第5話 慣れない身体

 集落が見えてくる。高度な文明は感じられない、長閑な田舎風景だ。それでもルミは、安堵の感情を抱かずにはいられなかった。

 悪魔は複数いる。野獣や魔物の類だって少ないながらも生息していると聞く。疲労と怪我で消耗した二人にとって、危険との遭遇は致命的であり、緊張が心を焦がしていた。


 それに加えて心労になっていたのは、アベルの態度だ。


「良かった、集落ってあそこだよねっ?」


「……そうだ」


「きっと薬か何かはあるし、早く治療してもらおう!」


「……ああ」


 会話が弾まない。否、会話が成立していない。悪魔との戦いを切り抜けてから、アベルはろくにルミの相手をしてくれはしなかった。怪我が苦しくて余裕がないわけでも、会話が苦手なわけでもない。

 それは明らかに、拒絶の姿勢だった。


 初めから嫌われていたり、害を成してくる存在であったりすれば、ルミだって何も思わなかっただろう。しかし、一日足らずとはいえ友好な関係を築けた相手だ。明確に突き放されれば、心に靄がかかるのは止められない。

 逃げろと言われたにも関わらず、悪魔に立ち向かったことが悪かったか。二人で揃って生存できたのは、結果論でしかない。犬死する確率の方が高かった。それがアベルの逆鱗に触れてしまったのかもしれない。


 だが、謝ろうにも会話の余地がなければ、頭を下げることさえ難しかった。晴れない気分に苛まれながら、集落への残りの道を踏破していく。


「……っ。君たち、どうしたんだ!? おーい! 怪我人だ! みんな来てくれ!!」


 集落は簡易的な木の柵で囲まれた、小さな里だった。やはりこの世界には危険が多いのか、見張りらしき男性が目を光らせている。彼はルミとアベルに気が付くと、大声を上げて住民たちを呼び出した。


「ひ、ひでえ火傷だ……っ! とりあえず水を持ってこい! 出来ればじっちゃんに頼んで氷も出してもらえ! あとは塗り薬だ!」


「何があった!? 魔物に襲われたにしても、火を噴くやつなんかこの辺りにはいないぞ」


「噂の悪魔だ。王都から討伐隊が派遣されるまで外出は控えた方がいい。村中に伝えるんだ」


「わ、わかった。けど、お前さんの手当てが先だ!」


 慌ただしく男性陣がアベルの治療のために走り出す。それを何となく眺めていると、ルミの元にも複数の女性が寄ってきていた。彼女らには妙な迫力があり、思わず一歩下がってしまう。


「まあ……!? 貴女も大丈夫? 怪我は?」


「け、怪我はないです。ただ……身体を洗いたくて……」


「そうよねっ! 水浴び場はこっちよ!」


 どうにも女性が逞しいのはどの世界でも共通らしい。三十後半程度に見える女性は、未知の液体に濡れたルミにもひるまず、手首を掴んで集落の奥へと引っ張っていく。

 あまりの勢いにルミはされるがままに従う他なかった。


「ほら、服とかは持ってきてあげるから、先に身体を流しておきなさい!」


「あの……ただお金とかなくて……」


「いいのよ! そんなこと今は気にしないで! 若い女の子が汚れたままの方が問題だわ!」


 アベルとも離れ離れになり、連れていかれたのは集落を流れる川だ。その一部分が木の板で囲われており、水浴び場として使われているようだった。

 その中にルミの身体は押し込まれて、


「足りないものがあったら言ってね!」


「え……っと」


 何か返事をする間もなく、扉が外側から閉じられた。

 彼女らなりの親切なのは間違いないが、少し強引過ぎないだろうか。何とも言えない気持ちになり、重々しくため息をついた。そうやって大きく呼吸をすると、自らが放つ異臭に鼻が曲がりそうになる。

 集落への道のりがそれなりにあり、徐々に嗅覚が麻痺していたこと。命の危機に晒されていたこと。それらが合わさって意識が逸れていたが、今のルミの格好は大惨事だ。

 真っ当な感性を持っているのならば、すぐさま身を清めなくてはならない。


「すごい綺麗な水だなぁ」


 川で直接水浴びするという、随分と原始的な方法だったが、水は透き通るように綺麗だった。少々冷たいことに目を瞑れば、飛び込むことに抵抗は一切ない。そのためにまず、衣服を脱ぎ去る必要があって──


「……っ」


 必死に忘れようとしていた事実に直面に、ルミは顔がカッと熱くなるのを感じた。生まれた時から十九年間、男子として生きてきたはずなのに、今のルミは間違いなく女の子だ。つまり服を脱げば異性の裸体が露わになるわけで。


