弐 空っぽな時間

 夏は年々暑くなっているような気がしている。

 教室はいつも温風しか運ばれない扇風機が一台という地獄だ。しかし職員室だけ、いつ来ても涼しいのは本当に不公平だと思う。


「進路が決まらない、か……」


 冷えて行く身体に心地よさを感じながら、八神先生の言葉に意識を向ける。

 進学は希望するが、行きたい学校が皆目イメージできない。と伝えたところ、八神先生は少し考えるように首を傾けていた。


「……何か興味があることは――いや、この質問は無神経だった。すまない」

「別に、慣れてますんで大丈夫です」


 去年までは次の甲子園では結果を出して、プロ野球入りを考えていた。それができずとも、大学の推薦は確実だろう。そう考えていたことを八神先生は知っている。

 だからこうして気を使われるのはありがたい。無用な説明をしなくて済むんだ。そして当然のように下がったままの左腕に視線が動いた。


「どちらにしても進学は希望するんだな」

「こんな腕で雇ってくれる場所、大卒じゃないとないですから」

「それについてはどうとも言えないな。では進学として、里中の元々得意としていた分野の派生を進路として取るか、全く関係のない進路を選ぶか……どちらを考えている?」


 前者であればスポーツ産業に関わりそうな学問がある大学。後者であればまったく関係のない学部がある大学を。そう付け加えて、先生は俺の回答を待ってくれた。

 少し考える。この先野球に関わりたいかどうかを。

 正直、関わりたい。が、たぶんみじめな想いをして嫌になりそうだ。これ以上野球を嫌いになりたいわけでもないため、無難なのは後者か。


「……そうっすね。派生はどうせ惨めになるだけですし、全く関係のない所とか」

「ならばオープンキャンパスへ行くといい。様々な学部のある大きな大学であれば、興味が惹かれるものもみつかるやもしれない」

「そういうものですか」


 オープンキャンパスといえば、最近になって難関校でも開かれるようになったんだったか……。


「一概には言えんが、どちらにせよ、別の世界のものに触れて得られる刺激というものは大きい。高校という狭い箱の中では、視野も狭まるだろうからな。オープンキャンパスに行った大学から志望校を絞ればいい。学部だけでなく、行きやすさ、雰囲気、キャンパスの設備など、いろいろな観点から選ぶとよいだろう。なぁなぁにしても金銭が無駄になるだけだ」

「たしかに……ちなみに先生のオススメありますか?」

「そうだな。里中は指定校推薦も十分狙える成績ではあるからな。この学校から指定校推薦を出せる大学のリストを渡そう。その中から見学できる場所に行ってみるといい」

「うっす」


 この先生のアドバイスはわかりやすく、かつ考えを押しつけるようなことはしない。他の教師だったら、腕が遣えない生徒を推薦できるか、などと言いだすやつもいるのは経験済みだ。だからこそ、八神先生から出てくる言葉はすんなりと受け止められた。


 先生はリストを印刷して手渡してくれる。学部が多い大学には、赤く丸を付けてくれた。

 その中から適当に大学を三つほど希望表に入れて、進路希望を出せば今日やるべきことは終わる。すぐ済むのであればもっと早めに相談しておけばよかった。


「あと、これは忠告だが……」


 帰ろうとプリントを片手でカバンに入れていると、ふと先生が口を開く。

 なんだと視線を向ければ、驚くほど真剣な顔をしているものだから返事が言葉に出来なかった。


「夏休みの間、大きな水辺には寄るな。田んぼの道は立ち止まらずにすぐに通り抜けろ。風呂もシャワーで済ませておけ。念のため」

「っ、不気味なことを言いますね」

「気分を害したならすまない。だが、きっとそのほうがいいだろう」


 ぞわりと、背筋が凍った。同時に、左肩が重くなったような気がして、体が傾く。抗議すると、先生は首をふって仕事に戻っていく。

 真意に触れないほうがいいのかもしれないし、触れたくもない。それ以上何かを聞くこともなく、右腕でカバンを抱えて職員室を去った。


 扉から出ると、湿度の高い熱気が体をおおっていく。

 冷えていた体がすぐにじんわりと熱を持っていくようで、余計に気分が落ち込んだ。


 早く帰るために廊下を進んでいくと、開いた窓から声が聞こえる。そして、校庭が見えた。

 野球部が大半を占領しているグラウンドは、野球部が練習しているようだ。掛け声とバッドにボールが当たる音が耳に届く。

 あの場所が、夏の日差しのせいか妙に眩しく感じた。


(本当ならさ……)


