トイレの彼

 私はお腹が弱い。故にトイレは癒しの空間であり、聖域——サンクチュアリだ。そのせいか、人生においてトイレ清掃を馬鹿にしたり、清掃業者の方を見下すようなことをする人間を嫌うことが多かった。


 偏見も混ざっているが、大学生にはそういったソーシャルワーカーを下に見る連中が多い。私はそんな連中が大嫌いだったし、そいつらを下に見ていた。


 今思えば、そうすることで自分はあんなやつらではないと考え、正気を保っていたのかも知れない。それでも、連中を見下している間は自分が何か大きなものになれた気がして、とても気分が良かった。


 そのようなことを考えながら、私は今日も用を足す。大学のトイレは綺麗ではあるものの空調が届いておらず、夏になると蒸して仕方がない。それでも腹痛に苦しめられるものにとっては救いであり、個室で汗ばむシャツをぱたぱたとはためかせて何とか凌いでいた。


「暑いな」


 トイレに入ったときから隣の個室にも、小便器にも人がいないのがわかっていたのでついつい愚痴が声に出る。それに今は講義中でトイレに来るものは普段よりも少ない。


 締め切られた個室、夏の熱気、白い蛍光灯、無音の空間——それらは自然と私を開放的にした。


「あっついなぁ」


 ドアが開く音と、地面を蹴って個室に駆け込む音が聞こえる。咄嗟に独り言を聞かれたかと不安になったが、それ以上に音を響かせていることから、彼もきっと急いでいるのだろう、自分と同じお腹が弱くて苦しんでいる人間なのだろうと一方的にシンパシーを感じていた。


「うっうっうっ」


 うめき声——トイレには似つかわしくない。一瞬、もしかして漏らしたのかと嫌な予感を覚えた。トラブルだけは持ち込まないでくれよ、ここは私の聖域なんだ。そんな身勝手ながらも誰もが考えるような愚痴がぐるぐると頭を巡る。その間も隣は声を押し殺して泣いているようなので、気味が悪かった。


 カチカチカチという音が聴こえる。トイレットペーパーでも、ベルトを外す音でもない。そもそも、隣からズボンを下ろす音はおろか、水音すら聴こえてこない。汚い話だが、ここはトイレだ。それらの音が聴こえないのはおかしい。それでもカチカチという音だけは聴こえる。


 カチカチ、カチカチ、カチカチ。一瞬、頭にという単語が浮かんだ。

 しかし、トイレでカッターナイフを使うことなんてあるだろうか。トイレは人間が最も無防備になる空間の一つだ。そのような空間で刃物を出すことがおかしい。


「ううう、ううう」


 喉の奥にこもるような泣き声は個室の間仕切りの下から耳へと這ってくる。そのとき、何かヤスリか何かをこするような、鈍くも痛みを伴う音が聴こえはじめる。


「うっ」


 ぞりぞり、ずりずり、ぞりぞり、ずりずり。酷く嫌な音だ。耳を塞ぐか、今すぐトイレから逃げ出してしまいたい。それでも私はこの閉鎖空間にいるしか道はない。


「ううう、ううう」


 もし今、個室を出たら隣の男と鉢合わせになるのではないかという不安が逃げ出そうとする欲求に打ち勝ったのだ。相手は刃物を持っている。何をしているのかは想像の域を出ないが、何かを傷つけている。そのような人間と二人っきりで鉢合わせしたら——最悪の未来しか考えられない。


 私はトイレの個室という蒸し暑い閉鎖的な空間で、声を押し殺し、耳を塞いでうずくまるしかなかった。何分も、何分も、何分も、そうするしか道はなかった。


 10分以上は経っただろうか。せめて他に誰か入って来いと祈りながら孤独に耐え続けていたが、カッターナイフの刃をしまう音と布の擦れる音、そして隣の個室のドアが静かに鳴り、トイレのドアが開く音を確認して個室を出た。ここから逃げよう——そう思いながらも、隣の個室を覗いてしまう。


 そこには床にまだらに垂れた赤い液体——血尿などでは絶対に無いもの——が飛び散り、靴か何かで擦ったのか伸びていた。


 トイレのドアが開く音が聴こえる。咄嗟に身構えるが、その後の女性の「すいません、清掃です」という言葉に膝の力が抜けそうになった。


 彼女と入れ替わるようにトイレを飛び出し、クーラーの下で冷や汗を乾かす。隣にいた男の苦悩も、彼が何をしたかも私にはわからないし、考えたくもない。私と彼の人生はすれ違うだけだ。そうであっても、今日、刃物を持った男と鉢合わせなかった。それだけで良かったと思えた。


 それから何分か経ち、気持ちがようやく落ち着き、鼓動も静かになってから胸が締め付けられるような重いから解放された。ゆっくりと呼吸をし、自分とは違う。もう二度と出会うことはないと言い聞かせ、頭の中に余裕ができ始めるとはじめてトイレの彼の後始末をする清掃員のことを考えることができた。


 清掃員の女性は床に滴る血を拭い、汗を流してすべてを元に戻すのだろう。あそこに満ちていた男の苦悩や狂気、怒りにカッターナイフがもたらす疼痛もすべて拭い去り、何もなかったのように次の清掃場所へと行く。それを繰り返す。それが彼女の仕事なのだから当たり前なのだが、私にもそれができるだろうかと考えてしまう。


「駄目だ、できない」


 トイレのドアを見つめながら、ぼそりと呟く。他人の人生にすれ違いながらも、そこから漏れ出る人間の精神という形容し難い何かを無視して何事もなかったように過ごすことはできない。頭の中にそれがこびりつき、それによる不安を抱きながら眠ることになるのは必定だ。


 私はきっと、人間として生きることが不器用なのであろう。清掃員、そしてすべてのソーシャルワーカーの方々へ心の中で敬意を表しながら、私は大学を後にした。

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平凡な大学生の平凡な日常 鯨ヶ岬勇士 @Beowulf_Gotaland

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