第6話 この世界の歩き方

「ねえ、ミリアさん。ここってバイトとかないんですか……?」


 日が暮れ始め夕焼けが王都を覆い尽くす中。早めの夕食を取っていたルミは、机に突っ伏しながら給仕の女性に──ミリアに声をかけた。そのまま一気にジョッキの中身を煽る。中身はアルコールではなくジュースだが。

 悪酔いしたような姿なのは、ただルミのテンションの問題である。


「ちょっとどうしたの? 何か嫌なことでもあった? まだ混雑する時間じゃないから話ぐらい聞くけど」


 牛肉のステーキを運んできたミリアがそのまま隣に腰を下ろす。こんな美人に愚痴を聞いてもらえるとは僥倖だ。ほんの小さく微笑んで、自虐げな言葉を続ける。


「ちょっと思うことがあって……それで、バイトとかってないんですか?」


「残念だけどうちじゃ募集してないわね。こんな場所だけど国営だからさ。一応、ここで働いてる人たちってみんな公務員なの」


「あーなるほど。公務員……公務員かぁ。立派ですね……それに対して僕は……」


 アベルの家に保護されているニートだ。こんなファンタジー世界でまで社会的な格差を見せつけられるとは思わなかった。ますます机に顔が埋まっていくが、料理が冷めたら勿体ないとのっそり顔を上げる。

 人のお金で注文した食事なのだから、一口も無駄にはできない。


「事情が事情だから仕方ないわ。そうやって気にしてるうちは大丈夫よ。でも、急にどうしたの? 昼間までは図書館で故郷に帰る方法を探すって張り切ってたのに」


「……ちょっと、色々と言われちゃって。そもそも本当に帰る必要があるのか、わからなくなっちゃったんです」


 図書館でのやり取り。カインとの会話の中で突き付けられた言葉がずっと頭をぐるぐるしている。いや、他人に責任を押し付けるのは間違いか。

 いずれ自分で気づき、自問しなければならないことだった。自分の行動の理由を。どうして元の世界に帰りたいのかを。


「どうしてここに来ちゃったのかも、故郷への帰り方も、個人の力で調べられることじゃない。そもそも、本当に帰りたいって胸を張って言い切れない」


「……そう、ね」


「だったら……」


 ミリアは黙って聞いてくれている。静かにこちらを見てくれている。だから、だろうか。どうにも口が軽くなってしまっていた。


「アベルに迷惑かけ続けるよりも、自力で生活できる土台を用意するべきなんじゃないかって……」


 王国が異世界からの来訪者を正式に認めたとして、彼らが行うのは真偽と原因の調査までだ。ルミのような転移者たちを地球に帰す方法を探すとは思えない。だって、送り届けることに何のメリットもない。

 結局のところ、日本に帰る方法は自力で見つけなければならないのだ。


 だからいつ帰れるのか、現状ではわかったものではなかった。少なくとも一か月やそこらでは済まないだろう。一年、二年、十年──或いは、ずっと。その間、何時か帰るからとこの世界での暮らしを疎かにし、アベルの世話になり続けるのか。

 仮に帰れたとしても、何の恩も返さないままに元の世界に戻るのか。


 それが正しいとは、一度気づいてしまえば到底、思えなかった。


「それで、バイトでもして生活費の足しにって?」


「……はい。後ろ盾も何もない、知り合いもアベルとミリアさんぐらいしかいない中じゃ、ろくな仕事なんてあるとは思えないですけど……簡単なバイトぐらいなら」


 無駄に時間があるのもダメだった。いくら何でも丸一日を調査に費やしたところで集中力が続くはずがない。集中が途切れてしまえば関係ないことに思考が向けられてしまう。

 ただ日本への帰還を掲げ、目を逸らした現実に意識が向いてしまった。


 ナイフでステーキを小さく切り裂き、そのまま口に運ぶこともせずに黙り込む。そうしていると、酒場の喧騒に紛れてクスクスと女性らしい笑みが鼓膜を揺すぶった。

 ミリアがルミを見て、上品に笑っていた。


「な、何ですか? 僕は割と本気で……」


「いや違うの、ごめんね。びっくりするぐらい真面目だなって思っただけ。ルミちゃんは育ちが良いのね」


「……ごく普通の庶民の生まれですけど」


「それをごく普通だって思えてるのが育ちが良いってことなのよ。別にお金持ちだったり、貴族っぽい趣味を持ってたり、そういうことばかりが育ちが良いってことじゃないからね」


