水曜日

 前の晩、婆ちゃんがすばるに訊ねた。こんな田舎でつまらなくないか――と。

 すばるは、つまんなくないよと答えた。一日中外で遊んでるから、退屈しているひまなんてないよと。婆ちゃんはすばるが遠慮してそう答えたと思ったみたいだが、それはすばるの本音だ。

 元々テレビやゲームにはあまり関心がない。ネットも利用しないし、スマホも持っていない。クラスの子たちからは、変わってるって云われているようだが、別に不自由は感じないからいいと思っている。だからスマホも圏外で、ネットも接続されていない爺ちゃんの家にきても、普段の自分と特に何も変わらない。

 爺ちゃんの家は、一番近い駅のある町から車やバスで一時間半も山に入った村の、さらに一番奥まった場所にある。

 昔話に出てきそうな古い家で、納戸のような重い引き戸を開けると、薄暗い土間があって、いつもひんやりとしている。田の字に区切られた部屋は夏は開け放しているので、風が通りぬけていく。縁側からは棚田や集落の屋根を見下ろすことができ、谷と山々はずっと遠くまで連なり、きりがない。

 冷房なんてないけれど、昼は開け放しているだけで充分だし、蚊帳を吊るして寝ることも嫌いじゃない。すごくでかい蚊もいるけれど、蚊取り線香を焚いていればよってこないし、そのにおいも嫌いじゃない。婆ちゃんの作るご飯は、ちょっと味が濃くって野菜ばかりだけれど、美味しく感じる。トイレは落とし便所で、ひどく臭くって夜は怖いけど、慣れれば気にならない。

 爺ちゃんの畑は少し下った場所にあり、毎日ふたりで畑に出ている。すばるは、昼食に帰ってきたふたりと顔を合わせる以外はひとりだ。爺ちゃんも婆ちゃんも、すばるを特別あつかいにはせずに放っておいてくれる。

 ただ……爺ちゃんの家に行っておいでと送り出して、父さんと母さんが何をしようとしているのか……はっきりとはわからないけれど、ただ不安な何かが進行しているのは漠然と感じる。それがいつも、心に引っかかっている。


* * *


 森の小道を歩いていく。誰かが踏みしめた道だろう。そこだけ下草が短く、歩くのに何の気遣いもいらない。

「---の家は、近くなの?」

「そうだよ」

「ふうん、どこの家?里帰りしたの?」

 不思議な雰囲気を持つこの少女が、夕方別れてからどこへ帰るのか知りたかったが、手にした木の枝で、あたりの雑草をなぎたおしながら、少女は答えなかった。

「あ……?」

 ふたりは脚を止めた。見たこともないような、でっかい蜘蛛の巣だった。小道の両側の木にさし渡して、あちらからこちらまで二メートルもある。

 その真ん中に、甲虫ぐらいありそうな大きな巣の主が、頭を下にして鎮座している。黄色と黒の、八方に伸びる細いが節々がふくれた脚、そしてすばるの親指ぐらいあるんじゃないだろうかと思えるぐらいに、ぱんぱんに膨れあがったまるまると太いお腹は、灰色と黄色の鮮やかなしま模様だった。圧倒されてしまうぐらい、威厳のある姿だ。

 玉座に鎮座する蜘蛛から放射状に延びる縦糸、そして縦糸と交差しつつ、それぞれがわずかに非対称に螺旋状にめぐる横糸。糸には露が玉となり、光を反射してきらきらと輝いている。このような美しい、秩序だった、でも恐ろしいほどに残酷な罠を作ることを、一体誰がこんな小さな虫に教えたんだろうか?

 その時、輝くような黒と紫色をした小さな蝶が、木立の奥からふわりと近づいてきた。蝶はふたりの脇をすりぬけて飛び去ろうとして、その蜘蛛の王が織りなした美しい罠に触れた――と、からみつく。

 蜘蛛の王は、玉座でその犠牲者の存在を知る。

 次の瞬間には、たちまち蝶の元へとすべりよっていた。蝶はなおももがく。しかし逃れることはできない。蜘蛛が牙をたてた。蝶のもがきが弱々しくなっていく。 すばるが声をあげる間もなく、一瞬のできごとだったが、不意にはっと我に返った。見惚れていたのだ。

「あ……蝶、助けなきゃ」

「どうして?」

 静かな声に、すばるは思わず振りかえった。

「死んじゃうよ……食べるんだろ?」

「そう」

「だったら……」

「手を出したらだめ。すばる、蜘蛛だって生きていかなきゃならないんだよ」

 少女は冷たくそう云った。そして頭を低くして蜘蛛の巣の下をくぐると、後ろも見ずに歩きだした。

 すばるは息をのんだ。少しためらってから、蜘蛛の巣に恐る恐る手を伸ばし……伸ばして、急に電流を感じたかのように、びくりとあわてて引っこめた。

 淡々と蝶を食料とするための仕事をこなしていく蜘蛛の冷酷さ、機械的な冷たさが恐ろしかったのだ。

 捕らわれた蝶のもがきはもう弱々しかった。糸の揺れも小さい。

 この冷酷な蜘蛛が、悦びに満ちた表情をうかべているかのような錯覚におそわれた。こんな小さな虫にすら、腹を満たす喜びの感情、生きることへの執着があるのだろうか?錯覚ということはわかっているが、一度思いこんだら、その蜘蛛が人間的な残虐さを持つ、とてつもなく恐ろしい生き物のように思えた。

 ふと眼を下にむけると、きれいな玉虫色をした小金虫が、ひっくり返ったまま少しずつ動いている。脚を全部折りたたみ、死んでいるのだ。それがこぎざみにゆれながら進んでいく。胴体も頭も黒々と光沢を持つ無数の蟻たちが、自分たちよりはるかに巨大な小金虫の屍骸を運んでいるのだ。まったく表情なんてあるはずはない蟻たちの行進。でもそれは無言の喜びにあふれているみたいだった。

(――蜘蛛だって生きていかなけりゃならないんだよ)

 少女の言葉を、頭の中で何度も繰りかえす。手を出すことが正しいのか、正しくないのか――?

 すばるは結局、何もすることもできず、蝶からも蜘蛛からも、蟻や黄金虫からも眼をそらすと、巣の下をくぐって、大急ぎで少女の後を追った。


(つづく)

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