第2話 へいわなオークのくに②

 ―――翌年、星暦八七六年。

 春を迎えようとしている。

 ベレリアンド半島から南々西へ直線距離にして約二五〇キロ。

 オルクセン王国首都、ヴィルトシュヴァイン。

 低地オルク語で「猪」を意味するこの都に、ディネルース・アンダリエルはいた。

 この天体において人間族や魔種族の多くが寄り集まるように生を営む文化圏のひとつ、星欧大陸スタリオンの西部、そのほぼ中央。

 森林と河川、湖沼が点在し、なだらかな起伏の平原が広がり、大陸の過半を占める広大で平坦な低湿地帯の東端近くに位置する。

 これより東方には世の成り立ちのころに形成された幾筋もの源流谷が走り、その一つを流れてきた河川の一本を南北に挟み込んだ、美しい都だ。

 華麗さや豪奢さよりも、質実ともに剛健や堅実の匂いがある。

 在住知的生物の数は、約一〇〇万。

 数百年前からオーク族の中心地として形成されはじめた西部の旧市街と、ここ五〇年ほどの間に作り上げられた東部の新市街、そして近年の口数増加により市域に取り込まれはじめた外周の郊外とに分かれる。

 郊外には広大な平野部を利用した農地と農村とがあり、旧市街には木と漆喰、石材を用いた前星紀からの伝統建物の数々が居住街と職工街をつくり、新市街には鉄骨と大理石、彫刻による大規模建築が官庁街や商業区を形成していた。

 とくに後者には、大廈高楼が並び建つ。

 歩車道の別がありよく整備された広い石畳舗装の道路網と、水運路、そしてオルクセンの各地方へと伸びる鉄道があり、市内へも国内各所へも交通の便は良い。

 秋には呆れるほど大きなドングリの実をつける常葉樹マテバシイの街路樹がふんだんに植えられていて、公園、噴水の類も多い。

 街のどこもかしこもが、たいへんな繁栄の下にあった。

 ―――信じられない・・・

 ディネルースは何度思ったことか。

 人間族の国々にも、これほどの首府はそうそうには存在しないだろう。

 彼女には都市に思えていたエルフィンドの首都ティリオンでさえ、ヴィルトシュヴァインと比べればまるで田舎街だ。

 これがかつてエルフ族や人間族をして「暗黒の森」と呼ばしめた、あのオーク族の支配領域、その都だとは。

 巨狼も、ドワーフも、コボルトも、大鷲も住んでいた。

 頭数の七割まではオークが占めていたが、残りの三割は他種族。

 彼らが種族の違いを理由として争うこともなかった。

 優れた行政統治、公正な税制と平等な教育、統一された言語、国民全てに保証された職業選択の自由、明確に制度化された徴兵制がそれを成しているという。

 驚くべきことに、人間族の国々の幾つかの、公使館まであった。

 彼らの過半が信じる宗教、この星欧大陸に絶大な影響を持つ聖星教スタリックの教会をも。

 魔種族とはあまり折り合いのよいものではないから、これは基本的には在留人間族のためのもので、大っぴらな布教活動こそしていなかったが。

 オーク王の言葉通り、彼らとさえ交流しているらしい。

 そしてこのような都市は、規模こそ首都のそれに劣るものの、オルクセン各地に存在し、街道と内陸水運、鉄道網で結ばれていた。

 現に残存ダークエルフ族は、北部からこの都までただの一度も乗り換えることなく、またさほどの期間を要することもなく、毎日のように何編成も用意された特別仕立ての鉄道でやってくることができた。

 ―――ロザリンド渓谷の会戦から一二〇年。

 これが本当に、僅か一二〇年前まで周囲の土地を侵し暴虐の限りを尽くした、あのオークの国なのか。

 だが例えどれほど信じられなくとも、ディネルースと、彼女の種族もその繁栄の恩恵を受けようとしていた。

「汝らは我が民だ」

 オーク王の言葉に偽りはなかった。

 新市街北西外縁、郊外の地ヴァルダーベルクに、新たに形成されることになった一区画を彼の勅命により与えられ、まずは同地に纏まって住まうことになったのだ。

 元々はオルクセン陸軍の首都第三演習地と、隣り合わせて王立農事試験場の一つが存在した、ふんだんな森と湖沼、農地転用可能な放牧地に囲まれた場所である。そこへダークエルフ族のために煉瓦と漆喰、木材、鉄骨、石材を用いた小さな町が国家予算を財源に慌ただしく建てられつつあった。

 脱出行以降、その演習地用兵舎に治癒と療養を受けつつ仮住まいしていたが、この用地ごとダークエルフ族に下賜された格好である。

 ダークエルフ族はこの兵営で一つの纏まった陸軍部隊を新たに編成、これを錬成しつつ、農事試験場と周辺平原の一部を一種の共同農地として与えられ、軍に属さぬ者の経済的な自立も目指す―――

 軍部隊としての被服や装備、火器、果ては僅かばかりとはいえ当座の生活資金まで援助金のかたちでオルクセン国持ち。

 軍に入ることになる者の給金も、オルクセン陸軍将兵と全く同じ水準で支給される。

 非正規部隊ではなく、正規の国軍部隊なのだ。

 既にオルクセン陸軍省は部隊を仮称ダークエルフ旅団として、年度予算とは別にプールされている臨時軍事会計から予算措置も終わっていた。

 望外に過ぎる扱いだった。

 これもまた驚いたことのひとつだったが、オーク王がそのようなダークエルフ族への処遇を決断すると、まるで抵抗もなく国家及び地方行政や国民はそれを受け入れ、実行した。

 この国の誰も彼もが、王に従うことは当然だと思っているのだ。

 オルクセンに行政省庁や軍中枢、州自治体はあっても、議会は存在しない。

 王への助言や提言はあるが、一度決断が下されれば異論や不平はない。

 グスタフには、統治権、兵事大権、外交権、立法権、司法権があり、この国の主要な憲法及び法令は彼が定めたものだ。

 全てを王が決する、強力な中央集権。

 そこが人間族の国々からみればやや時代遅れな統治体制だが、魔族の国らしいといえばらしいところだった。

 それは恐怖政治などではない―――

 これを証明し、ディネルース自身が実感する出来事も既に幾つか経験していた。

 三月上旬のとある土曜日、この日の朝もまたそうした経験を重ねた日だった。

「さあ着いた、ここだ」

 ヴィルトシュヴァイン中央区、森林公園。地の言葉ではヴァルトガルテンガーデン

 王都最古にして最大の公園を、オーク王グスタフ・ファルケンハインは馬車や馬ではなく、徒歩で訪れていた。

 オルクセン陸軍将官の常装軍服である、黒色を基調に赤い縁取りパイピンクを配した六つボタン二つ列の立襟ダブルブレスト上衣、同じ配色で太い側線が二本、細線が一本入ったズボン。

 樹々に芽吹きを見出すこともできる三月とはいえ、この地方にとっては未だ扱いのうえでは冬季。肩章付きの軍外套を羽織っている。外套の一番上のボタンは閉められておらず、幅広の襟の赤地をより見せて、少しばかり伊達者の気配。

