参 祟りと悪夢

 ぬかるんだ暗い道を歩いていた。


 ぎゃあぎゃあ。ざわざわ。

 山の生き物たちの不協和音。真っ黒に染まった山々の植物が風邪に吹かれて漆黒の影をたえず揺らしている。

 雲間の月明かりはもう差し込まず、頼れるものは手にした懐中時計の灯のみ。


 数歩先を歩く仲間たちの声を追いかけるように暗闇の中をひたすら登って、登り切って。


――水辺には、近づかないようにね?


 誰かからのそんな忠告を思い出す。


 ぽしゃんと、水の音がした。体が水に包まれた。

 悲鳴が聞こえて、足を強く引かれる。意地でも引き込まれないよう踏ん張り続けて、それで――。


 目が覚めた。


「――っ!?」


 バチンと、シャボン玉がはじけたかのように目が覚めた。

 ひゅうひゅうと息が荒く、心臓も早鐘を打っている。喉はカラカラで、寝間着は汗で湿っていた。ベッドに預けている背中は熱いくらいで、俺は呆然と自室の天井を見上げることしかできない。


 上体を起こせば、眩暈を感じてそのままベッドに倒れこんでしまう。

 その時に、左腕からぺちゃりと音がする。見ると、左腕の下は水が零れたように湿っていた。


「なんなんだよ――」


 体全体ではなく、左腕だけ。先日の黒い女の影を思い出して、体が震えた。

 いや、あれは質の悪い幻覚だ。間宮が悪戯かなんかでとりまきを使ったんだろう。そう思わないとやってらんない。


「顔、洗いにいくか……」


 頭がすっきりすれば、きっと気分も晴れる。

 一階のリビングに降りると、母さんと日奈子がいた。キッチンに立つ母さんと、飯食ってる小学生の妹。いつもの朝の光景だ。


「はよ……」

「あぁ、希。おはよう……」

「……母さん、行ってきます」

「あ、いってらっしゃい」


 俺が挨拶すれば、母さんは戸惑ったように視線をそらする。日奈子はトーストを持ったまま荷物を持ってリビングから出ていった。挨拶どころか目を合わせることもしない。いつものことだが、気分がわるいこともあっていやに気に障る。

 昔はこんなんじゃなかったのにと思ったところで、結局原因は俺なんだし、文句言える立場じゃないが……。


 ひとまず洗面所で顔を洗えば、気持ち悪さは幾分かおちついた。

 そのまま台所で冷蔵庫の麦茶を取ろうとして、ついでに母さんに声をかけてみる。


「なぁ」

「な、何かしら?」

「……三年前、なにがあったか詳しく知ってる? 新聞とか噂とかじゃなくてさ。俺が発見された時のこととか」


 声をかけると、肩がびくりと跳ねる。そして質問をしたら、今度は可哀想なほどに顔を真っ青にした。

 そら、腕が動かなくなって野球ができなくなった直後に荒れはしたけど、落ち着いた今も怯えられるのは正直気まずい。


「どうしてそれを聞くの?」

「いや、知りたいからだけど」

「……安賢寺の方たちに寺で保護されてから、そのまま病院へ連れていかれたから、私にはわからないわ」

「そう。ありがとう」


 俺はあの夜のことをほとんど覚えていない。

 もうあの場所に近付くこともないし、触れたくないから思い出そうとも、ましてや調べようなどとも思わなかった。だから意外だったんだろう。

 母さんは渋い顔をしつつも答えてくれたけど、わからないというのはどうなのか。


(ということは、間宮のほうが色々知ってるのか)


 いや、そもそもなんで俺が気にしなくちゃならない。もう終わったことだ。あれは幻覚。受験で忙しい時にオカルトな話に付き合っている暇はないんだ。


「あの、母さんパートに行ってくるわね。あと、郵便物はテーブルに置いておいたから」

「わかった。いってらっしゃい」


 考えていると、おずおずと声をかけられた。

 郵便物は大学の資料か何かだろうと思って、適当に返事をする。そのまま母はリビングを出ていってしまった。

 しんと静まり返ってしまったリビングの空気は、少し重たい。


(ろくに会話してないしな……)


