を辞めたくなったんじゃないか?」

「・・・・・・」

「降りるのなら、いまのうちだぞ?」

「・・・・・・」

「こう見えて、私は傲慢に他者を見る。手元に置く者を選ぶ」

「・・・馬鹿にしないでもらいたい」

 きっぱりと答えてやった。

 この王を、引っ張り倒してやりたくなるほどの怒りがこみ上げている。

「あの程度のことでこの私が―――我らダークエルフが凹たれるとでも?」

「・・・・・・」

「国家が戦争に備えるのは当然の行為。そして、このオルクセン最大の仮想敵国はエルフィンド。かつて貴方自身が既にそう言ってくれていた。包み隠さず、あの山荘で。そのエルフィンドは、シルヴァン川流域国境線から南には何の興味もなく引き籠ってばかりいるから、決着をつけるには攻め込むしかない。これもまた当然の論理的帰結。そして侵攻計画を練りに練ってきたのなら、私たちダークエルフもいままで仮想敵になっていて当然。なっていなかったのなら、それこそ我らを馬鹿にしているのかと怒り狂うところだ」

「・・・・・・」

「王。オーク王。貴方、これは試しているのだな? 我らに武器を与え、軍の一部と成し、本当に白エルフどもと戦う気があるのか。オルクセンとエルフィンド、どちらの側に立つ気なのか。本当にこの国の民になる気があるのかと我らにご下問いただいたわけだ。並の者なら、踵を返すだろう、確かに」

「・・・・・・」

 王の表情、態度はまだ崩れない。

 彼の思慮はその先にある。

 それが分からぬ我らではない、貴方を引っ張り倒したくなっている原因はその先にあるものだと、ディネルースは言葉を紡ぐ。

「これが貴方の気遣い、我らへの気遣いなのだとわかっていないとでも?」

「・・・・・・・」

「シュヴェーリン上級大将やラインダース少将と私を引き合わせたことも含めて、だ。試した上でなお、我らが旅団編成に奮起邁進すれば、如何なコボルトやドワーフたちと言えども我らを受け入れる。例え我らを内心嘲り道具とみなそうと、安っぽい騎士道精神で同情しようと、我らを受け入れる。この国の一部として受け入れる。貴方が本当に試しているのは、我らではなく軍の高官たちだと気づいていないとでも?」

「・・・・・・・」

「貴方は我らが降りるとは最初から露ほども思っていない」

「・・・・・・・」

「そしてそれに気づかぬ我らだとも思ってもいまい。本当に馬鹿にしている」

「・・・すまん。いや、本当にすまない」

 グスタフは、その瞳をまるで子供のようにしょんぼりとさせて、実に呆気なく詫びの言葉を口にした。

 巨躯が、縮こまってさえ見えた。

「・・・ふ。ふふふふ」

 ディネルースは微笑んだ。

 勝利を得た気がしている。偉大な勝利。

「貴方、前から言おうと思っていたが。優しすぎる。優しさの発露方法が、他者から分かりにくいほどといってもいい。そこまで相手のことを考えている。一匹の牡としては素晴らしいこと。感謝もしている。でも、王としてはもう少し、堂々とされるがいい。傲慢になるといい。それでも臣下はついてくる。この私もそうだ。こんなものは傲慢のうちに入らない。慈悲深い。深く、深く、底が見えないほど深い」

「・・・そんなものかな」

「そんなものだ」

 確信がある。

 あの山中で彼女を見つけ、彼女とその同族を救い出す決意を固めたとき。

 この王は半ば勢いで、見捨てられなくなってそれを成したに違いない。

 冷静狡猾な王なら、エルフィンド国内エルフ同士の種族間闘争など、どれほど凄惨なものだろうともこれを見捨て、全てのダークエルフを白エルフどもに殺害させ、そうしてからこれを利用し、周辺国に喧伝してしまえばよかったのだ。

 ―――あの場で必要になったのは、生きた我らではなく、私の死体だけで十分だったはずなのだ。

 ダークエルフ旅団が、純粋に軍事的要求だけでなく、そのような政治的手段の代替であることまでディネルースは理解していた。

 旅団を編成し、これを内外に喧伝すれば。

 エルフィンドは、いったいなぜそのようなものがオルクセンに誕生したのか、周辺国にあれこれ言い訳しなければならなくなってくる。

 エルフィンドが人間族の国々から抱かれている心象である、清廉さ、可憐さ、静謐さ。神話的色彩を帯びた光輝。そんなものは一気に吹き飛ぶに違いない。

 それは我らも望むところ。

 そう、望むところなのだ。

 もはや我らには白銀樹ふるさとはない。

 悲しむべきかな、故国だった国こそが世でいちばん憎き相手だ。

 そしてそれをグスタフ王は知っている。

 あの夜、憤怒と憎悪に燃える我らの姿をまざまざと見て、この国の誰よりもそれを知り抜いている。

 そのうえで。

 降りる選択肢までも提示してくれたのだ。

 この新たな生存の地もまた、決して妄想家の抱くような理想郷などではないのだと、包み隠さず見せてくれたのだ。

 生き残るためには何でも利用する、悪事も巡らせている、日々爪と牙を研いでいると。

 ディネルースには、やはり確信がある。

 この王は、降りるかと尋ねた。軍になど入らなくとも、あのヴァルダーベルクの地で平穏につつましく暮らしていくことはできるのだと、我らに掲示したのだ。

 この国では農業に従事することも立派に国に尽くすことだ。

 牡に兵役はあっても、牝にはない。

 降りてもなお、決して彼は我らを見捨てはしないだろう。

 性格から言っても、王としての矜持としても、オルクセンという国からしても。

 そのうえで、地獄に付き合う気があるのかと尋ねたのだ。

 ―――糞くらえ。

 糞くらえだ。

 今更なにを。

 上等だ。

 それが、それこそが我らの望みなのだと、ディネルースは駄目押しの答えをした。

「それで。我が王」

「うん?」

「この演習、ここからも何か驚くようなものを見せていただけるのでしょうか?」

「・・・ああ。請け合うよ。我が軍は―――君の、君たちの軍は強い。エルフィンドなど一撃で滅ぼしてやれるぞ、少将」


 

(続)

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