 腰にはサーベルと短銃。

 目深に被っているのは、式典などに用いる制帽である軍用兜ピッケルハウベではなく、略帽扱いの鍔付きオルクセン式軍帽。

 つまり、軍の将官たちと何ら変わることのない姿だ。

 違いがあるとすれば、肩の階級章が国王を示す大元帥のそれであり、ズボンの側線の太さも同様であること。それのみだった。

 狩猟服などと比べれば遥かに公的なものに近かったが、彼の地位権力を思うなら殊更着飾った姿というわけでもない。

 豪奢な宝石をはめ込んだ指輪であるとか、無垢の金銀を用いた特別仕立てのカフスであるといったものは、まるで身につけていなかった。

 強いて装飾品に近いものを挙げるとすれば、軍服のポケットに吊り鎖で収まった、オーク族向けに大振りなつくりの懐中時計くらいのものか。それとて言ってみれば実用品だ。

 ただし、あの巨狼アドヴィンを連れている。

 この肩高一メートルを越える巨大な灰色狼は、過去に一体何があったのかグスタフを主君とも主とも慕っており、王が何処へ赴くにも彼のほうからついていく、一種の警護役だった。

 実のところ、ディネルースはこの巨狼族が苦手だ。

 神話伝承上も歴史上もエルフ族をときおり襲ってきた魔獣種であって密かな恐怖の対象であり、ベレリアンド半島からの駆逐にはダークエルフ族や彼女自身も一役買っていて、じっとその巨大な瞳で見つめられると強烈な後ろめたさもあった。

 だが、言ってみればこの巨狼は彼女の命の恩人でもあり、努力して少しずつ心理的距離をつめようとしている、そんなところだ。

「この公園だ」

「・・・ここですか?」

 ディネルースは臣下の言葉使いで尋ねた。

 彼女もまた軍服姿だった。

 ただしダークエルフの部隊が新たに編成されるにあたって採用された、隊独自の意匠のもの。

 彼女の率いる隊は馬術巧みな種族の特性を活かして騎兵を中心に編成されることになっていたから、オルクセン式の騎兵将校仕立てだ。

 全身黒を基調に、銀絨の飾り紐と縁取りを施された肋骨服。背のほうにも同じ配色で飾り縫いの細線が入っている。

 騎乗用に裾を絞って股には余裕を持たせた、軍跨。これにも階級に応じて太さや本数の異なる銀色の側線がつく。

 膝丈まである拍車付き騎兵ブーツ。

 腰には白銀仕上げの鞘に収まったサーベルと、革製拳銃嚢入り回転式軍用拳銃。

 かなり流麗なデザインであって、最も洒落て伊達者に見えたのは軍帽だ。黒毛皮に、オルクセン国軍を示す白地に二重の黒丸の円形章コカルデが正面上方にあり、白銀樹の葉を模した隊独自の部隊章が左側面につく、北方式の熊毛帽だった。エルフ族特有の突長耳に負担がかからない点も気にいっている。

 外套は腰丈で、袖のないケープ様。フードがあり、こちらにはダークエルフの民族衣装の要素が取り入れてある。

「ああ。ほら、聞こえてきたぞ」

 まだ朝の九時だというのに、明るい喧噪。

 楽しげな音楽。

 正体はすぐに見えてきた。

 たくさんの、ほんとうにたくさんの露店や屋台の類が集っていた。

 野菜のそれもあれば、腸詰ヴルストを焼いているもの、季節の花を売るもの、果物を扱う店、肉屋、魚屋、雑貨屋、玩具屋、骨董屋・・・

 売り子の声がかしましく、客である周辺住民の騒めきが彩を添える。

 オークの親子もいれば、コボルトの店主、ドワーフの行商がいて・・・

 人間族の客までいた。

 この官庁街に点在している何処かの国の公使館からか商館からか、いずれにしてもその人間族はこの国にやってきて日が浅いのか、あちらの魔種族やこちらの魔種族たちを目にしては、信じられないものを見るような顔をしていた。ディネルースには、その気持ちがよく理解できてしまう。彼女もまた同様だったからだ。

 朝市だ。

 蚤の市ともいう。

「毎週土曜と日曜の朝は、市内各所の公園で開かれる。ヴァルダーベルクの近くでもやっているだろう? 私の官邸からはここがいちばん近くてね。よく来るんだ」

「なるほど・・・」

 それにしても、などと思わないでもない。

 王が市井を見分することは何処の国でもあり得るし、確かにヴァルトガーデンは道路一本を挟んで国王官邸裏側に隣合わせているが、なにも徒歩で、警護には巨狼一匹を伴っただけでやってこなくても良いではないか。

 新参種族としてどうしても必要な行政書類の決済を受けに官邸を訪れたところ、おお、いいところに来た、ちょっと付き合えときたものだ。

 我が王は、腰が軽すぎる―――

「王だ! 我らが王マイン・ケーニヒだ!」

 いちばん近くにあった果物商で苺を品定めしていたコボルトの一匹がグスタフに気づき、可愛らしい声を上げた。

 小さな小さな、オークやダークエルフ族と比べれば本当に小さな、いやドワーフたちから見ても小さく思えるであろう、コーギー種。

 体格こそ小さいが、直立歩行して、彼ら種族の特徴である肉球のたっぷりとした小さな手で、器用に試食用の苺を掴んでいた。農村の民族衣装風の上下を着ていたから余計に愛らしい。

 すぐに気づかれたのは、無理からぬところ。

 グスタフ自身はその強大な魔力を体内におさめきって目立たぬようにしていたが、彼の体格はオーク族のなかでもかなり背丈身幅のあるほうだったし、巨狼と、それにこの国ではまったくまだ珍しい存在であるダークエルフのディネルースまで連れていたのでは、まるで効果がなかった。

「我が王!」

「我が王!我が王!」

「我が王!万歳!!」

 歓呼の声はたちまち環になって広がった。

「うん、よしよし」

 グスタフはちょっと照れの色に黒い瞳を揺らせて、さっと片手を軽く上げて歓声を受けると、まずコボルトのいた果物屋を覗き込む。

 大きく赤く、朝露のしたたりも艶やかな、ベルモア種の春苺。

「おやじさん、邪魔するよ。苺か、美味そうだな」

「はい、我が王。ぜひおひとつ」

 オークの店主が味見を進めてくる。

「おう、甘いなぁ。一つ朝食用に幾らか包んでもらおうか」

「はっ、光栄です」

 驚くべきことにグスタフは、外套のポケットから硬貨を取り出して、

 いえいえ陛下献上致しますであるとか、よいよい受け取れなどといったお定まりのやり取りは、。市民たちのほうでも、王のお忍びには完全に慣れっこになっているらしいのだ。

 それから、あちらの野菜屋、こちらのヴルスト焼き、向こうの雑貨屋という具合で。

 僅か三〇分ほどの微行のあいだに、あっという間にグスタフの両手は紙袋で一杯になった。持ちます陛下と気遣うディネルースに、構わん構わん君も欲しいものがあったら買え、つまらん真似はするなとグスタフは応じた。