 俺がいたはずの場所だったのに。

 目を細めて、視線を窓から外した。ただの重石になった左腕をそのままに、昇降口へと向かう。

 早く帰って、やるべきことをしなければならない。大学に行けなかったなどという醜聞はごめんだ。


 下駄箱まで降りると、女子の甲高い声が耳に障った。

 見ると、間宮を何人かで取り囲んでいて、誰と帰るかともめているようだ。


 そんなあいつを尻目に、俺は昇降口を出ようとする。

 いつもならそれで終わるはずだったが――。


「里中くん」

「……なんだよ」


 今は関わりたくない……いや常日頃こいつとは関りあいになりたくはない。なのになぜ気が立っている時に限って話しかけてくるのか。

 苛立ちを隠さずに対応しても、コイツは微笑みを消すことなく歩み寄ってくる。


「今から帰り?」

「そうだけど」

「途中までご一緒していいかい?」

「え゛」


 何を言っているんだこの男は。

 わざわざ俺を誘わなくとも、喜んで一緒に帰ってくれる取り巻きなんて大勢いるだろ。


「やだ」

「そう言うと思ったから勝手について行くね。嫌な予感がするし」

「はぁ!? なんだよ突然気持ちわりぃ!」


 ぞわぞわっと背筋を悪寒が這い上がる。俺にとっての嫌な予感はこいつそのものだっての。

 拒絶しても表情を崩さない間宮から後ずさる。距離を取って、すぐ踵を返して走り出した。


***


 夏の空気を掻き分けて走った。

 放課後からしばらく時間がたった後。かつ、まだ残っている生徒の大半は部活の最中で、ほとんど人はいなかった。居なくてよかったと思った。

 誰かがいたのなら、きっと左腕をまったく動かさないままバランスがとりにくそうに走っている俺を、奇妙な目で見ていたに違いないのだから。


 山の上にある学校は、山道を下れば住宅街まで続く田んぼの道が広がっている。

 何も日差しを遮るものがないコンクリートのあぜ道は熱く、田んぼの水が湿気を伴って青臭さを孕んで充満していた。蝉の声はジワジワと不協和音のごとく響いている。


「こ、ここまで走ればいいだろ……」


 住宅街まで続く小規模な田んぼの道を半ばまで駆け抜けてから、俺はようやく足を止めた。

 さすがに間宮も追ってはこないだろ。元野球部を舐めんな。


 滴る汗を乱暴に拭って、呼吸を整える。服は湿っていて肌に張り付いていた。

 部に居た頃は、この道を駆け抜けるぐらいのことはできた。今ではそれもできないほどに体も弱ったのかと、不快な気分になる。


 ふと、空が陰った。

 見上げると、入道雲が太陽をおおっているのが目につく。通り雨の予感がした。

 早く帰るかと足を踏み出そうとした時。


 ちりん……と鈴の音が聞こえて、足が止まった。

 まさかと思い振り返ると、番傘をさした間宮が涼し気な顔で立っているではないか。

 言いようのない不気味さを感じて呼吸も一度止まった。何故、どうして追いついたんだ。

 呼吸の乱れもなく、汗ひとつかいていない。あきらかに走ったような様子がない。まるで最初からそこに立っていたかのような、乱れのない静かさだ。


「さすが元野球部。足が速いんだね。出遅れてしまったよ」


 間宮はにこりと笑みを浮かべる。なまじ整った顔だからこそ、人形じみていて余計に現実感がない。

 ふと、いつぞやニュースで見た、ストーカーに悩んでいた女性の話を思い出してしまった。たぶん、今感じているのはそれに近い恐怖感だ。


「なんなんだよ、お前……今までそんな絡んでこなかっただろ」

「そうだね。君は僕のことをあまり快く思ってないみたいだし、最低限確認するだけだったから」


 風が吹く。また鈴が鳴る。