 父親も、滅多に家に帰ってこなくなった。

 近所の人間もあの夜からあまり声をかけてこなくなった。

 たぶん、入ってはいけない山に入ったから、色々と言われたんだろう。死んだ連中の家族も、一ヵ月もしたらどこかに引っ越していた。それについては心底申し訳ないとは思う。が、俺だって被害者のようなものなんだけど……。


 麦茶をとって、テーブルに座る。

 母さんが言っていた封筒は、細長い茶封筒だ。明らかにパンフレットではない。

 ひっくり返して送り主を見て見ると「うげ」っと思わず声が出た。


「間宮からかよ……」


 消印や切手もなく、たぶん直接ポストに淹れられたとわかって、血の気が引く。いや、この狭い街なら知っててもおかしくはない。このまま捨ててしまおうと思ったが、なんとなく見なければ不味いような気がした。

 右手だけで上部を破いて中を確認する。中には綺麗に折りたたまれた便箋と、プリントアウトされた紙が数枚入っていた。


「手紙と、資料か?」


 手紙には今時珍しい筆文字で、昨日の謝罪と資料について記されていた。

 資料は、不羽ダム建設跡地についてのもので、民俗学という聞きなれない大学学部の研究資料のまとめだそうだ。


「これを見て思うところがあるなら、力を貸すよ……って、ふざけてんのか、アイツ」


 便箋の最後には、電話番号が記載されていた。誰がかけるか馬鹿野郎。

 怒りがこみ上げるが、破り捨てようとするのも憚られた。それは先日の光景が尾を引いていたからだ。

 ひとまず確認するだけしよう。どうせ勉強と、大学を調べるしかできることがないんだ。


 そうして俺は資料に目を通す。


「沈んだ村、か」


 不羽はもともと、ふたつの市が合併してできた地名だ。

 だいぶ昔の話で、合併した後に持ち上がったのが、新しいダムの開発だ。


 とある山の中にあった泉をため池にしてダムを造る計画だったために、そのふもとにあった村が沈められることになった。けど、村人たちを苦労して立ち退かせた後、建設業者たちの不審死が多発して、結局計画は頓挫した。残されたのは廃村と廃棄物で濁った泉と、建設途中のダムの残骸。

 業者が撤退した後も付近で行方不明事件が続いていた。そのため街全体で山への立ち入りが禁止されたのだ。

 そこは俺も小学生の時にさんざん聞かされたから知っている。


 資料を読んでいくと、俺でも知っている前置きの後にようやく本題に入る。

 あの泉と、廃村についてだ。


 その村の成り立ちは、とある罪人の女が放り込まれたことから始まる。

 女を放り込んだのち、村はさまざまな厄災に見舞われたのだという。

 そこから村人は、泉に住んでいた神を怒らせたのではないかという考えに至る。神の怒りを鎮めるために数多の贈り物をしたという。神の怒りはそうして収まった。

 村人たちは、泉に水神がおり、すべては水神の加護で成り立っていると村人たちは信じるようになった。命もまた水神からの賜り物だとされている。


 そんな村には、奇形児、罪人、気が触れた人間を泉に沈めるという風習が出来上がった。

 不完全な命だからこそ、水神に捧げて完全なる命にしてもらうための儀式なのだと。なんだよ。言葉を飾っているだけでやっていることは死刑制度じゃないか。

 というより、あの村そんなことやってたのかよ。そらホラースポットにもなるわ。


「ん? 泉に沈める……?」


 人間が、沈められている泉。

 濡れた女の影。再び悪寒が体を這いまわった。


「水辺……か」


 水難事故。

 落ちたのはその泉のはずだ。あの近辺に他に泉なんてない。

 そして自分もずぶぬれで発見された。その死体ばかりが沈んでいる池で……。


「いや、そんなまさかな……」


 まさか祟られた。などと一瞬考えてしまった。

 あの女は幽霊かなにかで、肝試しに来ていた俺を取り殺そうとして失敗した……なんて。


 おそるおそる、左腕を見た。

 クーラーが聞いているはずの部屋で、左腕だけが汗で湿っている。


「――っ」


 指先から汗が一滴、床に落ちる。

 ぼわっと浮かび上がるのは、左手にまとわりつく黒い靄のようなものだった。

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