 そうして、

「さて、帰るか。コックにこの苺を朝食に使ってもらうから、君も食べていけ。ベリーは、君たちの好物だろう?」

 相伴に誘い、ゴツい眉で器用に片目を瞑ってみせた。



 ―――この御方は、信じられないほど優しい王なのだ。

 しかも権力者にありがちな過剰な飾り気が、まるでない。

 例えば彼がその日常のほぼ全てを過ごすことの多い、この国王官邸という存在もそうだ。人間族たちの国でいうところの首相や大統領ならともかく、国王の官邸とは何ぞや。王宮ではないのか。

 国王官邸は新市街構築にあたって作られたかなり新しいもので、鉄骨大理石作りで彫刻飾りが施され、大通りに面した正面部分にはパンテオン式の大円柱列と大階段のある、荘厳かつ巨大な代物だった。

 しかしその内部は実務的なものばかりで構成されていて、装飾品や調度品の類は落ち着いたものが多く、そして王の居住部は建築面積のうちで言えばほんの少しでしかない。

 市中心部の川沿いには、彼がかつて住まい政事の中心の場にしていたという王宮もあったが、それはかなり古い時代の城塞で、やはり豪奢さや装飾美からは程遠いものであって、おまけに今では王の寓居としては完全に引き払われて首都ヴィルトシュヴァイン警察の庁舎になっている。

 グスタフの私生活は、このオルクセンの国力を思うならかなり質素なのだ。

 臣下や国民を、傲慢を以て従わせたりもしない。

 国王官邸の執務室一隅、相伴に授かった朝食の丸テーブルで席を向かい合わせながら、ディネルースはその思いを新たにしていた。

「我が王。グスタフ。貴方、いつもああなのか?」

「うん? ああ。そうだよ。楽でいいだろう?」

「・・・たしかに」

 ディネルースはくすくすと笑った。

 考えてみれば、もし事情を知らぬ他者が耳にすれば、まるで主従関係上の礼式を気にしていないように聞こえるだろうこの会話もそうだ。

 グスタフは、式典や儀礼といった公的な場や外出先でもない限り、側近たちには敬語を使わせなかった。

 この都へやってきた直後のディネルースにも同様に命じており、彼女はあの男性的とも野性的ともいえる地の言葉使いを、最初は彼の流儀に戸惑いながらも、いまではすっかり慣れて用いていた。

 ちかごろでは、初対面のときにはあれほど禍々しく思えたグスタフの容貌も、彼のそのような性格そのものに思える。

 とくに、黒い瞳の具合がよかった。

 荒々しい彫刻のような眉根の下にあるそれは、よくよく観察してみれば丸くつぶらで、若々しく、まるで無邪気な子供のようだ。

 ましてや、たった今しがたの朝市のようなときは。

 しかしながらかといって、グスタフは優柔不断であったり、政才や軍才が無いというわけではない。

 むしろ即断即決、政治にも軍事にも比類なきほど強い。

 この年の初頭、昨年の脱出行の傷や疲れの癒えたディネルースとダークエルフ族に対し、騎兵を中心とした部隊編成を命じたときも例外ではなかった。

「・・・騎兵」

 確かにダークエルフには騎乗が得意な者が多いが、ディネルースたちは戸惑ったものだ。

 騎兵部隊の編成には、歩兵部隊のそれに比べてたいへんな予算がかかる。大規模な新規編成ともなれば、それだけこの国の国防費を圧迫してしまうだろう。心苦しかった。

 ダークエルフは天性の魔術力や体力に加えて、狩猟と放牧の生活で鍛えられた射撃や山岳行動もまた得意であったから、山岳兵―――この国の軍制でいえば山岳猟兵と呼ばれている兵種を成してもいいのではないか。そう思えた。エルフィンドにおいては、そういった役割を負っていたのだ。

 あの困難な渡河経験も影響していた。

 軽装なら渡河はしやすい。

 将来の対エルフィンド戦には、歩兵の中では軽装備の種類で、機動力のある猟兵を受け持つほうが役に立てるのではないか。

 猟兵の機動力は大きな装備を持たずに動き回る点に支えられているから継戦能力には乏しいが、元より質素な食生活をたしなんできた種族だ。立派に、獰猛に戦ってみせるという自負もあった。

「そいつは有難いが・・・ うちの軍の最大の弱点は、騎兵科の不如意だからね」

 グスタフは、困惑する彼女たちへ流れるように説明した。

 理由を聞けば、至極自明のものだった。

「オークは乗馬に不向きだ」

 なるほど、まったくその通りだ。

 オークは巨体、大重量。その体重は、おおむね二五〇キログラム。小柄な者でも一五〇キロを超え、グスタフのように体格の大きな者では三〇〇キロ近い。

 並の馬なら、騎乗を試みるだけで潰れてしまう。

 だからオークたちは、他種族や他国なら重馬車や重砲の牽引に用いている大型馬―――輓用馬を使用せざるを得ない。

 輓用馬は、耐荷重の点でこそオルクセン軍の要求を満たしてくれるが、大型馬であるがゆえに機動力には乏しい。重量上げの選手に、どかどかと短距離走や長距離走をさせるようなものになる。

 つまり、騎兵の要である迅速な斥候や追撃運動などには、まるで使えないとまでは言わないものの、使いづらくて仕方ない、極めて愚鈍な騎兵連隊などという頓珍漢な代物が出来上がってしまうのだ。

 現在のオルクセン軍騎兵科部隊は、そんな具合だった。

 では、騎兵など使わなければいいと思えるかもしれないが。

 近代軍制における諸兵科連合戦術というものには、それもまた不都合である。

 諸兵科連合戦術は、歩兵には騎兵の機動力をぶつけ、騎兵には砲兵の火力で叩くといった具合の、敵にしてみれば相手にしたくない兵科を縦横に使って勝つ戦術だ。

 自軍に騎兵がまるでいなければ、敵だけが騎兵を用いれば、戦闘は最初から不利になってしまう。

 だからオルクセン陸軍は、欠陥を承知でオークの騎兵部隊を持っている。だがこれでは、このままでは駄目だ―――

「つまり、この私たちに本物の騎兵を作ってほしい、と。これは貴方、弱り切って懇願しているわけだな?」

「そのとおり」

 冗談めかして全てを理解したことを知らせたディネルースに、グスタフは破顔、大爆笑して同意したものだ。

 ただし。

 彼はひとしきり笑ったそのあとで、表情を改め、更に説明を付け加えた。

「ただ、この部隊は騎兵だけにはしない」

 新たに編成する部隊は、騎兵を中心にしつつも、それそのものが諸兵科連合になった、一個の独立集団として作り上げる―――

「三個連隊編成の騎兵を中心に、山岳猟兵連隊一個、それに山砲大隊と工兵中隊、加えてこれを支えられるだけの輜重段列や野戦病院を以て編制する。戦時完全充足だと、おおよそ八〇〇〇強の集団になるだろう」

