第二章 狛犬が啜り泣く《四》

 床に就いてから微睡に落ちるまでは、直ぐだった。思っていた以上に疲れていたようだ。

(長い一日だった……)

 瞼の裏の暗闇が徐々に濃くなり、気が遠くなる……。

 暗闇の向こうから、小鳥の囀(さえず)りが聞こえてきた。目を開くと、見慣れた風景が目に飛び込んだ。

「ここは、家の、庭?」

 見える景色は、雉子橋門内の御用屋敷だ。

 晴れた空を背に浮かび上がる庭木の新緑や、頬を掠める風。何もかも、平生と変わらない。だが、現とは微かに変わる異様な気這いに、善次郎は気付いていた

(随分と巧く造り込んだものだが。妖の幻影にでも、引き込まれたのか)

 用心しながら、辺りを見回す。目の端が捉えた自分の手に、唯一の非常を見つけた。

(手が、小さい)

 両手を開き、まじまじと見つめる。善次郎の両手は、まるで童のように小さい。体中を触り、確かめる。手だけでなく、体そのものが童の如く小さくなっていた。

(体が縮んだのか? まさか、妖の魔力まりきで魂を体から切り離されたのでは)

 至悪の事体が浮かび、ぞっとする。あれこれ考えを巡らせていると、遠くに人の気を感じた。どかどかと大きな足音を立てて、誰かが歩いてくる。

「これ、宇八郎。静かに歩けぬのですか」

 母の怒り声が遠くに響く。足音は縁側に寝転ぶ善次郎に向かってきた。

「おぉ、善次郎。昼寝か? 良い陽気じゃからのう。昼寝には打付けじゃな」

「兄、上……」

 宇八郎が、善次郎を見下ろして、にっと笑った。宇八郎の姿もまた、善次郎と同様に若い。家督を継ぐより前の奔放さが、ほとばしっている。

(違う。これもきっと、兄上ではない)

 そう思うのに、胸中に懐かしさが込み上がる。

「兄上、お帰りなさい」

 口が独りでに動く。警戒を尖らそうとするほどに、思考が膜に覆われるようだった。

(いかん、気を保たねば。昼間のようになっては……昼間、何が、あったのだったか)