「ダメ、じゃない……?」


 現在の身体を自分自身とは未だ受け入れ切れていない。だから、赤の他人の、それも年頃の少女を脱がすような背徳感に襲われる。

 だが同時に。自分の身体なのだから何も問題ないだろうと主張する理性だって存在していた。


 男性としての倫理観。人間として当たり前の常識。その二つの感情は、後者へと傾いた。


「何も、悪いことは、してない……はず」


 腰に巻かれた細いベルトを外し、ワンピースの裾に手をかける。それで今更ながらに自分が女装をしていることに気が付いた。身体は女性なのだから何もおかしくはないはずだが、妙な気恥ずかしさを覚える。

 ダメだ。思考に耽れば耽るほどに、羞恥心で手が動かなくなってくる。ルミは一思いにワンピースを脱ぎ去ると、その勢いのままに男物とは似ても似つかない下着をはぎ取った。

 生まれたままの姿になった自分。一糸まとわぬ少女の裸体。それを意識するよりも早く、ルミは川へと足を踏み入れた。


「つめたっ」


 ひんやりとした大自然の水は、敏感な肌には少々刺激的だった。だが季節の問題か、或いはそういった地域なのか、汗ばむ程度には温かい。冷たい水浴びはすぐに気持ちの良いものに変わっていった。


「ふぅ……」


 汚れが落ちていく。悪魔の返り血が流され、清められていく。

 壁に囲まれた空間に一人。危険に怯える必要もなく、ようやく一息つくことができた。


「これから、どうしよう……?」


 だからこそ、考えずに済んでいたことにも頭が回ってしまう。安全な場所に辿り着き、ひとまず命の危機は去った。

 だが、元の世界に帰るためにはどうすれば良い。元の身体に戻るためにはどうすれば良い。離れ離れになった友人たちは一体どこに。

 それらがすぐに達成できないとして、それまでの衣食住はどう確保するのか。


 問題は山積みだ。しかもその全てが早期に解決しなくてはならないものばかり。


「内定だってどうなるんだぁ……」


 来年就職する予定だった企業を思い浮かべ苦笑する。今後の人生に響く大いなる問題だが、そもそも二度と家に帰れないかもしれないのだ。それですら優先順位の低い悩みだろう。

 最優先されるのは、今後の生活と友人たちの安否。そして──


「……本当に、女になってる」


 自らの身体のことだ。水に沈む小柄な身体は、長年も見慣れたものとは似ても似つかない。男性的な特徴は何もなく、元の姿とは別の形で大人へと成熟しつつある身体は、間違いなく女性のものだ。

 別に全く耐性がないつもりはない。けれど、異性に性転換してしまっている状況には、凄まじい違和感と倒錯的な羞恥心を抱かずにはいられなかった。


 だが一つ、不幸中の幸いはある。


「流石ルミ。凄く可愛い」


 水面に映る少女の顔を見て、現実逃避に呟いた。ぱっちりと開いた緑色の瞳。まつ毛は長く、左右対称に近い小顔は恐ろしいほどに整っている。

 水に濡れて長い白髪が張り付いた肉体も同じだ。手足はすらっと長く伸びていて、腰回りは折れてしまいそうなほどに細い。胸は少々控えめでも確かに女性らしさを演出している。


 元の身体では可もなく不可もなく、努力次第の見た目だと自負していた“真雪”だが。“ルミ”となった今では非の打ち所がない美少女だと胸を張れるだろう。

 ナルシストかもしれないが、たった一日では自分の姿だと認識できないのだ。どこか他人事のように新たな“自分”を見ているルミがいた。


「ネタに走らない限り、自分の持ちキャラを可愛いと思わないゲーマーはいないし」


 この異常事態の原因がわからない以上人間でさえない化け物に変貌していた可能性もある。それを考えれば、容姿端麗な少女への性転換ぐらい、運が良かったと言えるかもしれない。


 とはいえ、だ。やはり真雪は真雪であり、ルミではない。様々な点において、女性として生活できるとは到底思えない。だから、元の身体に戻る方法も必ず見つけ出そう。


「でも、少しは慣れないと……かぁ」


 そう決心しつつも、ルミは赤い顔で自らの身体を洗い始めた。


 ☆ ☆


「……なんか大事な何かをなくした気がする」


「どうした、急に?」


「でも、何着ても似合ってるからセーフ!」


「だからどうした?」


 アベルが寝泊りすることになった、村の小さな宿の一室。鏡の前でワンピースを着こんだ姿を確認して、ルミのテンションは上下に振り回されていた。簡素ながらもリボンまで縫い付けてある。