 何故か。

 機動力のある騎兵部隊を作るとなると、それは必然的に重騎兵である胸甲騎兵や槍騎兵ではなく、騎兵銃とサーベルを主とした武器に用いる軽騎兵―――驃騎兵フザール連隊ということになる。それは構わない。ダークエルフ族の特性とも一致する。

 問題はこれを仮に騎兵斥候として用いた場合で(部隊種としてもこれが大きな目的になる)、そのとき必要になるのは、例え後追いでも大きな間をおかずに追従出来る歩兵と砲兵だ。

 騎兵だけでは到達箇所周辺を維持しきれないからだ。必ずしも斥候が敵地を占領までする必要はなく、むしろ柔軟に引けばいいのだが、どうあっても進出地を維持して野戦陣地を構築するといった場面もまた生じてくる。

 これに対し相手が大規模に歩兵を使って反撃してくれば、騎兵の射撃や突撃だけでは支えきれない。そもそも短絡的に騎兵を突撃に用いるのは論外で、この騎兵科最強の攻撃手段は同時に諸刃の剣であって、実施すれば最後、例え勝てたとしても自らもまた深く傷を負い、部隊再編を要することになってしまう。

 また騎兵の携える騎銃は、取り回しをよくするために歩兵用のそれと比べると短銃身に出来ていて、射程上の対抗は最初から不利だ。

 砲兵を出してこられればこちらも砲兵で対抗するといった場面も出てくる。

 工兵まで必要なのは、戦場とは平坦容易な地だけがそうなるのではないから。架橋作業や、野戦築城陣地の構築に使う。

 では、オーク族のそういった部隊を追従させれば良いではないかと思えるかもしれないが。

 オークが重量馬を用いているのは、騎兵だけではない。

 歩兵科や砲兵科、工兵隊や輜重隊も、軍馬は使う。むしろ兵科集団としては頭数の少ない騎兵より、総じてみればよほどたくさんの馬を使っている。それらの部隊はそれらの部隊なりに、騎乗する将校もいれば、馬匹牽引を要する火砲や軍用馬車の類があるからだ。

 その軍馬の全てが体格の大きなペルシュロン種などの輓用馬であって、必定、オルクセン陸軍の全部隊は他国と比べて機動力において劣る。

 付け加えると、ではドワーフやコボルトといった小柄な種族に騎兵や軍馬を用いる隊を作らせればいいのではないかという選択肢は、論外だった。

 確かに頭数計算上は可能で、彼らのなかにも軍に入って国に従事している者もオルクセン陸軍には少なくない数がいたし、彼らの得意なことを成していたが、実際問題とすると、今度は彼ら種族の体格が騎乗には小柄に過ぎた。乗用馬種を用いてでさえ、鐙に足すら届かない。

 だから―――

 全てをこれから新規に編成するダークエルフの部隊は、どのような局面にも自ら対応できる能力、自己完結性を備えなければならないのだ。

 全将兵を騎兵として編成し、オークの各師団に散らすという選択肢もあったが、そうするにはダークエルフ族の頭数が少なすぎた。おまけに牡オークの群れのなかに彼女たちを放り込むのは、軍としてはいささか懸念すべき真似でもある。が起きる可能性が高い。

「機動力のある、規模を少し小さくした師団のようなものだと思って欲しい。旅団ブリガード・戦闘団カンプグルッペ。そんな風に呼ばれるものを、君たちには作ってもらいたいのだ」

「・・・・・・素晴らしい」

 ディネルースは感嘆した。

 そしてこのグスタフの提示した案を、己が命と種族の命を救い出してくれた相手にはある意味失礼な考えようにもなったが、たいへん気にいった。

 おおいに気に入ったのだ。

 総兵力八〇〇〇なら、約一万二〇〇〇名が生き残ったダークエルフたちで編成できる。

 余る四〇〇〇は、後方にあって補充要員となる予備。

 またあるいは、いかなダークエルフといえども皆が皆ひとり残らず軍隊に向いている存在ではないから、種族の町を支える市民になってもらう―――

「やりましょう」

 ディネルースは、種族代表にしてその新編成部隊の指揮官、部隊規模から勘案してオルクセン陸軍少将に抜擢ということになった。

 隊の幹部将校となる者たちの推挙については、彼女とその周囲に一任。

 編成完結の暁には、この旅団は完全な決戦兵力といえたから、平時においても戦時においても、グスタフ直轄とする。

 平時における日常的には、彼の警護に用いる。

 つまり、ディネルースは王の側近、その仲間入りをも果たした。



 部隊編成をどうするかは、グスタフ自身が考えたものだったという。

 つまり、グスタフ・ファルケンハインには、たいへんな軍才があった。

 もちろん、そういった部分には彼を補佐する陸軍省や国軍参謀本部の存在もあったが、それらが考えた懸案や提言を最終的に吟味して決断、採用するのは彼だ。

 そもそも、能力や、これに伴う実力がなければダークエルフたちを脱出させえなかった(彼自身は、誰にも告げないまま、なかでもディネルースには決して二度と内心を漏らさず、もっと救えたのではないかと心の奥底で悔やみ続けていたが)。

 政治的才能については―――

 おおよそ一〇〇年をかけて纏め上げたこの国そのもの、種族を越えた融合や、なかでも首都ヴィルトシュヴァインの繁栄を見てみれば直ぐに理解できることだった。

 民事においては、とくに産業殖産について造詣が深いらしい。

 農業を改革し、工業を興して鉄と鋼を作らせ、この国を富ませてきた。

 一〇〇年前、彼が国家構造の改革に手をつけたとき、当初、周囲の者は誰もこれを理解しきれなかったという。

 だがのちに農事試験場と呼ばれることになる圃場をまず幾つか作ってこれを使い、実践してみせ、農業書を著し、全国どこにでも赴いて新たな農法や灌漑、土地改良を指導した。

 ドワーフたちには、鉱業採掘と鉄鋼業を中心に工業を興させた。

 ディネルースはついさきごろ、彼女の部隊に支給されることになったオルクセン陸軍最新制式の、後装式五七ミリ山砲や七五ミリ野砲山砲兼用砲を見せられて、驚いたものだ。

 砲身はおろか、砲架に至るまで鋼鉄製だったのだ。

 それも、並の鋼鉄ではない。

 長年の努力の結果、ドワーフたちの技術研究が大規模鋳造に成功した、モリム鋼ミスリンを素材にしている。

 ダークエルフ族なら、成年の祝いに贈られ、非常に高価で貴重なものとして生涯大切に扱う、民族特有の山刀に使っている代物。

 一種の低合金鋼で、非常に優れた強度重量比をし、通常の鋼よりずっと強度と硬度があり、寒さにも強い。

 エルフィンドや多くの人間族の国では、まだ並の鋼鉄や鉄製、あるいは一部では青銅製の砲すら用いている。どちらに高耐久性があり、どちらの射程が長く、射撃精度が高いかは明白だ。

