第7話 人形の侵略者
血の匂い。暴力の気配。アベルはそれが世界で一番、嫌いだった。
痛いのは嫌いだ。怖いのは嫌いだ。だから、苦痛と恐怖に襲われている人々を見ると、彼らの気持ちを想像してしまって──昔から自然と身体が動いてしまう。
アベルとはそんな青年だ。だからこそ、眼前に広がる光景に激しい義憤が湧き上がっていた。
「てめぇ……っ! 何してるんだ!?」
「ん? 変わったモブが湧いてんな」
ぐちゃりと生物の根源的恐怖を煽る音が響く。それは死を確信させる音。
平原を赤く染める血だまりの中心で、ハゲ頭の男が見知らぬ人間の頭を踏みつぶした音だ。一体どれほどの膂力があるのか、被害者の頭蓋骨は粉々に粉砕され、中身をぶちまけている。
一人ではない。アベルが到着する前にハゲ頭の凶刃に倒れたのだろう。物言わぬ死体となった十人ほどの人々と横転した馬車が、この惨状を演出している。
「なんだぁ? この辺りだと低レベルのモブしか湧かないはずなんだろ」
「武器を捨てて投降しろ。従わないなら命の保証はしない」
「ははっ、特殊イベントってやつ? いいねぇ。単純作業のレベリングには飽きてきたところなんだ」
理解できない戯言ばかりが飛び出してくる。会話が通じていない。不快感に眉根を寄せながら、アベルは臨戦態勢を整えた。
ハゲ頭もこちらを薄く笑いながら見据える。彼の装備は安価な皮鎧に幅広の剣。おかしい。犠牲者の集団は恐らく商会の団体だ。小規模とはいえ、財産である商品を運んでいる以上は護衛を雇っている。
──こんな軽装備の男一人に護衛が全滅させられたのか。
一騎当千の英雄や凶悪犯罪者は存在する。だが、常人には決して届かない境地へ辿り着く彼らは、善悪関係なく独特の雰囲気を纏うものだ。ハゲ頭からそういった気配はまるで──
「──おいおい、舐めプか?」
「……っ!?」
眼前に肉薄する刃に、アベルは咄嗟に屈んだ。遅れた数本の黒髪が切り裂かれるのを無視し、すかさずハゲ頭の足を払う。
「おっと、レベルの割によ……」
「ぺらぺらとおしゃべりだなッ!!」
しかし、ハゲ頭は動揺することなく、僅かに地面を跳ねることで回避。その瞬間にアベルは身体をバネのように跳ね上げ、男の顎を下から殴りつけて見せた。
一瞬とはいえ宙に浮き、身動きを取れないタイミングでの必殺だ。相手の実力がわからぬ以上、下手な追撃は打たない。すかさず飛び退いて呼吸を整える。
「いたた……。あー今のはだいぶ効いた。けど悪いな。このアバターには気絶ってバステは実装されてないもんでよ」
「くそっ、どうなってる?」
難なく立ち上がるハゲ頭にアベルは懐疑的な視線を向ける他ない。顎を通じて脳を揺らしたのだ。何かしら防御したのならともかく、確かに直撃させた。
なのにハゲ頭にはふらつく様子さえない。言葉とは裏腹にダメージがあるのかさえ定かではなかった。
よっぽど肉体を鍛え上げているのか。或いはアベルが悟れないような防御手段があるのか。
「それか、魔物が化けてる可能性か」
「こんな低次元世界の低俗な獣扱いはやめてくれや。このアバターの種族は確かに人間だぜ」
「人間にしては妙なことが多くてな」
「まあそりゃそうだ。NPCのあんたらからすれば、俺らは奇妙に見えるだろう、よッ!」
凄まじい踏み込み。ハゲ頭は刹那の間に距離を詰め、気が付いた時には足を振り上げていた。隙も出だしも遅いハイキックの短所を、身体能力で無理やり潰してきている。滅茶苦茶だ。
心の中で悪態を付きながらアベルは右腕で頭を庇う。
「うっ……!」
骨が軋む。完治していない傷が痛む。苦痛に動きが一瞬だけ停止した。
「遅いなぁ」
「くそっ!?」
すぐさま足を掴んでやろうとするが、コンマ数秒の遅れによって逃げられる。そこから続くのは足技の連打だ。器用に軸足を切り替え、踊るように蹴りの嵐を、時折虚を突くように剣を振り下ろしてくる。
早い。回避するので精いっぱいだ。嫌になる。こんな悪党にさえ実力で劣る自分自身が。
半身を取って真正面からの踵落としを回避。隙だと判断してその足へ剣を振り上げるが、即座に判断を変え防御に回す。アベルの顔面を切り裂く寸前で、ハゲ頭の剣とアベルの剣がぶつかり合い不協和音を奏でた。
「本当に遅いぜ。まあ、所詮は王国領だもんな? 頑張れよ、中ボス」