 自らの意思でこんな女性物の服に袖を通してしまったのだ。服の下ではしっかりと下着まで装備している。だが、着ないわけにはいかなかった。

 せっかく服を用意してくれた村の女性たちの好意を無為にできないし、何よりも揺れて擦れるのだ。何がとは言わない。ただ、女性の気持ちをほんの少しばかり理解してしまった。


 男として完全に終わった諦念。鏡の中の少女を着飾ってやれた満足感。その狭間にルミは囚われている。


「それで、何の用だ?」


「いや、さ……これからどうすればいいのかなって……」


 部屋の主の言葉に本題へと意識が引きずり戻された。身体について悩むのは後回しだ。

 それよりも今後の行動方針を決めなくてはならないが、ルミは自らが置かれた状況を何も理解していない。転移や肉体の変貌はもちろんのこと。

『Drain Universe Online』と似た世界であるとしても、どこまでゲームの知識を信用して良いのかわからず。

 野垂れ死なないためにも、どこかに保護してもらえるのか、或いは仕事をどうやって探せば良いのか、この世界の制度など何も知らず。

 散り散りになってしまった友人たちと再会する方法にも、見当がつかない。


 だから、この世界の住民であるアベルに相談するため、部屋を訪れたのだ。

 

「何から何まで頼り切りで申し訳ない、けどさ……」


 悪魔との接敵後から急変したアベルの態度。それを省みれば、適当にあしらわれる可能性も考えられた。だが、今のルミが助力を期待できる相手は彼ぐらいなのだ。

 不安に胸が締め付けられながら、アベルを見つめる。


「……はぁ。そんな目をするな。別に放置したりはしない」


「ほ、本当?」


「ああ、誓ってやる。……それと、悪かったな。冷たい態度を取ったのは俺の個人的な問題だ。素人が悪魔に向かっていったのは褒められないが、結果的に俺は助かった。礼を言う」


「そうならいいんだけど……」


 嘘は感じられない。村に到着するまでにあった、明白な拒絶の雰囲気も消え去っている。

 アベルも一息ついて心の整理がついたのか。それほどまでに彼を不快にさせた理由は気になるが、藪蛇だろう。下手に触れてしまえば、今度こそ関係が悪化してしまうとは容易に察せられる。


「それで、今後のことか」


「うん。僕はどうしたらいいか、正直さっぱりで」


「あんたの出身による。王国なら騎士団にでも駆け込めば保護してもらえるだろう。共和国……シャルリダ共和国でも面倒だが、同じく国経由で家には帰れる。だけど、グリデント帝国なら問題だ。何せ国交断絶中だからな」


 その辺りの情勢はルミも知っている。この世界とゲームの大まかな情勢は同期しているからだ。

 最も治安が安定しているザリアモール王国。ルミの現在地だ。

 続いて人の出入りが多く、王国ほどではないが安定しているシャルリダ共和国。

 強さこそが正義の国風を掲げ、システムとしてもストーリーとしても治安が最悪なグリデント帝国。

 そして、廃人プレイヤーたちが血で血を洗い、絶え間ない領土争いを行っている大陸北部の無開拓地域。


 この大陸は以上の四つの地域に別れている。最後の無開拓地域に関しては、『危険な生物が多くどの国も管理したがらない魔境』という設定だった。つまり三国家いずれかの出身であるとアベルが想定するのは常識的な考えである。