 兵器に用いられる技術や生産能力は、それを生み出した国家の産業力を端的に示すものでもある。

 八七六年現在、オルクセンの年間銑鉄生産量は一二〇万トン。鋼鉄は九〇万トンに達していた。

 モリム鋼こそ鋳造技法は軍以外には機密扱いにされていたが、民間重工業もまたふんだんに鋳鉄や鋳鋼を生産し、これを用いて他の産業が国内の鉄道網や建築物、船舶を造り出している。

 性能のよい鉄道や船舶は人馬によるものからは想像もできなかったほどの大量の物資輸送を担い、また国を富ませる―――

 ただしこういった農業や産業の革命改革は、ほぼ同時期、人間たちの国でも似たようなレベルで起こっていた。各国が相互に影響しあっての結果だとも言える。

 グスタフの政策にそれらとまるで異なる点があるとすれば、彼は積極的に自ら魔種族たちの持つ長所、魔術の併用にも踏み切ったことだ。

 例えば、だが。

 ディネルースも被る高級将校の熊毛帽や制帽略帽、防暑帽などには、その内側に触媒冷却エーテルペジェ送風エアリルの刻印式複合魔術を施した薄い金属板が張り付けてあった。

 夏季、周辺温度が上昇するとこの魔術式はそれを感知し、自動的に帽内を冷却し、着用者の行動を信じられないほど楽にする。

 この魔術式の素晴らしいところは、術式の設定具合にも依るが、夜間になって気温が下がったりすれば、逆効果とならぬよう、やはり自動的に止まってしまうところだ。

 これの大規模で高性能なものは、食糧貯蔵施設や鉄道の貨車、船舶の客室や貨物庫、機関部などにも用いられている。

 効果は、想像を絶するまでに高い。

 食糧保存技術は飛躍し、物資の輸送量は増して、居住空間は快適極まりないものになる。

 グスタフの全ての改革に効果が表れ、更には合致して相乗効果さえ発揮しはじめたこの二〇年ほどになってからというもの、大陸内陸部である首都ヴィルトシュヴァインでも、北海の海産物が新鮮なまま不自由なく、それも市井社会レベルで食卓に上るほどなのだ。

 こればかりは、人間たちには完全に不可能な技術革新だった。刻印式魔術は、製作者に魔術力がないと作り出すことすら出来ないからである。

 似たような例は他にもあった。

 オルクセンには鉄道網と併設されるかたちで人間族式の通信技術―――電信があったが、軍の各部隊には魔術力を持つ者を選抜して、魔術通信や魔術医療を用いる兵が配されていた。

 軍の魔術通信網は、大隊以上に最低でも一系統というところまで構築されていて、上部部隊との間に即時交信ができる。

 効果はやはり絶大。

 伝令を使うか電信を用いるかしか作戦指揮が行えない軍隊と、野戦行動中にすら大隊規模にまで即時連絡ができる軍隊とでは、まるで戦闘力が異なってしまう。

 オークを主体にした軍の、低機動性を補うために採用されたのだという。

 魔術通信は民事にも用いられていた。オルクセン逓信省は郵便と電信に加えて魔術通信も取り扱っていたし、個人や民間企業でこれを使い、商取引辺りを迅速なものにしていたところもあった。

 これらを成し遂げた指導力。

 粘り強さ。

 ―――この方の才はまるで異質。

 何か、我らとはまるで違う、別の世界を見てきたかのような深慮遠謀がある。

 ディネルースは、畏怖にも似た感嘆を禁じ得なかった。



 絶品のデザートであった苺のクレープ包み焼きを摂ったあと、給仕が好みにあわせて用意してくれた、芳醇な香りを漂わせる濃いブラックコーヒーを飲みながら、彼女は新たに頂くことになった主君についてそっと考え続けている。

 むろんこの聡明にして偉大な王グスタフもまた一個の生物である以上、いくつかの性格的欠陥も持ち合わせていた。

 むしろ、挙げだせば意外とその数は多い。

 まず、あの腰の軽さ。

 国民に慕われる要因や、ダークエルフ脱出行のような大事を成功させるものにもなっているが、下手をすると周辺に諮りきらずに微行でどこにでも行ってしまうため、王としてはどうなのかと思われる場面も日常的にはあった。

 饒舌癖。

 あふれる智謀ゆえか、いちど興が乗ると発言が長い。またその発言が遮られるのを嫌う。彼がオーク族の者には珍しい低音質の声をしていなければ、長年オーク族と敵対してきたディネルースなどは、嫌悪すら催してしまったかもしれない。

 どれほど諫めても、食事中に新聞や雑誌を読むこと。

 王として市井社会の動きを知ることもまた重要であったし、この国の金属活版技術や印刷技術は極めて高く、出版物は読みやすかったから気持ちもわかるが、そういったときのグスタフはうわの空になる。マナーとしてもよくないだろう。

 グスタフは勉強家ともいえたが、それを越えて一種の活字中毒者であるようだった。

 彼が日常を過ごす国王官邸には、こればかりは珍しく彼自身が猛烈に設置を熱望したという、たいへんな数の蔵書を誇る彼専用の巨大な図書室があった。

 読むものは何でもいいようで、眠気すら誘う哲学書もあれば、いちどなど子供向けの絵本を読んでいるところを見たこともある。また各国の言語に通じていて、隣国グロワールの兵術書も読めば、エルフィンドの神話伝承の類をまとめたものを読んでいることもあった。

 乱読といえて、あちらを読み、こちらを眺めといった具合であるうえに、それらを棚に戻す癖がなく、放っておくと執務机まで本の山になる。側近たちが諫めると、まだ読みかけだと怒られるのだから始末に負えない。

 かと思うと、突如として微に入り細に入った蔵書分類をはじめ、丁寧に整理整頓も行ったりするから、おそらく気分屋の性質まであった。

 恥ずかしがり屋で、照れ屋のところもある。

 美点でもあったが、式典の類で演説することは苦手に感じているようだったし、さきほどの微行のような場合、市民の歓呼に囲まれたあと、ひとりになってからそっと懊悩している気配もあった。やはり王としてはもう少し威厳を持って欲しい。

 大食漢で、美食家。

 これはオーク族全体が持ち合わせている悪癖でもあったが、ディネルースなどからは信じられないほどの量を食べる。

 パンは崩れ落ちそうなほどテーブルで山を成し、スープ皿はまるで盥のようなサイズで、他種族の倍量は用意されるメインは更にお替りしかねない勢い。

 彼自身としては甘味を好む点も、度が過ぎているように思えた。

 日常におけるデザートは三食必ず所望され、さらに午睡のあとでおやつを摂る。いまもまるでジョッキのようなカップに淹れられたコーヒーに、たっぷりと砂糖とクリームを放り込んでいた。いかなオークといえども、そのうち体を壊すのではないかと思われるほどだった。

 またたいへん意外であったのは、彼はちょっとした偏食家でもあったことだ。

 オーク族は種族の特性の一つとして実によく鼻が利くが、彼はなかでもそうらしく、セロリであるとか、キュウリだとか、スイカの皮に近い部分など、独特の香気のある食べ物の一部は苦手としているらしい。ただし、生産農家などを慮ってか、それを口に出すことは滅多にない。