 思い返そうにも、頭がぼんやりと重く、何も浮かばない。

「どうした? 寝ぼけておるのか?」

 兄の大きな手が伸びてきて、善次郎の頭を豪快に撫でた。手の熱が直に伝わる。心の奥に鳴り響く陣鉦が、小さくなっていく。

「兄上は今日、どちらにお出掛けだったのですか」

 ぼんやりした頭のまま問い掛ける。宇八郎は表情を止め、善次郎を覗き込んだ。

「今日は久方振りに、卯之助と稽古を付けてくると、申したであろうが」

「卯之助殿と。そうでしたね。稽古は如何でしたか」

 浅い思案で、何となく返事をする。

 急に苦々しい顔になった宇八郎が、どっかりと善次郎の目の前に座り込んだ。

宇八郎と話したい欲が、心の奥に僅かに残っていた警戒を押し退けた。

「一本も取れなんだ。近頃、やけに剣筋が鋭いのは、何故なのだ」

「それは、そうでしょう。卯之助殿は西脇新陰流師範代。加えて、あの背丈と筋骨です。並の使い手では、ありませんよ」

 宇八郎は、にやりとして、善次郎に向かい合った。

「ほぅ。なかなか言うようになったのう、善次郎。そういえば卯之助がお主を、筋が良いと褒めておったぞ。さすがは、儂の弟じゃ」

 宇八郎がまた、わしゃわしゃと善次郎の頭を撫でた。

「あ、兄上。おやめください。目が回ります」

 兄の大きな手が温かく、胸の奥が熱くなる。込み上げるものが何かわからないが、善次郎は、それを懸命に飲み込んだ。

「ははっ。この程度で降参では、卯之助の稽古に耐えられんぞ」

 宇八郎が手を引っ込める。照れた心地を見破られるのが気恥ずかしい。善次郎は髪を梳くふりをして顔を隠した。

「関係ありません。それより、兄上。何故、一本も取れなかったのです。兄上とて、稽古場では卯之助殿に勝るとも劣らぬと言われる腕前では、ありませんか」

「そう言われると、悪い気はせぬがな。儂なぞ、まだまだよ。じゃが、いつか必ず卯之助を負かすぞ」

 にっかりと嬉しそうに笑う顔に、安堵を覚えた。善次郎の大好きな宇八郎の顔だ。

「なぁ、善次郎。儂は卯之助より四寸は背丈が低い。自分より体の大きな相手に、お主ならどう挑む」

真面目な面持ちで宇八郎が問う。善次郎は腕を組み、思案した。

「低い構えから間合いを詰め、素早く懐に飛び込み、足を払います。小さくても、動きの速さには自負があります」

「うむ、悪くない。してそれが、木刀でなく、真剣であれば、何とする」

「え? 真剣、ですか」

「相手は卯之助、否、儂としよう。足を払い、儂が転べば、喉元に刃を突きつける隙を付けよう」

 善次郎は半端に開いた口を、ぐっと閉じた。

「どうした、できぬか」

 宇八郎の声から、先ほどまでの明るさが消えていた。

「兄上を斬るなど、できません」

 宇八郎の纏う気這いが変わった。俯く顔に、宇八郎の手が伸びてくる。がつりと頭を掴まれて、顔が上がった。

躊躇ためらわず、斬れ」

 鋭い眼光が殺気を帯びる。心の奥に押し退けた陣鉦が、徐々に蘇った。

「何故、そのような話をなさるのですか。兄上を斬らねばならぬ事体など、起きようはずもありません」

 抗おうと、頭を掴む腕に手を伸ばす。思考を覆う膜が一枚ずつ剥がれていき、頭がはっきりしてきた。

(ここは幻影の中だ。これは、兄上ではない。早く、この腕を……)

 童の小さな手では、逞しい宇八郎の腕に届かない。

(抜け出す、糸口を、探さねば)

懸命に伸ばす小さな手を払い退け、宇八郎が低い声で凄んだ。

「如何な次第であろうと、必用と判じた時は、儂を斬れ。良いな」

 有無を言わさぬ宇八郎の威力いりきに、ぴたりと動きを止めた。

(兄上の、気這い。これは、本物の兄上か。この幻影は、兄上が……?)

 善次郎を貫く眼の奥に、確かに宇八郎を感じた。

 刹那、宇八郎が善次郎の体を投げ捨てた。受け身を取り、素早く起き上がると、身構える。

 目の前に立つ宇八郎は既に、全く別の気這いに覆われていた。

(惑わされるな。気を研ぎ澄まし、心を凝らせ。眼だけで見ようとするな)

 善次郎は目を閉じ、気這いに気を尖らせた。瞼の裏に、赤い灯火がゆらりと揺れた。

(先ほどの兄上とは、別物だ。やはり、この幻影は、妖か、或いは怨霊の仕業か)

 瞼を開き、目を凝らす。宇八郎の身から赤い気がじわりと浮きあがった。

「そうだ、迷わず儂を斬れ。斬られる前に、儂がお主を斬って捨てるがな!」

 禍々しい風が暗闇の中を靡く。宇八郎が剣を振り上げ、走り込んだ。

(これが、幻影の正体か)

 善次郎は身を屈め、宇八郎の足を低く蹴り払う。宇八郎が体勢を崩した隙に後ろに飛び退き、端に転がる木刀を拾い上げた。

「邪魔な小者が。ようやく動き出したところを、飼い犬風情が、ちょろちょろと鬱陶しい」

 蹲ったまま、宇八郎が苦痛の呻りを上げる。地を這うような声は、善次郎の知る兄の声ではない。

「兄上の顔でそれ以上、口を開くな。この場で斬って、終わらせてくれる」

「愚かしい。この幻影は儂の腹の中。紀州の飼い犬如きに何ができる。久方振りに兄と話ができて喜んでいたであろうが。なぁ、善次郎」

 くっくと病んだ笑みを噛み潰して、宇八郎の顔が悪辣に歪む。善次郎の怒りは頂上に達し、足が勝手に地を蹴った。

「その顔で、儂の名を呼ぶな!」

 振り下ろした木刀を宇八郎が、あっさりと受け流す。

「浅い、浅い。飼い犬の剣など儂には届かぬ」

 飛び込んできた宇八郎に足を蹴り払われ、堪らず地に転がる。避ける隙もなく、真剣が首元を目掛けて降ってきた。

(しまった!)

