第二章 狛犬が啜り泣く《三》

 夜四つの鐘が鳴っても、お鴇は目を覚まさなかった。

 出会った時の蒼顔に比べれば、頬に赤みも戻った。一見しては、ただ眠っているだけのように見える。

(顔色は戻ったが、気が憔悴しょうすいしておるのか)

 あの鏝はお鴇から精気を吸っているように見えた。道具を抱え、どれだけ皓月を探し回っていたのかわからないが、短い時ではないだろう。その間、ずっと気を吸われ続けていたのだとしたら。

(目を覚ますには、時が掛かりそうだな)

 掻巻からこぼれた手を、そっと掬う。善次郎の手にすっぽりと納まってしまう小さな手にも、温かさが戻っていた。安堵しながら掻巻の中に手を戻す。

 と同時に、すっと襖が開いた。振り向くと、皓月が口端を上げて、にっと笑っている。いつもの笑みに若干の揶揄が混じって見えた。

「道具の具合は、どうだった。あの鏝の他にも、怪しいものは、あったか」

 平生の善次郎に、残念そうな顔をしながら、皓月が腰を下ろす。

「古い血の付いた鏝は他に三本くれぇでした。よく見ましたら、箱の側面にでっかく血が染み込んでいやしたんで。血の付いた鏝は直に穢れを受けたんでしょうが、他の道具は桐箱の邪気に曝されたものかと」

「そうか。初めに見た時、長七のものでは、なさそうだ、と言っていたな。あれは何故だ」

「かなり古い道具ばかりですし、使われた様子がねぇんです。善次郎様の読み通り、手入れをして大事に仕舞っていたんでしょうね」

「儂は職人の仕事には疎く、わからぬのだが。使わなくなった道具を、そうも大事に手元に置くものか?」

 皓月が顎に手を当て、首を傾げた。

「其々でしょうがねぇ。大概は古くなった道具を供養してやって、新しいもんに変えるでしょうね。手元に置くからには、何かしらの事情があったんでしょう」

 只の古い道具ではなく、血の穢れを受け邪気を孕む半妖まがいの代物だ。それと気づいていなくても、供養するのが常法と思えるが。

「事情、か。確かに曰くは、ありそうだが」

 眠るお鴇の顔に眼を向ける。本人に聞かなければ、これ以上は推察のしようもない。

「あとはお鴇が目を覚ましてから聞くことに致しやしょう。今日は善次郎様もお疲れでしょうし、お休みくだせぇな。あとは俺が引き受けやすから」

「ああ、そうだな……」

 いつもと同じように振舞う皓月に、歯切れの悪い返事になった。

 お鴇を休ませた後すぐに、皓月に御役目の内実と昼間の出来事を伝えていた。

 宇八郎の影を見た話をすると、流石の皓月も憂いの表情を隠さなかった。だが、それも刹那のことで。

「善次郎様が一目で気に入った娘に手なんぞ出しません。ですから、安心して床に就いてくだせぇな」

 いつもの調子どころか、うわついているようにすら見える。かえって気懸りだ。

「では、頼む。儂は休むとしよう」

 あえて余計なことを言わず、腰を上げる。皓月は物足りない様子で、思案顔をした。

「あぁっといけねぇ。お伝え忘れていやしたが、長七の所に遣いを走らせました。仕事で清水に出張っているようでしてねぇ。しばらく帰れないでしょうねぇ」

 わざとらしく含みを持った言廻しに、素っ気なく返事する。

「両親は家におらぬのか」

「長七とお鴇は、随分前に二親を亡くしておりやすんで。二人きりで肩を寄せ合って暮らしているんでさぁ。可哀相にねぇ」

 哀愁漂う声音で皓月が呟く。

 少しばかり自分の境遇と重ねて思い、善次郎は口を噤んだ。

(お鴇はまだ年若い娘だ。さぞ心細いだろう)

 長七がいない間に、わざわざ道具を抱えて走ってきたのだ。きっと深い事情があるに違いない。

 皓月の言わんとする真意は汲み取れる。とはいえ、皓月には、違う思惑もあるのだろうが。

「このまま一人で帰らせるわけにも、いくまいな。お鴇が望むなら、長七が戻るまで留め置くとしよう。起きれば事情も聞けようからな」

 平易に言い切って、ちらりと皓月を伺う。皓月は、してやったりな顔で、にっと笑った。

「やっぱり善次郎様はお優しいですねぇ。放っておけねぇんですから」

「今更見て見ぬ振りは、できぬ。それに、儂にそう言わせたかったのは、お主だろうに」

 呆れた声を返すと、皓月は顔を背け、眠るお鴇のほうを向いた。

「いいえ、お優しいですよ。優しすぎるほどにね。だから、放っておけぬのです」

 揶揄のない、悲し気な声が小さく、柔らかく流れる。

 皓月は、それきり何も言わなかった。

 広い背中が、微笑んでいるようにも、泣いているようにも見える。

 善次郎は黙ったまま、皓月の背中を見詰めていた。

「善次郎様、何もかも背負い込むのは、やめてくだせぇよ。この皓月にも総てお話くだせぇまし。俺は善次郎様の耳と目で、ございますから」

 発した声と凜とした背中は、皓月ではなく、木村卯之助だった。皓月が何を思って発した言葉かは、すぐにわかった。

「当然を申すな。此度の御役目は潺の御役目でもある。お主こそ、しかと心得よ」

 暫しの間があり、皓月の背中に漂う気が、薄れた。

「そうで、ございました。申し訳ございません。必ずや、お役に立ちましょう」

 ゆっくりと振り返った皓月の微笑が、宇八郎と重なる。

 善次郎は一つ頷いて、部屋を出た。

「ようやく常の皓月に戻ったな。馬鹿め」

ぽそりと零して、廊下を歩く。

(気持ちは、わからぬではない。皓月は儂より、兄上と過ごした時が長いのだからな)

 影を見ただけで、宇八郎が件に関わっているのかすら、今はまだわからない。しかし、もし怨霊にでもなって悪行に荷担していたとしたら。善次郎が皓月の内心を慮り、一人で動くかもしれないと懸念したのだろう。

(そのような振舞いができるか。やっと出雲守様の真意が見えてきたというに)

 忠光が異例の御役目を善次郎に指示したのは、兄・宇八郎の関りを察して、憂苦した故かもしれない。

 此度の御役目は、壊された狛犬を調べるという、一見すると些細な仕事だ。にも拘らず、さも大事のような言廻しで急かした忠光。それに忠朝の素早い手回し。善次郎への気遣いと考えれば、どちらも得心がいく。

(御家の存続にすら関わる大事だ。出雲守様と因幡守様の御心に感謝してもしきれぬ)

 存命中の宇八郎は、御家人である明楽家を旗本格に昇進するため、真摯に御役目に励んでいた。あの真っ直ぐな兄が、悪霊に身を落とすなど、あるはずがない。

(何かが起こっているのは事実。必ずこの手で真実を暴き、兄上の潔白を証明するのだ)

 強く拳を握り締め、廊下から空を見上げた。満天の星が夜を彩る。小さな灯が集まれば、月のない黒い空は、こんなにも眩い。

「本当は気付いておるのだろうがな、皓月。儂がお主に隠し立てなど、するはずもない」

 今は使役する間諜であっても、元は剣の師であり、時に兄のように慕う相手だ。

(儂の前で、取り乱してくれるなよ)

 お鴇を運んだ時には気付かなかった星灯を、善次郎は目を眇めて眺めていた。

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