「あの、ごめん。僕はこの大陸の出身じゃないというか……」


「……は?」


「別の世界から来たって言って、信じてもらえる?」


 だが生憎、常識では測れない状況に巻き込まれているのがルミである。盛大に顔を顰めるアベルに、ゆっくりと説明しなくてはならない。


「なんだそれは。別の世界……?」


「うん。気が付いたらこの世界の小宇宙に移動させられてて、直後の悪魔に襲われてもう一回転移させられるわ、もう滅茶苦茶でさ」


「待て待て。理解が追い付かない。……ルミは王国の名前とかは知っていたよな? なのに別の世界から来たって?」


「ややこしいんだけど……えっと、なんて言うのかな。僕たちの世界からこの世界のことは観測できてたんだよ。お互いに干渉はできなかっただけで」


 頭痛に耐えるようにアベルが無事な左手で額を抑えた。


「……よくわからないけど、そういうこともあるのか」


「納得してもらえた?」


「全く出来てない。けど、あんたが寄る辺もない遭難者だってことは理解した。ああ、くそっ……想像以上に面倒なことになってるな」


「ごめん……」


「謝るな。あんただって被害者だろう。しかし、どうするかだな……」


 その場で唸りだすアベルをただ眺めることしかできない。現実となった王国の情勢や法律、制度などルミが知っているはずもないのだから、アベルに任せるしかなかった。

 しばらく悩んでいる姿を静かに待っていると、彼はちらりとルミを一瞥した。


「……死にたくないだけなら、奴隷になるのが手っ取り早い」


「ど、奴隷!? それはできる限り避けたいというか……」


「奴隷と言っても、昔の名残でそう呼んでいるだけでさほど酷い待遇じゃない。働き先のない人間のための、職業安定所としての側面が大きいんだ。人権だって保障されているし、自主的に退職も許されている」


「そ、そうなの? なら最低限そこで路銀を稼ぐのも……」


「とはいえ、ルミなら間違いなく娼館送りだ。仕事までは選べない。……身体を売るのは嫌だろ?」


「嫌だっ!」


 ゾッとする。ルミの見てくれが良いのは自覚したばかりだし、男なら放っておかないと確信できる。きっとそれなりの稼ぎを得られるだろう。だが、例え生きるためだとしても、男の相手をするなど死んでも御免だった。

 見た目はともかく、ルミの中身はれっきとした男性だ。受け入れられるわけがない。


「ど、どうすればいい……!? 嫌だよ、男にあんなことそんなことされるのはっ!」


「わかってるわかってる。何かできることはないのか?」


「え、えっと……プログラミングが少々……」


「ぷろ……なんだって?」


「たぶんこの世界には存在しない道具を使った仕事」


「じゃあダメだろ」


 日本人の大学生にできることなどそれぐらいだ。具体的にこのような技能がありますと、胸を張って答えられる人間の方が少ない。


「お、お願い! 何でもするから、だから奴隷だけはぁ!!」


「わかったって言ってるだろ!? おい、離れろ!」


 奴隷堕ちを避けるためなら恥も外聞もなんだって捨てて見せよう。何時でも土下座をできるように、アベルの足元に這いつくばる。

 しかし、必死の願いはアベルによって一刀両断にされてしまった。逆効果だったと判断してゆっくり立ち上がる。


「はぁ……なら、そうだな。俺の仕事でも手伝うか?」


「えっと、開拓者ってやつ?」


 初対面の時にアベルが名乗った身分。それは開拓者と呼ばれる職業だった。しっかりと記憶していたルミが尋ねれば、アベルも肯定を返す。


「そうだ。世界に無秩序に湧き出し、消えていく小宇宙。その中を調査して、資源が多い世界や、貴族が別荘に使えそうな安全な世界の情報を売る仕事だ。当たればかなりの大金が、そうでなくとも魔物の素材なんかを持ち帰れば、生活に困らない収入はある」


「……雑用ぐらいしかできることないけど」


「それでいい。肉体労働だからな。疲労困憊で帰ってから、戦利品をギルドに卸したりするのは面倒なんだ。その辺りを代行してくれるだけでも十分助かる。元々、誰かを雇うか悩んでいたしな」


 その程度の労働で食べていけるとは到底思えない。ルミが思い悩まないように、アベルが大袈裟に話しているのは明白だった。

 しかし、その厚意を受けなければルミに残されたのは奴隷送りだけ。選択の余地はない。


「僕にできることなら、何だってするから! なので、お願いします」


 勢い良く頭を下げる。迷惑になる以外の選択肢がないのならば、せめて誠意をもって頼むぐらいはしなくてはならない。今のルミにあるのは、この身体一つだけなのだから。

 ただアベルにしてみれば、気に食わない対応だったようだ。顔を上げたルミにしかめっ面を向けている。


「……あんたが真面目なのは良くわかった。ただ、な」


「はい?」


「そもそも一人で男の部屋に来るのもそうだ。若い女性が何でもするとか滅多なことを言うな」


「あっ……そっか。確かに、そうかも……」


 言われてもみて、ようやく気が付いた。確かめるように視線を移したルミの手は、白くて繊細な少女のもの。そうだ、今のルミは女性なのだ。

 確かに軽い気持ちでして良い発言ではなかった。変な誤解を生みかねない。


 しかし、だ。やはりどうしても真雪は“ルミ”に、女性になってしまったと自覚ができなかった。頭ではわかっているつもりなのだが、鏡に映る自分を目にしても、華奢な身体を見下ろしても、どこか現実感が伴わない。