 がつん、と突然、頭の後ろに強い打撃が走った。

 刹那、暗闇が善次郎の眼前を塞ぐ。沈んだ意識が浮遊する、嫌な酔いに流されそうになる。抗いながら、善次郎は無理やりに目を抉じ開けた。

 眼前で、刀の切っ先が鈍い光を放つ。今まさに振り下ろされんとする刃を、体を反転させて避ける。転がりながら、脇に置いた自分の刀を掴み、起き上がった。

 同時に辺りを見回す。善次郎が床に就いた、皓月堂の部屋に戻ったようだ。

(なんとか幻影からは逃れたが)

 善次郎が寝ていた布団に刀が突き刺さっている。闇に白く浮かび上がる刀剣を、宇八郎が引き抜いた。

「現でも、変わらぬか」

 ぐっと喉を引き締める。脇に携えた刀を鞘から引き抜くと、宇八郎に向かい、構えた。

 宇八郎の体は手にした刀と同じように白い。乱れた髪が揺れ動いて、眼の表情を隠す。

(幻影の中のような殺気を感じぬ。何かが、違う)

 白刃を持つ手を、だらりと垂らした宇八郎は、強直したまま動かない。善次郎は静かに目を閉じた。

 瞼の裏に、ぼんやりと白い灯火が浮かび上がる。白い影は微動だにせず、善次郎を見詰めている。幻影の中の宇八郎とは違う。静かで懐かしい気が、流れ込んでくる。

(幻影の中で斬り懸かってきた兄上とは、まるで別人だ)

 ゆっくり眼を開く。瞼の裏の灯火と同じ色を纏う宇八郎が、善次郎を見つめる。

「本当に、兄上、なのですか」

 善次郎の構えが、ふと緩む。宇八郎が小さく口を開きかけた、その時。

「如何なさいました、善次郎様!」

 勢いよく襖が開き、皓月が飛び込んだ。宇八郎の姿を見つけて、ぴたりと動きを止める。

「宇、八郎……」

 皓月の呟きに、宇八郎が目だけを向ける。しばし眺めた後、開きかけた口を閉じた。ゆっくりと善次郎に眼の先を戻してから、宇八郎は瞼を閉じた。

淡靄たんあいがじわりと宇八郎の体を包み込む。足元が白い粒になり崩れ始めた。やがて体の総てが白光の淡い粒に変わり、闇に溶ける。一塵も残すことなく、宇八郎は暗闇に消えた。

美しくも儚い光景を目前にして、善次郎の腕から力が抜けた。刀の重さに引き摺られ、その場にくずおれる。

「善次郎様、お怪我は?」

「大事ない。何者かの幻影に飲まれたが、寸で逃げ遂せた」

「それは、何よりでございました。御傍に付きながらの無様な失体。申し訳ございません」

 頭を下げる皓月に、善次郎は奥歯を噛んだ。

「お主の失体ではない。あれは儂が仕留めるべきであった」

 皓月は俯き、表情を強張らせた。

「今の死霊は、宇八郎で、ございますね」

 噛みしめる皓月に、善次郎は無言で頷く。皓月の纏う気が張り詰めた。覚悟が痛いほどに伝わってくる。

「皓月、お主は殺気を漏らさず、人を斬れるか」

 宇八郎の立っていた所を見詰めたまま、善次郎は淡々と問う。

「善次郎様? ……何かが、あったので、ございますね。今の宇八郎と関りが?」

 皓月が険しい顔で、善次郎を見詰めた。

「幻影の中で、兄上に会った。奴は確かに儂を殺す気であった。だが、幻影から逃れ現に戻った後に会った、今の兄上に、殺気は微塵もなかった」

 皓月は押し黙ったまま、善次郎と同じ場所を見詰める。

「確かにあれは、兄上だ。死霊と化したのも、どうやら間違いない。だが」

 立ち上がり、宇八郎の刀が突き刺さった場所を凝視する。布団の一部が黒く焼け焦げていた。その真ん中に、刃の刺さった跡がある。

 焦げた所に指を滑らせ、目を閉じる。瞼の裏に、赤い灯火が微かに滲んだ。

(禍々しさを帯びる赤い灯。狛犬に膠着していた恨みの念と、あまりに近い)