「っ!!」
「おっ?」
剣を剣で滑らせる。鍔迫り合いの力が流れ、強制的にハゲ頭の得物があらぬ方向に弾かれた。得物が腕ごと外側へ流れ、体重をかけた右足は地面に縫い付けられている。
今度こそ間違いない。明白なハゲ頭の隙だ。その好機に──アベルは迷いなく剣を投げ捨てた。
「あぶねっ!?」
「いいや」
顔すれすれを飛んでいく刃物にハゲ頭は小さく悲鳴を上げ、アベルは一歩踏み込む。彼の手首を掴み、捻ると武器を落とさせた。お互いに無手となった状態で、アベルは淀みない動作でハゲ頭の軸足に自らの足をかけて。
「おらぁっ!」
「が、はぁ……っ」
らしくない雄たけび。次の瞬間、アベルは男を投げ飛ばしていた。ハゲ頭が地面に叩きつけられた見届けることもせず、すぐさま馬乗りになって──
「──動くな。動いた瞬間に殺す」
「……へ、へへ。マジかよ」
予備の短剣を首に添えた。指一本でも動けば、喉元を引き裂くことができる。生殺与奪権を完全に掌握したというわけだ。
「せっかく契約したアバターだってのに、ここでゲームオー……いてっ」
「俺の許可なく口を開けるな」
薄皮一枚だけ首を斬る。はっきりと優劣を見せつけなくてはならなかった。
もう一度自由にさせたら、同じように捕らえられるかわからない。何より一見有利に見える状況だが、アベルに打てる手は非常に限られていた。
鞄の中のロープで縛ろうにも、そんな素振りを晒せば即座にハゲ頭は脱出するだろう。押さえつけられてはいるが、それ以上の発展がない。
取れる選択肢は二つ。このまま殺してしまうか、尋問するか。
「何のためにあの商団を襲った?」
「なに? 喋っていい感じ?」
「無駄な発言は控えろ。お前は黙って答えればいい」
僅かに迷った後、アベルは尋問を選んだ。聞き出せるだけ聞き出して、殺してしまおう。できるのならば騎士団に突き出したいが、悪人を野放しにするよりはよっぽどマシだ。
「ただのレベリングだ。経験値が欲しかったんだよ」
「れべ……経験だと? 人殺しの経験でも欲しかったのかっていうのか?」
「説明面倒くせぇ。NPCには理解できねえよ」
相変わらず会話が通じない。同じ言語を使用しているはずなのに、どこか人外染みた気配を覚えずにはいられなかった。
戦った感想だってそうだ。顎を貫いてもまるで効かなかったのはもちろん、彼の戦いには恐怖がない。命の奪い合いだ。どれほどの達人であろうとも、恐怖を完全に排斥することはできないはずなのに。
どこか自分の死を認識していないような。まるで人の形だけを遠隔から操作しているような。
「お前……」
「勝手に口を開くなと言ったはずだ!」
「──少し、勘付いたね?」
背筋が凍った。男の口調が変化する。男の瞳から感情が消え失せる。ただ彼という存在の奥底から、凶悪な何かがアベルを観察している。そんな気味の悪い確信があった。
「なあ、“ボク”。どうすればいいんだ?」
「ちょっと待ってて。すぐに“ボク”が来るから」
「あいよ。苦しいから早めに解放してほしいぜ」
「君の失態だ。我慢してくれよ」
「俺だけじゃなくて“ボク”の失敗でもあるだろ」
「ははっ、違いない」
「──っ!!」
一人の口から、二人の声が聞こえる。一人の中に二人がいる。いや違う。一つの身体の中に──何かが宿っている。
殺さないといけない。危険だ。この化け物は危険だ。今すぐに殺さなくてはならない。使命感に駆られるがままに短剣を振り上げて──
「やめときなぁ! この嬢ちゃんがどうなってもいいのかぁい?」
「……!! しまっ、た」
悪意を排することは、叶わなかった。
「ご、ごめん。足手纏いにはならないって、言ったのに……っ」
振り返った先で見知らぬガリガリで不健康そうな男と、容姿端麗な白髪の少女が立っている。男がルミにナイフを突きつけて、ニヤニヤと笑っている。
商団の護衛を一人で壊滅させられるはずがない。そう、わかっていたはずだった。なのに目の前の戦闘に頭がいっぱいで考慮できなかった。
──ハゲ頭の仲間の存在を。
「ごめんっ、ごめん……っ!」
情けなさに泣きそうな少女の姿を見て、アベルは状況が絶望的なことを自覚した。
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