火曜日

 朝飯を終えた爺ちゃんが、すばるに話しかけた。

 すばるは家にいた時には朝食なんてろくすっぽ食べたこともないが、今は二杯目をもりもりとかきこんでいた。陽が高くなる前に、ひと仕事すませる爺ちゃんにあわせてずいぶん早く起きたのだから、腹が減って当然だ。

 爺ちゃんが煙草に火をつけつつ、ひどくくせのある、すばるには聞きとりにくい地名だか家の名だかを口にした。 爺ちゃんたちはものすごい方言で、家に来た時は、いつもすぐには意味がわからない。でも不思議なことにひと晩もたつと、何となくわかってくる。

「うちとこん西ん道ば下るっと、道が分かれとろぅが。そこば右に入っていったら、ならんけんの」

 あやうく声をたてるところだった。爺ちゃんが云っているのは、まさしく昨日彼女といっしょだったあの廃屋のことだ。

「何なの、爺ちゃん?」

 動揺したことを気取られないように、何気なく訊ねてみたが、気難しい爺ちゃんは、顔をさらにしかめるようにして煙をはきつつ、あらぁいかん、行くごたならんぞ、と同じことを繰りかえすばかりだった。


* * *


 婆ちゃんが作ってくれたおむすびをリュックに入れて、夕方まで遊んできますと書置きしてすばるは家を出た。時間は決めていないけど、少女には会えるような気がした。

 昨日と同じようにあの木立のトンネルをくぐりぬけて廃屋にたどり着くと、陽射しもまるで気にせず、少女は縁側に座って脚をぶらぶらさせていた。

「よう、来たなー!」

 と笑いながら叫ぶ。昨日と同じようなTシャツとショートパンツ。頭には大きな麦わら帽子をかぶっている。

 爺ちゃんが行くなと云っていた家がここだろうか?とすばるは考えた。信じられなかった。何でだろうか?

「川に行こう!」

 森の中は木の枝や葉が天然の屋根になっているが、ところどころ陽が射しこんで、抱きかかえることができそうなほど鮮やかな光の柱が何本も斜めに立っている。いつもじんわりと空気が動いていて、ほのかなちりが、ただよっているのが見える。そのちりが光の柱の中できらきらと反射する。廃屋の周りと違って、水気のある空気でひんやりとし、たっぷりな木や草のにおいであふれていた。

 時折少女が話かけ、すばるが言葉少なにそれに答える。学校のことや街のこと、あまり答えたくないことばかりなのに、知らないのだから当たり前だが、少女はまったく遠慮なく訊ね、最初はためらいがちだったすばるも、やがて気にせず答えるようになった。

 森の中を三十分ほど歩くと、ひんやりとした空気を感じた。道が谷にむかって下りはじめる。森の気配に、何か別のものが混ざる。

 少女が声をあげながら、いきなり走りだした。

 すばるも追いかける。しっとりと湿った細い山道の最後の百メートルを、ふたりは歓声をあげて転がるように駆けくだり、駆けくだったそのままの勢いがようやくなくなったあたりは、すでに川畔だった。

 小さな谷川だ。どぅどぅと水の音を響かせて、流れが速い。幅は五メートルほど。人の大きさぐらいの岩がむき出しの急な傾斜で、しぶきが霧のようにちりちりとたちこめて、きらきらと光っている。水はうっそうと繁る樹々を溶かしたような深い緑色で、勢いのあるところでは逆巻いている。水の中を小さな魚の銀色の影がはしる。

 真夏なのに、身震いするほどの冷気が谷をつつんでいた。

 そこは平たい岩をいくつも組んだ降り場のようになっていて、脚をのばせばすぐに水面につま先がつく。きっとずっと昔の誰かが、造ったのだろう。少女は麦わら帽子と運動靴を脱ぎ捨てて、ひざの下まで水に入る。

「冷たいー」

 すばるも背負っていたリュックを投げ捨て、サンダルを脱ぐ。流れの速い水に脚をつけると、思わず声が出た。驚くぐらい冷たい水だ。きっと十分と入っていられないだろう。

 木立の間からふりそそぐ光が、水面に反射してきらめく。 川は一瞬も同じ表情を見せない。澄みきっている浅瀬もあれば、逆巻く深緑色の淵もある。

 すばるはすべらないように慎重に歩くが、少女は奇声としぶきをあげて走りまわる。

「---、危ないよ」

「大丈夫!」

 そう云いながら、水を蹴りあげてすばるにかけようとしてきた。そうなってくると、脚下がすべるのもかまわずに、すばるも敗けじと反撃する。ふたりは叫びながら、互いに水をかけあい、子犬のように走りまわった。脚が冷たくなって我慢できなくなると、岸に上がって休憩をとるが、我慢してつかっていた方が、ここぞとばかりに水をはね上げる。かけた方が岸に上がると、今度は逆襲される。そんな攻防が、いつまでもあきることなくつづいた。

 疲れきったふたりがようやく同時に川から上がる。頭から水をかぶって、びしょ濡れだった。

「お腹すいたー」

 寝転んだ少女の息が、はずんでいた。

「ちょっと待って」

 すばるは投げ捨てたリュックから、サランラップにつつまれたかたまりを取りだした。朝、婆ちゃんが昼に食べるようにと作ってくれたおむすびだ。海苔をまいたソフトボールぐらいある大きなかたまりがみっつ。リュックの中で、ずいぶん形がいびつになってしまった。

 ひとつを少女に渡し、ふたりはラップを破ってかぶりついた。婆ちゃんの梅干は、口が曲がるぐらい塩っ辛いけど美味しく感じる。ふたりは声も出さずに夢中で食べる。時々脚下の流れる水をすくって口にはこぶ。

 最後のおむすびを半ぶんこにして食べてしまうと、そのまま木立を見上げて岩に横になる。濡れているけれど、体の中心がほてっている感じで、ひんやりとした空気の中、まったく気にならない。

 寝転んでいるうちに、眠気がやってきた。

「淵で寝たらいけないんだよ」

 少女もあくびをかみころしながら、話しかけてくる。

「どうして?」

「さびしいって気持ちを持ってる人は、淵がつれていくんだよ。すばるは気をつけないといけないよ」

 少女の言葉は、どこかひやりとする低さだった。

「……そんな必要はないよ。僕は別に、さびしくとも何ともない」

 そう答えたけど、本当はどきんとした。でも少女からの反応はなかった。そっと横を盗み見ると、寝てはいけないなんて云ったくせに、いつの間にか小さな寝息をたてている。ほっと息をついた。

 時々、少女は本当にすばるをひやりとさせるようなことを云う。

 変わった子だなぁ……そう考えているうちに、すばるもとろとろと眠りの世界に引きこまれていった。

 眠りの世界との境界で、本当に意識が眠りにつくその刹那、流れる水音とは何か違う気配が、かすかではあったが立ちのぼるように感じられた。 一瞬、水の気配が濃くにおいたったような気がした。

(あ……今の……?)

 考えたが、もう動くことはできなかった。すばるの意識は静かな暗がりに、すぅっと吸いこまれていく……

 後は激しい川の音……


(つづく)

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