9「夜の出会い」(1)


 悪意の渦巻く晩餐を終え、エイトは一旦部屋に戻ってから一人、シャワールームに向かっていた。

 共に部屋に戻ったエドワードは、『新参者が探索している』と言い訳出来るこのタイミングで、邸宅内の探索に出てしまった。一緒に行くと申し出たのだが、さすがに二人でウロウロするよりは、老人が一人の方が警備の人間も警戒しないだろうと言われてしまい、それもそうだとエイトも納得したのだった。

「えーと、この扉……か」

 エイトの目の前には、『シャワールーム』とだけ書かれた札の掛かった扉がある。豪奢な廊下に釣り合いのとれたその扉は、他の部屋へ繋がる扉と同じく、美しい装飾の刻まれた木製の扉だ。とても使用人のためにある扉には見えない。

 意を決して扉を開けると、そこには水捌けのよさそうな大理石のスペースが広がっていた。どうやらここが脱衣所らしい。スペースの奥には曇りガラスの扉があり、その向こうがシャワールームになっているのだろう。ガラスに妨げられた視界の向こうで、暖かな湯気が立っているのが伝わる。

「君、新人さん?」

 エドワードに教えられた通りに大理石に囲まれた共用の脱衣スペースで服を脱ごうとしたところ、いきなり知らない男から声を掛けられた。

 声の方向に振り向くとそこには、まだ若そうな青年が立っている。服を中途半端に脱いでいたので、どうやらこれからシャワーを浴びようとしていたようだ。

 砂漠の民には珍しい白い肌に、短い金髪のその青年は、いやにエイトの目を引いた。この場所にいるのが彼だけだから、という訳ではない。

 青年からはひやりとした“何か”が伝わってくる。それが殺気なのかはエイトには嗅ぎ分けられなかった。この青年からは、流れ出る気配が多すぎる。汚らわしい血の匂いのようでいて、酷く甘い臓腑の匂いのようでもある。負なる匂いであるのは間違いないのに、それが彼から滲み出る“感情”には結びつかなかったのだ。

「は、はい……」

 とにかく目立たないように。そうエドワードには言い聞かされていた。自分はこの邸宅の使用人で、位は一番下。そう意識して対応する。慣れない言葉遣いなので硬い雰囲気になってしまった。それを緊張と悟ったのか、青年は優しい笑顔を浮かべてくれた。まるで『緊張しなくて良いよ』と言ってくれているようなその瞳は、闇を溶かし込んだような青色で。

「僕はイースって名前やねん。ここで働いてまだ二ヵ月のぺーぺーやけど、仲良ぉしてな」

 イースと名乗った青年は、砂漠の国にて古くから伝わるイントネーションでそう言った。南部では広く使われる方言で、エイトが通っていた学校でも使用している者は多数いた。しかし上流階級や軍部では使用している者が少ないことから、幼い頃からそういった階級を目指す者として、この大陸での標準語を教え込む家庭も多い。

 エイトの親はもちろん後者だったため、エイトは知識としてその方言を知っているだけで、自身は使用することはなかった。たまに聞き慣れない言葉に聞き返すことはこれまでもあったが、やり取りに不自由することはないだろう。

「オレは、エイトです」

 名乗られたので条件反射で名乗りながら、青年の顔を見上げる。

 青年はすらりと高い長身で、おまけにスタイルも抜群に良かった。鍛えてはいるが無駄な筋肉はどこにもついていない。白い腕で短い金髪をかき上げる姿が絵になる男前だ。中途半端なところで止まっていた服を脱ぎ、上裸になったイースが笑う。

「そっかーエイト君か。よろしゅうな。さ、僕に見惚れてんと、さっさと服脱ぎやぁ。このシャワールーム、人数に対して狭いから、はよしないっぱいになってまうで」

「あ、はい」

 さっさとボトムも脱ぎ出したイースに頷き、エイトも服を脱ぎ始める。このシャワールームは棚に服を置いておく造りらしい。背後でイースが扉を開けて、シャワーを浴びに行った気配がする。彼の言葉の通りなら、使用人の仕事がほとんど終わったはずのこの時間は、これから混み合うことになる。

 あまり知らない人間が密集している状態に良い気持ちもしないので、エイトもさっさとシャワーを浴びることにした。身体にフィットするお気に入りの服を畳んで――エドワードに畳み方を教えられた。さすがに使用人として、それくらいはしろとのことらしい――、シャワールームへの扉を開ける。

 大理石に囲まれた空間には先程の脱衣所で慣れたつもりだったが、シャワールームは更に豪奢な造りになっていた。使用人達が使う箇所の装飾とは思えない。本当の金持ちの成せる業に、エイトは息を呑んだ。つまみを捻ればお湯が出る。夢のような環境は、想像以上の贅沢な空間として目の前に存在している。

 一番奥のスペースで、イースがシャワーを浴びているようだった。扉から入って左右に並ぶようにして五人分、つまり十人が同時にシャワーを浴びることが出来る造りのシャワールームで、個別スペースとして身体の大部分が隠れるように仕切りがされている。見えているのは足首だけだが、あの白い足はきっとイースのものに違いない。

 シャワーが立てる水音のみが、空間に響いている。隣にわざわざ行くのもあれなので、手前のシャワーを使用しようとしたエイトの耳が、水音とは異なる微かな雑音を拾った。

 ジー、ジーと、微かな機械音。水滴や湯気が付きもののシャワールームに、そんな機械音が響くことはおかしい。耳を澄まさなければ聞き落とすような微かな音だが、エイトの野生の勘はそんな小さな違和感も聞き洩らさない。

 この空間の音の発生源は奥だけだ。一番奥の、シャワーの音。そこに混じって機械音は聞こえてくる。

 足音を忍ばせて、エイトは奥のスペースに近づいていく。奥の仕切りから見える足は、やはりイースのもので間違いない。他に何か機械の類が置いてあるということもなさそうだ。

 個別のスペースは背中の部分に仕切りはない。中央の歩くスペースからは丸見えなので、そこから覘き込めば済む話なのだが、このシャワールームには正面に鏡が設置されていた。そのため背後から忍び寄ったとしても、鏡越しにこちらの姿を確認されてしまう。

「……」

 エイトがどうするべきか悩んでいると、シャワーの音が止まった。キュッキュとつまみを捻る音がして、シャワーを終えたイースが顔を出す。

「っ……なんやエイト君か。音がせんからまだ脱衣所でのんびりしとるんかと思ったわ。こんな豪華な内装見る機会なんかなかなかないからなぁ。どや? 凄いやろ?」

「ああ、まあ……」

 笑いながらそう言ってくるイースに、エイトは曖昧な返答しか出来なかった。イースは何も持っていなかった。このシャワールームには身体や髪を洗うシャンプー等は完備されているので、そのことに関して不自然はない。だが、彼の唯一、瞳だけは例外だった。

 イースの瞳には、常人ではない紋様が浮かび上がっていた。それは仕切りから顔を出したほんの一瞬の出来事で、普通の人間ならば見間違いだろうと考えるような些細なことだった。しかし、エイトは彼から流れ出る“常人とは違う気配”を既に感じ取ってしまっている。

「……なんや? 言いたいことでも、あるん?」

 曖昧な返答だけをして通路を譲る気配のないエイトに、イースの表情が歪む。人懐っこい先程までの空気が一転し、冷たく突き刺さるような、他者を寄せ付けない強者の気配を孕ませる。

「……あんた、何モンなんだ?」

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