 喫煙癖もあった。

 ときおり葉巻の細いものシガリロを愛飲するディネルースなどから見ても過剰なほどで、食前や食後、あるいは執務中や読書をしているときなど、ふと気づけばいつもパイプを吸ってばかりいる。

 パイプは元々排煙量の多い喫煙具である上に、彼の愛用パイプはオークの体躯に合わせた、たいへん作りの大きなものだったから、グスタフのいる場所はまるで火事でも起きているのかと思いたくなるほど。

 ただディネルースには、彼がその太くごつい指で火皿にパイプ葉を意外なほど器用に詰める様子を見るのは、何とも言えぬおかしみを感じ、ちょっとした密かな楽しみでもある。

 そのように紫煙を漂わせながら。

 彼の政務は、食事や午睡、休憩の時間を挟みつつ、しばしば微に入り細に入りすぎることがあった。

 勤勉であることは良いことだが、活字中毒癖と相まって一度目にした公文書の内容を実によく記憶し、勉強家でもあるため、矛盾点や錯誤を指摘される官僚たちは非常に多い。法令類も同様に覚え込んでいるため、彼に何か稟議を求めることはたいへん緊張することだった。

 ―――まあ、この辺りはそれでもまだ良いでしょう。

 グスタフはその立場からいって、その気になれば酒池肉林に美食佳酒の贅を凝らすことも、暴虐無人なふるまいで民を従わせることも出来る。

 そうでなく善政に努め、王としては極めて質素に暮らしているというのならば、彼のこれらの欠点は、言ってみれば些細些末な問題に過ぎない。

 短所でありながら長所である箇所もたくさんあって、臣下としては目を瞑り、むしろ補っていかねばと思えるものばかり。

 彼の最大の欠点は、そんなところではなかった。

 ―――周囲の臣下や側近たちがどれほど勧め、諫め、宥めても、妃や愛妾の類を持とうとしないのだ。

 もうずっと昔からそうだといい、現在のところ未婚。婚姻はおろか、浮名ひとつ流したことがない。

 彼は星暦八七六年現在約一五〇歳で、長命長寿のオークとしてもとっくに成獣している。グスタフを人間族に例えてみれば、二〇代後半あたりの働き盛りといったところか。

 他者に理由を尋ねられれば、

「魔族の王は人間族と違って血統で決まるのではない。魔術力の高さで周囲から選ばれて決まるのだ。私がそうだったではないか」

 そのように答えているらしい。

 これもまた道理ではあったが―――

 どこか屁理屈のようにも思えた。 

 魔種族の王から魔術力の高い子が産まれることは、やはり血統上の結果として歴史上実際にあることだったし、彼個体としても家庭を持つことはその生を豊かにするだろう。

 そもそも魔種族は。

 総じて不老長寿、魔術治療や魔術薬で補いきれないほどの肉体的によほど大きな外傷か疾病でもなければ不死にさえ近いせいか、出生率が非常に低い。

 全てが女性ばかりのエルフ族など、いったいどうやってこの世に産まれ出でたのか本人たちすら覚えていないほど。彼女たちは故郷で聖地とされている幾つかの場所で、ある日とつぜん、赤子の姿で見つかるという、特殊な生まれ方をする。

 オーク族の数が多いのは、彼らの身体が他の魔種族と比べてさえ最も頑強で、生存率が高いためにそうなったのであり、多産である結果ではなかった。一〇年にいちどほどの割で何処かの家庭に子供が生まれれば、もうお祭り騒ぎである。

 その点を思うと、婚姻が遅すぎるということはあっても、早すぎて悪いということはないだろう。

 もしや同性愛者なのかと疑ったこともあったが、むしろそういった嗜好は彼としては完全に食指の対象外らしい。

「私にその趣味はない。他の誰かがそういった嗜好を持つことはその者の自由であり権利で、何とも思わないが」

 かつてそのように述べたことがあったという。

 信仰を持たない大半の魔族には、聖星教の教義のように宗教的な道徳観念上の抵抗感がないため、そういった嗜好を抱く者は大っぴらに存在したし、周囲にもこれを受け入れる土壌があるが、彼自身の嗜好は違うのだ。

 異種族にも興味は無いらしい。

 例えばディネルースは、何も差し出すものを持たない絶滅寸前の種族から、彼女自身が唯一つ成せる礼として、彼に命を捧げると誓ったことがあったが、これには私の体が欲しいのなら好きにしてもらって構わない、という意味も含まれていた。過去の戦役において、オーク族がエルフ族に対しそういった真似をしたことがあると、見聞きしたことが嫌になるほどあったからだ。

 ところが実際には忠誠心を受け入れられるのみで、指一本手をつけられていない。それどころか、臣下のひとりとしてたいへん大事にされている。

 異質だ。

 異質極まった。

 ディネルースがグスタフに対してときおり抱く違和感の根本部分は、彼がオークとしてはまるで異常だというその一点にある。

 オーク族の性質に合致するのは、平素の食事量くらいである。

 情愛や性欲を満たす相手を持とうともしないし、この国では官庁までもが静かになる午睡の時間に、彼が本当に眠りこけているところを見たことのある側近や侍従はいない。たいてい、本を読んでいる。

 グスタフの施策の数々によってかなり改善されたとはいえ、オークとは根本においてそのような種族ではない。

 欲望に忠実であって、なかでも食欲や、睡眠欲や、性欲に貪欲である。そういったものに接し、これを欲したとき、際限がなくなる種族だ。

 例えば、いまでは国法によって禁じられている同種及び異種族食。

 これはオーク族最大にして最悪の特徴で、他の魔種族からみれば恐怖でしかなかった。

 人間族などからすれは意外だろうが、本来魔種族とは、どの種も長命長寿かつ不老であるがゆえに争いを好まない。命の重みが人間族とは異なり、死を畏れる深さが底知れないからだ。

 オーク族の食糧摂取量と、飢饉などによる飢えからそれを引き起こしてきたという歴史的事実はあったが、他種族は飢えたからといって同族や他種族を食べたりはしない。

 強いていえば巨狼族がそれに近いが、彼らは同族をその顎にかけたことはない。むしろ同族が斃れれば埋葬する習慣まで持っている。

 そのような魔種族にあって他種族を食ってしまえるというのは、オークがそれほど欲望に忠実で、また自制を以てしては抗いきれない存在であることの、ひとつの証左である。

 禁忌を守るため、代用効果のあるものは取り入れられてはいる。

 グスタフはオークたちに対して、国を挙げるほどの姿勢で豚肉食を奨励していた。

 豚は雑穀でも飼育でき、多産であって家畜としての畜産効率がよく、ソーセージやハム、ベーコン、サラミといった加工食品に出来て保存効果も高く、かつ美味だ。だがそれだけが理由ではなく、現代のオークにとって最大の禁忌である同族食への代替品なのである。

 しかし―――

 彼の場合、性欲や睡眠欲はどうやって抑えているというのだろうか?