 ゲームのアバターが元になっていることもあり、赤の他人を見ているような気分になるのだ。


 先ほどの水浴びのように身体を触りでもすれば流石に思い知らされるが、少し時間が経過するだけで頭からすっぽ抜けてしまう。このままでは他者とのやり取りに悪影響を及ぼしかねない。

 性転換を受け入れるつもりがない以上、慣れてしまうのもそれはそれで問題だが。


「全く、あんたの世界じゃそれが普通だったりするのか?」


「いや人間なんてどこでもほとんど同じだよー。文化とか細かいところはだいぶ違いそうだけど」


「なら、あんたが変わり者なだけか」


「へ、変人扱いは酷いって! 昨日まで男だったんだから仕方ないじゃん」


「……は?」


 もう何度目かわからない、呆けた様子のアベルに思わず頬を緩める。


「昨日まで男……は? どういうことだ?」


「そのまんま。気が付いたら小宇宙の中にいて、身体が女の子になってた」


 冷静沈着で無口な男性。それがアベルの第一印象だった。しかし僅かな時間接しただけでも、彼は人一倍に優しく、そして想像以上に感情豊かなことが窺える。ただそれを表に出すことが苦手なだけなのだ。

 だから、ちょっとしたものでも良い。感情を目に見える場所に引きずり出すだけでも、何だか嬉しくなる。


「冗談じゃないんだな?」


「冗談でもなんでもなく、本当につい先日まで男だったよ。面影すらない」


 いくら魔法の存在するファンタジー世界とは言え、別世界からの来訪者も、完全な性転換も、驚愕に値する事柄らしい。必死に提示された事実を噛み砕こうと、アベルはルミの姿を爪先から頭のてっぺんまでしっかりと観察する。

 それを受けて、ルミはちらりと鏡を一瞥した。白髪少女の美貌には一点の曇りもない。いくら見られても恥ずかしくないことを確認して、甘んじて視線を受け入れる。


「…………けど、今は確かに女性なんだろ」


「え、ああうん。残念ながら」


「いや性別なんて些細な事か。誰かが困ってる。大事なのはそこだ」


 己の手を見つめて、何やら呟く青年。しかし、すぐさま言葉を続ける彼に、ルミは困惑する暇さえ与えれなかった。


「あんたの事情はそのぐらいか?」


「たぶん、大体話したかな」


「わかった。散り散りになった友人ってのも、同じ異世界の人間なんだろ。そいつらを探す方法も考えておく」


「ほ、本当!? 何から何までありがとうっ!」


 至れり尽くせりな言葉に笑みが零れる。そんなルミの姿に反して、アベルは視線を逸らしながら頭をかく。


「ただ、自分が女性なんだって自覚はなるべく持ってくれ。本当は男ならわかるだろ? ルミのその態度は、色々と誤解を招く」


「それは本当に……申し訳ございません……」


「わかったならいい。俺の怪我が治ったら王都に向かおう。それまでは村の外に出なければ自由に構わない」


「りょーかい。……って、ずっと僕の話ばっかりでごめん。怪我は大丈夫なの?」


 今後の展望に不安になるばかり、アベルの容態を気にする余裕がなかった。彼が想像以上に元気そうだったから、と言い訳もできない。

 そんなルミの前で、アベルは包帯でぐるぐる巻きになった右腕を軽く動かして見せる。


「問題ない。表面を焼かれただけだからな。三日もすれば使えるようになる」


「でもろくに動かなそうに……」


「痛みの問題の方が大きかった。本当にすぐ治る範疇だから気にするな。……そんなに心配するならあの時みたいな無茶は二度とするなよ」


「わ、わかった」


 尤もな言葉にルミは縮こまる。一歩間違えれば二人揃って粉々になっていただろう。


「そもそもルミが先に逃げてくれれば、俺だって全力で離脱するって選択肢も取れたんだ」


「えっ……そうなの? じゃあ僕は本当にお邪魔だった……!?」


「……とは言っても、それで助かったかどうかもわからない。助けられたことには礼を言っておく。けど、いくら才能があろうとも戦場は素人が飛び込んでいい場所じゃない。次も上手くいくとは思わないでくれ」


 そうだ。次はない。今回は運が良かっただけ。もう一度同じ場面に出くわした時、二人揃って助かるとは限らない。

 だから、次同じ場面に出くわしたのならば。犠牲を許容した選択をしなければならないのだろう。吐き気がする。誰かが死ぬという現実が、あまりに身近にありすぎる。現代日本ではあり得なかった世界だ。

 しかし何もかもが理想通りになるなど、それこそ理想でしかない。


「そう、ならなければいいな」


 だから心から願う。命の危機など、訪れなければ良いのにと。

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