 幻影の中で善次郎を襲った宇八郎も、これに近い気這いを纏っていた。

(あの幻影の主と狛犬を壊した者は、同じかもしれぬ)

 林の中で狛犬の姿をした妖に襲われた時、最初に宇八郎を見つけた。幻影の中にも、この場にも、宇八郎が現れた。

 何らかの事情で宇八郎が件に関わっているのは、もう否定できない。

(だが、違う。兄上ではない)

宇八郎が犯人ではないと信じるだけの自信が、善次郎には、あった。

『紀州の飼い犬』

 幻影の中の宇八郎は確かに、そう吐き捨てた。大御所様が呼び寄せた御庭番を蔑視するような挙動を、少なくとも宇八郎は、しないはずだ。

「兄上を元凶と断ずるのは、早計だ。他にも何かが絡んでいると、考えるべきだろう」

 言葉を詰まらせた皓月だったが、一つ息を吐くと、表情を変えた。

「善次郎様がそう仰るのなら、異議なんざ、ありやせんよ。俺も、宇八郎を信じてぇですからね」

 悲しげに微笑む皓月の顔は、まだ気持ちを決めかねているように見えた。

 ふと、皓月の後ろに、枕を抱えた小さな童を見つけた。善次郎が覗き込むと、童はそそくさと広い背中に隠れた。

「こいつぁ、前からうちに住み着いている、座敷ぼっこでさぁ」

「前に話していた妖か。姿を見るのは、初めてだな」

 かなり前から存在は察していたが、姿を見たことは一度もなかった。

(これほど傍に寄ってきたのは、初めてだ。やはり儂の中の、何かが変わったのか)

 座敷ぼっこが抱える枕を眺めて、ふと気が付いた。

「まさか、儂の頭から枕を引き抜いたのは、お主か?」

 叱られると思ったのか、座敷ぼっこは震えて皓月の後ろに引っ込む。ひそひそと皓月に何か耳打ちした。途端に、皓月の頬が緩んだ。

「善次郎様が魘されていたので、枕返しをしようと思ったそうですよ。しくじっちまったそうですが」

 刺されそうになった直前に、頭に響いた強い痛み。あれが恐らく、座敷ぼっこが、しくじった枕返しだ。あの打撃がなければ、幻影から抜け出せなかったかもしれない。

 善次郎は絶句した。同時に、ふっと、体から力が抜けた。

「そうか、儂を救ってくれたのは、お主だったか。お陰で難を逃れた。礼を言う」

 座敷ぼっこが皓月の背中から、そっと顔を出す。善次郎に向かい、嬉しそうに笑った。小躍りするような足取りで、枕を抱えたまま、どこかに消えた。

「待て、儂の枕を返してくれ」

「枕なら他に、いくらでもありやすよ。新しいものをお出ししやしょう」

 皓月もまた、嬉しそうに笑う。

「善次郎様、お変わりになりましたね。以前より、妖が怯えを見せなくなりやした」

 皓月の顔には、自信が見える。善次郎本人より、確かな変化を感じとっている表情だ。

「まだ感得はないのだが、確かに何かが変わったと感じる」

 父の教えである、心眼。今より自在に操れるようになれば、必ず何かが変わる。

「御役目に役立てられるよう、鍛錬せねば」

「善次郎様なら、きっと使いこなせるようになりやしょう。此度の御役目には特に、肝要になりやしょうから」

 笑みを仕舞った皓月の目が、焼け焦げた布団に向く。善次郎もまた、刺さった刃の跡を、じっと見つめた。

 白い刀剣が突き刺さった、赤い灯火の焦げ跡。これが何を意味するのかで、前途は大きく変わってくる。

(兄上の白刀が刺したのが、儂だったのか、赤い灯火だったのか)

汗ばみ熱を持った掌を、善次郎は強く握る。

(急がなければ。至悪の事体だけは、何としても避けねばならぬ)

 胸の内に燻る昂りが抑えきれず、拳がせわしなく震えていた。

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