 今一納得が出来ない。ルミは育ちが良いだなんて、考えたことも言われたこともなかった。

 ルミは──真雪は、そんな高尚な人間ではない。波風立てず周囲に適度に合わせて生きてきただけだ。だからこそ、自己があまりない。明確な人生の目標も何もなく、ただ周りの状況に流されてきた。


 それがもう、許されない。異世界に性転換して転移する。そんなあまりに特殊な状況に置かれてしまえば、何となくで生きることなんてできやしない。自らの意思で進む道を選ぶことが求められる。

 目指すべき理想の未来すら、定まっていないというのに。


「明後日にはアベルも帰ってくるから、どこかで働くにしてもそれからにしなさいな。アベルだって色々と承知の上であなたを保護したんだから、ちょっとぐらいの出費は気にしてないわよ」


「そう、ですかね」


「あなたは本当に真面目ね! いいのよ、女の子なんだから少しぐらい甘えておきなさい。その代わりちょっとしたことでいいから恩返しすればいいの」


「ちょっとしたことって例えば……」


「そうねぇ。帰ってきたときにご飯でも作ってあげたら? ルミちゃん料理とかできそうだし、あなたみたいな可愛い子の手料理なんて男なら泣いて喜ぶわ」


 ミリアには本当は男性であることまで話していない。だから当然のように女の子扱いされることに罪悪感を覚えた。

 けれど、男性だからこそ女性の手料理に涙する感情は良く理解できる。問題はアベルがルミの正体を知っていることだが、見た目だけは可愛らしい少女なので勘弁してもらおう。


「そう、ですね。他にできることもないし、せめてご飯ぐらいは……」


「せめてじゃなくて、貴重な手料理なの! あなたは何というか、どこかちぐはぐね。自分が可愛いって自覚はあるでしょ?」


「ま、まあ、ありますけどっ」


「だったら存分に使いなさい、可愛いってのは女性の才能よ!」


 実に女性らしい価値観に苦笑い。けれど何も間違っておらず、男性と言うのはちょっと女性に愛嬌を振り撒かれただけで許してしまう単純な生き物だ。それで喜んでもらえるのならば、少しぐらいの労力を出し惜しむつもりはなかった。


「頑張ります。……アベルが泣いて喜ぶのはちょっと見てみたいですし」


「あははは! それはそうねっ! あの仏頂面が崩れるのは確かに見物だわ! そのぐらい美味しいご飯を作ってあげなさいな」


 ならば少ない時間で練習しなくては。独り暮らしで最低限の技術はあるが、手に入る食材が日本とはまるで異なるうえ、人様に出せるほど上手でもない。あくまで自分が食べる用の男料理が精々である。

 アベルが泣いて喜ぶ姿は想像すらできないが、そのつもりで臨もう。


「ありがとうございます、やっぱり何かやることが決まるだけで少し楽になった気がします」


「なら良し。何もしないってのが案外、大変だったりするからね」


 本当にその通りだ。どんな些細なことでも良い。何か物事に取り組むだけで気は晴れる。例えそれが問題の先送りだったとしても、まずは精神を休ませないことには何も手が付かないだろう。

