廃墟の小説家たち

常陸乃ひかる

四門の町

1 ようこそ狭間へ

落ちる力

 今夜は『1』が四つも並ぶ、縁起が良さそうな日。

 女がひとり、雑居ビルの屋上から薄汚れた都会を見下ろしていた。街は相変わらず夜更かしし、冬の面影を見せ始めた風が、おいでおいでと手招きする。


 女は含みのある溜息をつき、数分前にコンビニで購入した芋焼酎、氷、プラスチックカップをレジ袋から取り出して、ゴニョゴニョし始めた。するとどうだろう、芋焼酎のロックが出来上がったではないか。

 意図せず、合成は大成功である。であれば、飲むしかあるまい。

 その辺に落ちていた段ボールを組み立て、それをローテーブル代わりにつまみを広げ、どっかと座った女は、最期さいごの晩酌を始めた。

 一張羅のオーダースーツが汚れ、新品のストッキングが伝線するが、ネオンを浮かべた至高の乙類おつるいと、添加物たっぷりのアテに舌鼓を打つ女にとって、それは枝葉えだはの問題だった。


 ふと女は、ライトグレーの内ポケットからスマートフォンを取り出し、ダブルクォーテーションで囲ったを入力、サーチをタップした。というのも、因習のごとく探し続けている言葉があるのだ。けれど完全一致は、十年間ずっとナシ。

「ダメか」

 最期の検索が終わった、気温十九度の穏やかな現世。諦観ていかんの視線で見据える先は、夜明けが遠かった。

 ロックで三、四杯やったあと、女は屋上のふちに立ち、

「よし、全身麻酔完了!」

 景気づけのように、慣れない大声を上げた。

 けれど、女の考えは実に浅はかだった。エタノールを摂取すれば、頭の回転が悪くなり、旅立ちやすくなると思ったが、

「でも、わたし……本当に死ぬの?」

 アスファルトを目にすると、たちまち冷静な思考を取り戻してしまったのだ。

 ここで発動したのは幸か不幸か、


『あしたやろう』


 女の悪しき持ち越し癖だった。皮肉なことに、習癖しゅうへきが生きる動機になったのだ。が、改心は少し遅かった。

 ペースを考えず焼酎をグビグビいったものだから、体が言うことをきかず、よろめいた拍子にパンプスが脱げかけ、足を滑らせると、たちまち体が宙に舞ってしまったのだ。女は人生の結句を想像しながら、ゆっくりと『本当に死ぬの?』と、ひとつ前の恨み言をリピートした。

 バサバサと風音が騒ぎたてる中、女の目に飛びこんできたのは雑居ビルの窓越しだった。狭い一室がぼんやりと無彩色むさいしょくに光り、全身包帯だらけの少女が立っているものだから、ついつい死ぬのを忘れて凝視してしまった。

 五秒、十秒、三十秒、そのうち合点がいった。

 その少女は、過去の自分だったのだ。『自分』との今生こんじょうの別れを演出されるなんて実にいきで、実に余計なお世話である。


 ――いやに体が圧迫されていた。が、呼吸はできる。

 違和感だらけの感触を確かめるべく、女が恐る恐る目を開けると、灰色のタイルの上でうつ伏せになっていた。

 月曜朝七時より、よほど意識の覚醒が早く、両手をついて上半身を起こすと、痛みはちっとも感じなかった。週一で通っていたジムのお陰で、ハリウッドヒーロー並の肉体を手に入れたようだ。

 そもそも、ここは? 死後の世界と断定するには情報が少なく、夢の世界と捉えるならば、圧倒的に視界が良すぎる。

 酩酊めいていとは思えないほどクリアな眼で、女はビルを見上げると、雲を貫く高層ビルがそびえていた。天上はタイルと同じ色の雲に覆われており、ビルのてっぺんはまるで見えない。

 一帯には地面と天上、高層ビル以外はなにもないようで、ただ無彩色が広がっていた。タイルは四方に伸びており、遠目にはおどろおどろしい町が、スモッグ越しに浮かんでいる。

 認めるしかない。彼女は今、


『浅い眠り』 or 『死後の世界』


 どちらか、限りなく近い場所に居るのだと。

 女が途方に暮れていると、目線の隅でなにかが動き、遠目に浮かんだそれが高層ビルへと近づいてきた。

「良い歳してなにやってんだか」

 一帯があまりにも静かで、容姿が明らかになるよりも早く、女の耳に届いたのは抑揚のない男声だった。黒と灰のストライプTシャツ、色褪せたジーパン、その足元では、雪駄せったのかかとがタイルをこすっていた。

 社会人とはほど遠い男が近づくなり、目線を女に移し、「あ、先客」と一言。

「このビルに用事ですか? 入口はそこの正面ですよ」

 声を余所行よそゆきに変えて、丁寧な口調を向けてきた。

 茶色い髪を無造作に揺らし、赤いフレームのメガネ越しにこちらを見据える男は、首から二枚のドッグタグを提げている。片方の長円オーバルには小さくなにかが彫られており、もう片方の表面はフラットでなにも彫られていない。

「あっ、え? っと、ははっ……」

 人語が通じるとわかった瞬間、女は安心の末にパニックを起こしていた。笑えるくらい、言葉が出てこないのだ。

「その様子だと、一見いちげんさんですね。であれば、ビルで受付を済ませたほうが良いですよ。俺は呼び出し食らってるんで急ぎます」

「ちょっと、あの――!」

 腑に落ちない女と、利いた風なことを言う男。その構図が嫌で、女は重々しい体を両足で支え、男の背中を追った。

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