 容貌容姿はオークそのもの。

 だがその中身は、まるでオークとは思えない。

 このことであった。



 もっとも、そのような疑念がディネルース・アンダリエルの日常に占める重きは、さほど大きくなかった。現状では、細事と言い切ってもいい。ちょっと気になる程度のこと。

 まずは旅団の編成を急がねばならない。

 ダークエルフ族の今後が成り立つようにしなければならない。

 故郷での立場だった一氏族長ではなく、残存ダークエルフ族全体の代表ということにもなってしまったので、あれこれ決済、指導を行わなければならないことがたくさんあった。

 それはもう、

「いやになるほど」

 日々の殆どを彼女たちの衛戍地にして共同生活地であるヴァルダーベルクにあって、まずはグスタフ・ファルケンハイン臣下としての責務を果たせる状態となるまでに、自らたちを高めることを目指さなければならなかった。

 そうでなければ彼個体としてだけでなく、オルクセンという国としてもダークエルフ族を受け入れるという決断をした、グスタフを裏切ることになってしまう。

 成果を出さなければならない理由は、他にもあった。

 表面化こそしていないが、他種族の、とくに軍の者たちとの間に心理的な軋轢が生じていたのだ。

 グスタフ王の勅命ということでこの国の誰も彼もがダークエルフ族受け入れに従ってくれてはいたが、歴史的背景もあって、このような摩擦が生じるのは致し方ならぬことでもあった。

 国策は個々の感情まで縛ることはできないものだし、またダークエルフの側としても決して己たちが清廉潔癖だとは思ってもいない。

 彼女たちは彼女たちで、例えばオーク族全体を未だ信じ切れていなかったし、ドワーフの発音には耳を塞ぎたくなり、巨狼の顎を恐れ、コボルトの商才を疎み、大鷲には後ろめたさを覚えていたのだ。

 むろん、致し方ないからといって喜ばしいことではないとも理解している。

 グスタフはそのような事態を見越していたからこそ、王としての伝家の宝刀である勅命を用いたのだし、旅団編成完結の暁にはこれを自身の直轄にすると宣言し、そうしてダークエルフ族全体を強力な庇護下に置いたわけだが―――

 ディネルースたちは王個人には心から感謝しつつも、これは同時に、この上ない重みにもなってしまった。

 種族滅亡の危機から救い出してくれた上に、それほどの庇護を受けたのだ。

 成果を上げなければ、ダークエルフは無能の者、不忠不義の者よと、誹りを受けるだろう。もしそのような事態に陥れば、誇り高き一族としては耐えられるものではない。

 そのために学ばなければならないことは、嫌になるほど多かった。

 ―――まず、言語。

 グスタフがこの国オルクセンの種族間統一言語として七〇年ほどまえ国法に定めた低地オルク語は、根本部分としてはエルフ系種族の用いるアールブ語と言語学上同じ分類に属していたから、まるで通じないというわけではない。文法や、単語、発音の大部分が同じもので、違和感は少なかった。

 ダークエルフ族にしてみれば、白エルフたちが言葉遊びのように時折用いる古典アールブ語のほうがよほど異質だ。古典アールブ語は単語や文法本来の意味以外に、これを用いる者が韻を踏んだり音節の共通点に音楽的な価値観まで共有して、会話の意義を見出すという、頭の痛くなるような代物だからである。

 だが低地オルク語が種族間統一言語として作り出されたものである以上、オークの言葉をベースにドワーフやコボルトといった他種族から取り込んだ単語、言い回し、発音、訛りなども当然存在して、とくに日常表現としての擬音がやたらと多いという特徴があり、これらには慣れねばならなかった。

 グスタフ王が気を使って派遣してくれた国語教師曰く、

「我らが七〇年前味わった苦労を、一から始める状態ですな」

 そんな具合だった。

 国交も絶えて久しかったから、翻訳辞書の類も役に立たないほど古いものしかなく、相違する単語や初耳の言い回しなどを洗い出し、皆と共有、あとは実際に使っていくというような、面倒で根気のいる作業が必要だった。

「さてもさても、白銀樹はすぐには伸びぬことかな」

 時代がかったエルフ族の諺が彼らに通じるものなら、「世の万事、困難なことほど成すまでには時間がかかる」、そんなところだ。

 ―――次に農法。

 オルクセンで用いられている農法は、前星紀後半からゆるやかに革新されつつ、この五〇年ほどのあいだに農業学によって論理化され系統化され、これが急速に普及して、たいへん近代的だった。

 元々、ダークエルフ族は山岳地を主な居住地としていたため、酪農は得意でも、耕作は不得手だ。

 シルヴァン川流域一帯は、気候地理的に大規模耕作や一部の穀類の作付けには向いていない場所だったということもある。

 彼女たちが主食に用いていたのは、燕麦とライ麦。大麦。それに幾らかの蕎麦。パンや粥にしていた。

 これを農学的には三圃式農法という手法で育てていた。

 ざっくりと例示してみれば、耕地を三つに区切り、今冬はこちらでライ麦、夏にはあちらで燕麦か大麦、そちらでは休閑させ放牧利用といったふうにやる。同じ土地で連続して穀類を育てると土地が一気に痩せてしまい、育つものも育たなくなるから―――

 そのはずだった。

 ところが、オルクセンで行われているのは輪栽式農法というもので、これはたいへん乱暴に一口で説明すれば、面倒な分割休耕を必要としない方法だった。

 大きくまとまった農地で、冬に小麦かライ麦を植える。翌年収穫が終わると同じ土地でカブかジャガイモ、甜菜などを育て、また収穫。次は夏期に大麦か燕麦。これが収穫できたら、クローバーやアルファルファなどを植えて放牧利用。この周期周回を繰り返す―――

「この一帯では、冬穀としては小麦かライ麦、夏穀には大麦。間に挟むことになる中耕野菜としてはカブかジャガイモを奨励しています。土地が肥えすぎてしまったときの調整には、アスパラガスあたりもたいへん美味で結構ですな」

 説明を受けたとき、いったいこれは何なのだと、ダークエルフたちは仰天した。

 教師役となった農事試験場の学者や技師たち曰く、作物種のなかには耕地の地力を回復させる種というものがあるから、これを挟むことによって連作障害を防ぐのだという(実際には作付け時期や収穫時期が重複する種もあり、また休耕までがまるで存在しないわけではないし、何か特定の野菜を商業上の売りにして専門に育てている農家といったものも存在したから、今少し複雑である)。

 おまけに彼女たちに与えられた農地は、近隣にあった湖沼や河川を水源に灌漑化が行われていたから、そうでない土地と比べれば地力は遥かに豊かで、面積当たりの収穫量はたいへん多かった。

 オルクセンは国内全土の農地で、こんな真似をしていた。

 星暦八七六年現在、オルクセン農地の灌漑化率は、全農地のうち国土南部を中心に三割七分というところまで来ている。

 また、農機具もたいへんに優れていた。

 放牧利用したあとの農地などは、犂という、鍵爪を巨大にしたような見かけの耕運器具で犂起こしを行うが、発明としては歴史あるものだったから、これと同じ原理のものはエルフィンドにも勿論あった。