 蝉の音が遠く聞こえて、番傘の陰に隠れる顔が、さらに暗くなった。きっと、雲がかかっているんだろう。


「じゃあ、なんで今絡んでくるんだよ」

「時間がないから」

「は? なんの時間だよ」


 はたりと、頬に雨粒が当たった。

 腹の底が冷えるような怖気と、頭が沸騰しそうな怒りが同時におそってきた。


「おい。あまりふざけた事言ってんじゃねぇよ……! あの事件知っててコレなら、お前相当性格悪いぞ?」

「ふざけてなんかいないよ。流石にまた死ぬと分かっている子を放置するのは、人として正しい行為ではないからね」


 衝動のままに胸倉をつかんで凄んでみても、コイツは眉一つ動かさない。


「まぁ、君は覚えていないからね。あの場所で何があったか。あの場所にどういう幻想があったのか」

「だから、何の話だよ!」

「君の身に起こっていることの話。このままだと、本当に取り返しがつかないよ?」


 バタバタと、番傘の下で雨粒が反響する。

 ちらりと、間宮の視線がまた左腕に向いた。


「お前さ、寺の息子だかなんだかしらねぇけど、気持ち悪いんだよ! 変なことばっか言ってビビらせやがっ――」


 衝動のままに突き飛ばしても、ヤツは一歩下がっただけで体勢を崩すことはない。

 傘が離れて、雨が降り注ぐ。左腕に何かが絡まったような感覚とがあって、叫んでいる言葉が途切れて体の動きが止まった。


 息が細くなって、動機が早くなって、眼が閉じられない。

 濡れる。左肩が、とても重い。いや、左腕全体が、重りのように。何かがぶら下がっているのではないかと思うほどの、質量。


「駄目だよ」


 間宮がそう言って、俺の上に傘をさした。

 幾何か、腕が軽くなったような心地さえする。だが、体が感じている恐怖は消えず、夏とは思えないほど寒い。

 だが、それ以上に、間宮の眼が怖かった。


「誰が野郎と相合傘するかっての……!」


 吐き出した言葉は強がりだ。

 こんな奴に憐れまれたくないと思ったのは、一年前にこいつの忠告を聞かなかったからという事実を直視したくなかった。忌み嫌っていた迷信を信じたくないからだ。

 それでも間宮は嫌な顔一つせず言葉を続けた。


「そう。なら早く田畑から離れたほうがいいよ。でないと――」


 間宮は人差し指を立てた。

 そしてそれを動かす。俺の視線は自然と指を追っていて、間宮の顔の横へ。

 視線がついてきているのを確認したのか、奴はそのまま指先で俺の左腕を示した。


「その子に、水の中に引き込まれてしまうから」


 ドッ。と、心臓が大きく脈動した。

 感じていた質量がより確かなものになる。体が左に傾いて、上げられない。


 おそるおそる、左腕の方へと目線が落ちていく。

 見るな、視るな、みるな!

 そう心が訴えていても、体の動きは止められなかった。


 指の先にあるものを目にした時、聴力を失ったと誤認するほど、五感のすべてがそれに意識を向けた。向けてしまったのだ。


 それは、人間の女だった。

 俺の肩程度の身長。濡れぼそった髪は風呂上がりのように水をぼたぼたと滴らせている

 藻が張り付いた青白い右腕が、俺の左腕に絡みつき指先を絡めていた。まるで、恋人に寄り添うように。


 それが顔を上げて、俺と目が合った。

 ぷつんと、俺の理性が限界を迎える。


 叫んだ。走り出した。

 雷鳴轟く雨の中を、泥と水を跳ね飛ばしながら。


 そこから先は、どう走って帰ったのかよく覚えていない。

 気が付いたら雨は止んでいて、俺は家に居て、走り過ぎたせいか玄関先で嘔吐する。

 腕にいたアレはいつの間にか消えていた。


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