 小さく笑って、今度こそステーキに齧り付く。美味しい。柔らかい肉の旨味と、濃厚なオニオンソースが口の中に幸せとなっていっぱいに広がる。


 そんなルミの横顔を眺めていたミリアが、ふと思い出したかのように口を開いた。


「そうだ。そういえばルミちゃん化粧としてないわよね? 道具がないからとか?」


「うぐっ……け、化粧っ? いやぁ……そもそもやったことがないというか……やり方もわからないというか……」


 元男性なのだから当然、化粧品なんて触ったことすらない。だがそんなルミの裏事情を知る由もないミリアは目を大きく見開く。


「ええ!? それはダメ、勿体ないわ! ルミちゃんぐらい整ってたら軽くでいいけど、その軽くが大事なの! 可愛い子は可愛くする義務があるのよ!?」


「そ、そう……なんですか……?」


 可愛い子は可愛くする義務がある。大いに同意しよう。けれど自分がその対象に含まれ、化粧を強要されるのはどうにもむず痒さと困惑が先行する。

 だがその曖昧な表情をどう捉えたのか、ミリアの口調はヒートアップする一方だ。


「恥ずかしがらなくていいの! 時間なら有り余ってるんでしょ? なら明日の……そうね。お昼ご飯あとね。私が教えてあげるからっ!」


「で、でも……」


「でもじゃないの! 私が許さないから!」


 あまりの圧力に肉を咀嚼しながら仰け反る。歯切れの悪い言い訳しか持たないルミに、ここまで情熱を燃やすミリアを追い払うことなどできなかった。

 けれども。この押しの強さはあくまでルミを気遣ってのことなのかもしれない。根本的に悩みを解決することはできないが、代わりに忙しさで悩む暇を与えないようにしようとしているのではないか。それに気が付いてしまうと、彼女の優しさに自然と笑みが──


「私のやつじゃ肌の色とか合わないわね……今日の仕事終わりにギリギリ店は開いてる……? そしたら急いで買ってきて……」


「…………」


 気遣いではなく、全て本音なのかもしれない。明日は大変だろうなと諦念を抱きながら、残りのステーキを口に運んだ。


☆ ☆


 翌日。図書館で今日も調査をしていたルミは、そのままの足で冒険者・開拓者ギルドに向かっていた。安否確認のために顔を出すのはもちろん、昨晩の約束があるからだ。

 絶対にルミの意思など関係なくミリアに好き勝手にされる。それも男性ならば一生やらなかった可能性が高い化粧で。ほんの少しだけ憂鬱だが、同時にこうして見知らぬ土地でも他人と親しくできることには感謝した。

 

 ずっと独りぼっちはきっと辛い。ルミだって人並みにおしゃべりするのは好きだ。


「……遅くなっちゃうかな」


 複雑な感情にため息をつきながらも、ルミは空を見上げた。雲一つない晴天だ。もうすぐ正午と言ったところか。具体的な時刻はわからない。携帯電話は存在せず、手持ちの時計も高価なものなのだから、どこかの建物に備え付けられているものを確認するしかない。

 明確な時間を約束しているわけではないが、あまり遅刻するのも良くないだろう。ちらりと大通りから逸れた裏路地を一瞥する。


「ちょっとぐらい、平気でしょ」


 ──裏路地には絶対に入るな。


 アベルから散々言いつけられていた言葉が脳裏を過る。けれどほんの数分だけ歩くだけで、すぐに別の通りに出る。ルミの脳内マップが間違えていなければ、それがギルドへの最短ルート。それにこんな真っ昼間なのだ。

 大した危険もないだろうと、ルミは薄暗い道へと踏み込んでいった。


「えっと……向こうか」


 駆け足で進んでいく。日の遮られた狭い空間は涼しくて過ごしやすいものの、人々の喧騒が遠のいていくと徐々に不気味な気配が強くなってくる。


「……っ?」


 小さな物音を拾い、ルミは反射的に振り返った。小さな野良猫が歩いている。ただそれだけ。


「……いそご」


 それだけのことにこんなにも心臓を跳ね上げている自分に気づき、ほんの少しだけ後悔した。だが今更来た道を戻るよりもさっさと走り抜けた方が早いだろう。

 更に歩幅を大きく、足を速く動かして──


「────」


 視界の端に映る光景に、気づいてしまった。若い女性だ。今のルミの見た目よりも少しだけ年上の女性。恐怖に顔を歪ませた彼女が、何者かに手首を掴まれ路地裏の陰に引きずり込まれていく。