 だがオルクセンのそれは、単なる鉄製ではなく、鋼鉄製だったのだ。当然、鉄製より鋼鉄製のほうが頑丈で、深くも掘れれば、一気に犂起こしを行うこともできる。

 道具自体もたいへん大きかった。

 重量犂という。

 これほどの大きさとなると人力で扱うことはもはや完全に不可能で、馬や牛に曳かせる。オークたちの用いる馬はそのほぼ全てが重量種であるというあの話が、ここでは利点となっていた。

 四〇年ほど前に開発され、そののち鋼鉄の生産量が向上したことでその単価が下がり、商業利用が可能となって、一気に普及したのだという。

 現在ではその全てを鋼鉄で作るのではなく、鋼鉄材と比べればやわらかい性質がある鉄材を一部にわざと使い、壊れにくくするという、改良まで施されている。

 鎌や熊手といった他の農器具についても、同様。

 エルフィンドのものよりずっと進んでいた。

 農学研究は肥料や酪農分野、品種そのものの改良でも行われていて、当然ながらそれらは農業生産量の飛躍向上となって、国民の食生活を豊かなものとしている。

 あまりにも、エルフィンドとは差があった。

 あの脱出行の直後のことだが、このヴァルダーベルク仮宿営地の兵舎食堂で、ダークエルフたちにとってはたいへん贅沢な代物、小麦粉だけで焼き上げられた白パンが夕食に出て、

「やはりオークなど信じなければよかった」

「これは殺されるか犯される前の駄賃」

「明日処刑されるに違いない」

 などと誤解し、泣き出してしまった者までいた始末である。

 白パンは、もはやオルクセンにとって贅沢品などではなかった。

 オークたちにとっても歴史があるライ麦パンの味を好む者が多く、また国土の約三分の二までが小麦栽培よりライ麦栽培に向いた気候をしているというだけで、小麦粉のみの白パンや、小麦粉とライ麦を混ぜて焼いたパンは、無理なく市井の食卓にも上るもの。

 おまけにあの刻印式魔法による保存技術革新が、これを大いに助けていた。長期間備蓄や産地から消費地への長距離輸送を可能にしただけでなく、ただでさえライ麦より美味い小麦は、低温保存熟成させると更に旨味を増すからである。

 このようなオルクセンにおける食糧生産への情熱は、ダークエルフたちにしてみれば異常にも思えるほどだった。

 国を挙げて取り組んでいる。

 彼女たちから見て、もっとも奇異に思えたことは、大規模に土地を有する貴族や領主的な者はオルクセンにはまるで存在しなかったことである。

 労働者としての農業従事者はいたが、小作農も殆どいなかった。

 農地には国有地や州有地が多く、農家の殆どは国や州との間で貸借契約を結び、その貸借料を税として物納か現金で納めている仕組になっている。

 国に納められた穀物は、飢饉に備えて食糧貯蔵庫に備蓄されるだけでなく、市場への供給量調整に用いられ、つまり一種の価格統制まで行われて、生産量向上や天候不順による過剰な価格下落を防ぎ、農家の生活を維持している。

 では国家が農業を営んでいるのかと思えば、彼らの意識は少し違うらしい。


 母なる大地ムッターラント 母なる国ムッターラント

 母なる大地は 我らのもの

 母なる豊穣は 我らのもの


 これは七〇年ほど前に定められた、オルクセン国歌の一節である。

 宗教を持たないオークたちにとって、唯一のそれらしい真似、食事を摂る際に唱える大地への感謝の言葉からとられたものだというが―――

 元々あった古からのその言葉は、国歌のものとは本当は少し違っていたらしい。


 母なる大地は 我のもの

 母なる豊穣は 我のもの


 「我のもの」から「我らのもの」へ。単数称から、複数称に改められた。

 この変更―――一種の意識改革こそが、オーク族を変えたのだ。

 現在のオルクセン国内総口数は約三五〇〇万。このうち全てがオークではないが、約八割までがそうだ。大地そのものと、その恵みを同族とも他種族とも分け合わなければ、飢えてしまう。

 またかつてのように他国を侵し、他種族を食らい、同族をも食らわなければならなくなってしまう。

 それは彼ら自身にとっても、決して繰り返してはならない過去であり、まるで恐怖の対象になっているらしい。

 農業は、オルクセンにとって単なる政策ではない。

 生存していくための、根幹なのだ。

 農事試験場はそのためのもので、国土のあちこちに作られていた。各地の微妙な気候や土壌の違いは、その土地その土地で試してみるのがいちばんだからである。

 ダークエルフたちに与えられた試験場は、元々手狭になりかけていて、また極めて初期に作られたもので、言ってみればその役割を行政的には終えた地であって、売却が予定されていた場所だという。

「手狭に、ね」

 ディネルースとしては呆れるしかなかった。

 農事試験場の面積は、約一五ヘクタール。地力からいってライ麦の生産量だけで年間約一五トン強の収穫が見込める場所で、これはエルフ族の一日当たり主食摂取量換算で八〇名ほどの者が一年は暮らしていける計算になる。

 ライ麦だけで!

 最小規模とはいえダークエルフ族の氏族まるまる一つが、一年は飽食していけるほどの土地を手狭呼ばわりとは。

 与えられた周辺の農地転用可能な草原や放牧地は、広大極まる六〇〇ヘクタールほど。将来的に全て開墾できれば、約三〇〇〇名賄える。

 くどいようだが、ライ麦だけで・・・!

 夏の大麦や転栽野菜の収穫も見込んで、酪農放牧事業のほうの乳製品生産量や畜産量もあわせると、慎ましく暮らしていけば残存ダークエルフ族の六割くらいまでは完全に自力で食っていけるのではないかという規模の土地だった。

 これほどの土地を与えられては、それがまた周囲の妬みを買うのではないかと気を揉んだこともあったが、どうやらそればかりは杞憂のようだった。

 オルクセンの国土面積は三五万平方キロメートル。エルフィンドよりずっと広く、そしてそのうち開墾されている面積は全体から見ればわずかでしかない。

 農業転用可能な未使用地の開墾開拓を、やはり国策として奨励していた。

 国民誰もがその気になれば、国や州に申請して、その所有地を農業地として借入れるか、購入することが出来る。もちろん幾ばくかの資金が必要だったが、耕作が軌道にのってからの後払いでもよく、初期の運転資金を低利で融資する制度まで存在した。

「頼む。頼むから何か作ってくれ」

 食糧が余ることより、足りなくなることのほうがよほど問題だ。余れば備蓄に回せばいい、それでも余れば輸出してしまえばいい、飢饉はいつやってくるのか分からないのだから―――

 彼らのほうとしては、そんな塩梅なのだ。

 ダークエルフたちは、農業収穫の大半を地域の農業組合か商人に売却して種族としての収入にあてていく予定であったから、立派にやっていける。

 全てがグスタフのおかげとはいえ、本国にいたころより豊かになってしまうとは。

 むろん彼女たちがオルクセン式農業を身に着け、我がものとし、熟していかなければ、これは故郷エルフィンドの諺で言うところの「獲らぬ狐の毛皮算用」というもの。

 だがやはり、呆れてしまうしかなかった。



(続)

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