 足が止まる。周囲を見渡す。誰もいなかった。ルミ以外には誰も。


「だ、誰か……!?」


 どうすれば良い。ルミの勘違いなら構わないが、女性の恐怖に引き攣った目は本物だった。助けなければ。大通りに出て人を呼んでくるべきか。それが一番堅実な考えだ。

 けれど、その間に手遅れになってしまったら。最悪の想像をして吐き気がこみ上げてくる。ルミなら今すぐに助けに行ける。ルミだけが、この後の惨劇を予測できている。


 ──どうして、見知らぬ人を助けるのか。


「……っ」


 恐怖と自問がルミを惑わせる。だが、考えている余裕などない。理由なんて知ったものか。この場では無駄でしかない思考を無理やりに振り払って、女性が引きずり込まれた場所を睨みつけた。

 大丈夫だ。見た目がか弱い少女でも、膂力だけなら男性並みにある。悪魔を倒せたし、殺人鬼の拘束だって振りほどけた。土壇場なら魔法だってまた使えるかもしれない。


 自分に言い聞かせて、ルミは目的地を変え駆け出した。

 事件現場はすぐそこだ。小さな身体でもあっという間に辿り着き、女性が引きずり込まれたであろうと角に飛び込んで──


「えっ? いない……?」


 そこには袋路地があるだけだった。乱雑に放棄されたゴミが転がっているだけで、女性はおろか生き物すら見当たらない。

 見間違えたのか。違う。ならば場所が違うのか。それも違う。ルミは女性を目撃してから一度たりとも視線を外していなかった。なら一体、女性はどこに消えたのか。


「ははっ、今日は景気がい──」


「──!?」


 しゃがれた男性の声。背後から響くそれを聞き取ると同時に、ルミは渾身の裏拳を放った。感覚頼りで放った一撃は見事に何者かを捉える。言い切るよりも前に声が途切れ、その勢いのままにルミは振り返った。


「ぐっ、ぅお……! このくそアマが……!?」


「お、落ち着け……っ、相手は一人なんだ! 脇を抜けて逃げれば……」


 顎を押さえ苦悶の声を上げる男性から距離を取る。ボロボロなタンクトップを来た汚らしい男だ。無関係な人間を殴ってしまった可能性も考えたが、その心配はなさそうだ。濁り切った瞳はどう見ても堅気のものではない。

 必要な心配は身の安全のみ。女性の行方は相変わらず不明だが、今は考えてる余裕がなかった。


「くそがッ。ただで済むと思うなよ? 調子に乗った女はたっぷりと犯してから売り払ってやんよ」


「……ぅえ」


 生物として根源的な忌避を抱かされた悪魔。死と言う明確な危険を感じた殺人鬼。彼らとも違う恐怖がチンピラ染みた男性から発せられる。

 それはドロドロとした欲望だ。男性が女性に向ける淀みきった醜い獣の本能。本来は隠すべきそれを一切の遠慮なくぶつけられた。


 恐ろしい。それ以上に、気持ちが悪い。悪い意味で女性の身体なんだと思い知らされる。絶対に捕まってはならない。捕まったら、死ぬよりも最悪な目に合わされる。女性としての常識に乏しいルミでも、それだけは断言出来た。


「今更謝っても遅いからな──ッ!」


 男性が踏み込む。ルミも指先まで緊張を巡らせる。ギリギリまで引き付けてから脇を抜け、この袋路地から全力で逃げ出し──


「──ちょっとちょっとダメでやんすよ」


「……え」


「大切な商品を汚しちゃ」


 すぐ背後から、豚のような醜い声が響く。袋路地になっているはずのルミの背後で。

 肩越しに見る。出っ歯で背の小さな中年と追加で二人のチンピラが、ルミを見据えていた。


 ──一体、どこから?


 疑問の答えは得られず、気づけば正面の男が眼前に迫っていた。驚愕で完全に静止していたルミに回避できるはずもなく、そのまま首を掴まれ壁に押し付けられる。


「う、ぐぅ……! ぁ、あ……っ」


「いいねぇ、最高な光景だよ! たまにいるんだよ。てめえみたいに実際に襲われるまでまさか自分がって、楽観してやがる女が」


「は、な……ぁ、かぁ!?」


「そういう連中に思い知らせるが最高に愉しいんだよな……! 次はお前の番だってよ」


 苦しい。首を絞められて呼吸ができない。女性を助けようとしていた気持ちなどどこかへ消えていき、無様にも救いを求める。けれど、誰も来ない。近くには彼ら以外に誰もいない。

 だから男の暴力を止める方法なんてどこにも──


「すとぉーっぷ!」


「……っ」


「ああ? ニバスの親分、悪いけど止めねえでくれよ。この女はいきなり俺のことを……」


「あっしはストップって言ってるんだよ? 労働力として男の奴隷も価値があるって知らないわけがねえですよな?」


 筋肉質で如何にもチンピラ染みた集団の中で唯一、腕っぷしの高くなさそうな中年の男性。彼が声を低くするとルミの首を絞めていた男性は渋々力を緩めた。

 そのまま地面に尻餅をついたルミは、必死に酸素を求めて喘ぐ。


「へ、あぁっ……! はぁ、ぁあ……!」


「それでいいでやんす。せっかく高品質の商品を傷つけるだなんて勿体ないですからね。さて、お嬢ちゃん。運がなかったって諦めてくださいませ」


 こちらを覗き込んでくる出っ歯で不細工な顔。至近距離で視線が絡みルミは別の理由で過呼吸になりかけた。

 あまりに不気味なのだ。彼──ニバスと呼ばれた男は常に微笑みを絶やさないのに、そこに友好的な気配がまるで感じられない。ルミを、ものとしか見ていない。


 正体不明な“プレイヤー”たちとは別種の気味の悪さがそこにはあった。


「そぉれ、『眠れ』」


「ひっ……」


「……ありゃ? 『眠れ』」


 ニバスの発言と共にルミは魂が揺さぶられる感覚を覚えた。意識そのものを刈り取るような目に見えない力の波動だ。何をされたのかと身を固くするが、身体に異常は発生しない。

 怯えるルミと、困惑するニバス。二人の間に奇妙な沈黙が生まれる。


「どうしたんすか親分」


「うーんそれがね。あっしの魔法が効かねえんですよ。発動していないってわけじゃねえでやんすが……」


「……最近、失敗続きだけど調子崩してます?」


「んなわけねえ! あっしも魔法だけならそりゃ天才よ! 失敗なんてあり得ねえんだ」


 がみがみと言い争うニバスと部下らしき男。それを確認しながらルミは必死に呼吸を整える。数が多すぎる。喧嘩して勝てる相手ではない。逃げるしかない。

 幸いにも相手も何かしらのトラブルが起きているようだった。静かに怯えることしかできない少女を装い、隙を見て一気に大通りまで駆け抜ける。


 悪魔や“プレイヤー”との邂逅で少しずつだが、危機的状況でも冷静な思考が回るようになってきていた。その経験が致命的な現状を打破する足掛かりに──


「んまあ、出来ねえもんは仕方ねえな」


「────っ」


 ニバスが視線を逸らす。今しかない。脚に力を籠める。跳ぶように立ち上がる。どうしても避けられない男だけは目を指で潰して、その隙に逃げる。


「──パッパと締めちゃってくだせえ」


「う、ぁ!?」


 はずだった。小柄な身体を生かして隙間を縫っていくはずだったのに、チンピラたちは即座に反応して見せた。手首を掴まれ、肩を掴まれ、背後から首に腕をかけられて。


「ぁ、ぐ……っ、やだ、た、す……っ」


 再び首を圧迫されて酸素が断たれる。苦しい。死ぬ、死んでしまう。無理だった。少し運動神経が高い程度のルミでは、人々を誘拐するプロの集団から逃げられるわけがなかった。

 どれだけ腕を振り回そうとしても、屈強な男性の身体はビクともしない。意識が暗く暗く沈んでいって。


「あべ……る」


 いつも助けてくれた青年の名前を無意識に呼びながら、ルミの世界は真っ暗に染まった。

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